第15回「五百羅漢さゞゐ堂」(夏66景) [広重・名所江戸百景]
(2011/09/10アップ)
2011/09/07(水)この項は前々回の”東京スカイツリー(本村橋から)”から続きます。
本村橋から東京スカイツリーを眺め、「五百羅漢さゞゐ堂」が描かれた舞台へやって来ました。
羅漢は阿羅漢の略で、仏教の修行を積んだ最上位の聖者のことを言います。その聖者の五百体の像をかつては祀っていましたが、これが五百羅漢です。
広重の絵の、右の高い建物がさざえ堂(さゞゐ堂)です。この建物の階段は、さざえと同じようならせん状になっているので、さざえ堂と称されました。さゞえの”え”が”ゐ(い)”になってるのは、江戸なまりだそうです。
五百体もの木像があるので、その中には、亡くなった身内や知人とそっくりな像があり、ここに来れば、そのそっくりな像に会えるということで人気を博しました。
また、このさざえ堂は、三階建ての高楼で、絵からも分かるように眺望が良いことでも人気となりました。
#01、現在の羅漢寺(1)(羅漢寺の反対側の総合区民センターの4Fから撮影)
現在は、4Fから眺めても、眺望はほとんど望めません。
#02、現在の羅漢寺(2)(総合区民センターのエントランス(2F)付近から撮影)
羅漢寺の左の交差点は”区民センター前”交差点。江戸期の羅漢寺は六千坪以上の敷地がありました。この、画面に見えてる交差点や寺の前の道路など、かつては寺の境内でした。
#03、羅漢寺と「五百羅漢」跡石碑
この石碑は、総合区民センターの前庭にあります。
#04、「五百羅漢跡」石碑と「江東区教育委員会の史跡説明板」
石碑の右に、江東区教育員会の史跡の説明板があります。そこに記載の文章を以下そのまま掲載します。
#05 羅漢禅寺(区民センター前交差点から撮影)
#06 羅漢禅寺(拡大)
江東区教育委員会の説明板によると、羅漢寺は目黒区に移転したということですが、現在もこの地には「羅漢禅寺」があります。
明治に移転したという羅漢寺と現在ある羅漢禅寺とはどういう関係かは分かりませんでした。
現在の、羅漢禅寺の縁起等を書いたものがないかどうか、探しましたがありませんでした。
#07 羅漢寺門柱
門柱には「曹洞宗 羅漢寺」と刻んであります。
元々あった羅漢寺は黄槃宗であるので、同じ羅漢寺と称しても、元々の羅漢寺とは異なると思われます。
#08 羅漢禅寺(2000年5月4日撮影)
これは、11年前撮影の写真ですが、大きな変化は無いようです。
2011/09/07(水)この項は前々回の”東京スカイツリー(本村橋から)”から続きます。
本村橋から東京スカイツリーを眺め、「五百羅漢さゞゐ堂」が描かれた舞台へやって来ました。
羅漢は阿羅漢の略で、仏教の修行を積んだ最上位の聖者のことを言います。その聖者の五百体の像をかつては祀っていましたが、これが五百羅漢です。
広重の絵の、右の高い建物がさざえ堂(さゞゐ堂)です。この建物の階段は、さざえと同じようならせん状になっているので、さざえ堂と称されました。さゞえの”え”が”ゐ(い)”になってるのは、江戸なまりだそうです。
五百体もの木像があるので、その中には、亡くなった身内や知人とそっくりな像があり、ここに来れば、そのそっくりな像に会えるということで人気を博しました。
また、このさざえ堂は、三階建ての高楼で、絵からも分かるように眺望が良いことでも人気となりました。
#01、現在の羅漢寺(1)(羅漢寺の反対側の総合区民センターの4Fから撮影)
現在は、4Fから眺めても、眺望はほとんど望めません。
#02、現在の羅漢寺(2)(総合区民センターのエントランス(2F)付近から撮影)
羅漢寺の左の交差点は”区民センター前”交差点。江戸期の羅漢寺は六千坪以上の敷地がありました。この、画面に見えてる交差点や寺の前の道路など、かつては寺の境内でした。
#03、羅漢寺と「五百羅漢」跡石碑
この石碑は、総合区民センターの前庭にあります。
#04、「五百羅漢跡」石碑と「江東区教育委員会の史跡説明板」
石碑の右に、江東区教育員会の史跡の説明板があります。そこに記載の文章を以下そのまま掲載します。
五百羅漢跡(ごひゃくらかんあと) 大島四の五。五百羅漢は、元禄八年(1695)に松雲元慶禅師によリ創建された黄槃宗(おうばくしゅう)の寺院です。禅師は貞享年間(1684~88)に江戸へ出、元禄四年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄八年、将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺(てんおんさんごひゃくあらかんじ)の寺号と六千坪余の寺地を賜リここに自ら彫像した羅漢像など五三六体を安置しました。当寺の三匝堂(さんそうどう)は、廊下がらせん状に三階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、または三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつてした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が二基現存しています。羅漢寺は明治二十年(1887)本所緑町(現墨田区) へ移リ、さらに同四十二年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和三十三年に建てられたものです。平成二十年三月江東区教育委員会
#05 羅漢禅寺(区民センター前交差点から撮影)
#06 羅漢禅寺(拡大)
江東区教育委員会の説明板によると、羅漢寺は目黒区に移転したということですが、現在もこの地には「羅漢禅寺」があります。
明治に移転したという羅漢寺と現在ある羅漢禅寺とはどういう関係かは分かりませんでした。
現在の、羅漢禅寺の縁起等を書いたものがないかどうか、探しましたがありませんでした。
#07 羅漢寺門柱
門柱には「曹洞宗 羅漢寺」と刻んであります。
元々あった羅漢寺は黄槃宗であるので、同じ羅漢寺と称しても、元々の羅漢寺とは異なると思われます。
#08 羅漢禅寺(2000年5月4日撮影)
これは、11年前撮影の写真ですが、大きな変化は無いようです。
第14回「小奈木川五本まつ」(秋97景) [広重・名所江戸百景]
(2011/9/6アップ)
話は、若干前後しますが、先週(8月31日)、都内に所用があり、その帰路、広重の江戸名所百景”小奈木川五本まつ”の跡地に行きました。広重が描いた五本松は、都営地下鉄・住吉駅の南方450m小名木川に架かる小名木川橋近辺にあったと伝えられています。
広重の描いた松は、明治になって枯れてしまったそうです。
かつては、小名木川沿い小名木橋の東側にあったそうですが、現在小名木橋の北東詰がミニ公園のようになっていて、松が数本植えられています。
#01 小奈木川五本まつ全景(平成21年9月11日撮影)
小名木川橋から東方を望む。
左の岸のちょっと先に五本松があったとのこと。
画面左が小奈木川五本まつ跡地のミニ公園(見にくいですが画面左端に高さ1m程の石碑が写ってます)。
小名木川は小奈木川とも書き小名木川は、徳川家康が下総国行徳から江戸へ塩を運ぶために小名木四郎兵衛という者に命じて掘らせたので、彼の姓をとって小名木川と名付けられました。
江戸が発展するにつれて、江戸と千葉方面(行徳、国府台、野田、成田、銚子など)を結ぶ水運交通の重要な水路となりました。塩だけでなく、いろいろな物資の輸送や観光客の往来に利用されました。
広重の絵にも、松の下を行徳方面に向かう船が描かれています。
五本松については、小名木川橋北東詰めのミニ公園の中に、高さ1mほどの石碑があり、その碑文に五本松の事が書いてあるので、その文を、そのまま次に掲載します。
ここへは、2年前と11年前も来て、写真を撮っています。
以下、写真で五本松史跡、小名木川、小名木川橋の11年の変遷を紹介致します。
<五本松跡記念のミニ公園>
#02、平成12年5月4日(朝)撮影(フィルムカメラで撮影)
このミニ公園は、小名木川橋の北東詰めにあります。
松の木がまだ若いのか、葉があまり茂ってません。
#03、平成21年9月11日(午後)撮影(デジカメで撮影)
#01より南側からミニ公園を撮影、#01から9年経過し葉が大分茂って来てます、正面奥の石垣の所は、ベンチになっていて座れます。画面右の石の柱は、小名木川橋の親柱です。
#04、平成23年8月31日(午後)撮影(携帯カメラ)
意識したわけではありませんが、撮影アングルが、偶然11年前とほぼ同じアングルでした。
葉の茂り具合が異なる以外は、ほとんど変化は見られませんでした。
※なぜ携帯での撮影かというと、デジカメは持参したのですが、SDカードを入れ忘れて、撮影出来なかっただけの話です。
<ミニ公園から小名木川の水面を望む>
#05、平成12年
#06、平成21年:小名木川橋の際から小名木川橋の親柱と小奈木川を撮影(一脚を利用した簡易俯瞰撮影)
#07、平成23年
<小名木川橋から東方を望む>
#08、平成12年
五本松は、小名木川の北岸にあったとのことなので、画面の左側の岸にあったことになりますが、現在はどこにあったかを示す手掛かりは、ありません。
#09、平成21年
小名木川橋の、中間当たりの欄干に、広重の”小奈木川五本まつ”の銅のレリーフがはめ込んであります。
#10、明治期に撮影された”五本松”の写真。
これは、ミニ公園内にある、史跡説明板に貼られている写真です。
江戸期の松は、明治に枯れましたが、江東区はこの地を史跡として、ミニ公園を作ったり、松を植えたりして記念しています。
話は、若干前後しますが、先週(8月31日)、都内に所用があり、その帰路、広重の江戸名所百景”小奈木川五本まつ”の跡地に行きました。広重が描いた五本松は、都営地下鉄・住吉駅の南方450m小名木川に架かる小名木川橋近辺にあったと伝えられています。
広重の描いた松は、明治になって枯れてしまったそうです。
かつては、小名木川沿い小名木橋の東側にあったそうですが、現在小名木橋の北東詰がミニ公園のようになっていて、松が数本植えられています。
#01 小奈木川五本まつ全景(平成21年9月11日撮影)
小名木川橋から東方を望む。
左の岸のちょっと先に五本松があったとのこと。
画面左が小奈木川五本まつ跡地のミニ公園(見にくいですが画面左端に高さ1m程の石碑が写ってます)。
小名木川は小奈木川とも書き小名木川は、徳川家康が下総国行徳から江戸へ塩を運ぶために小名木四郎兵衛という者に命じて掘らせたので、彼の姓をとって小名木川と名付けられました。
江戸が発展するにつれて、江戸と千葉方面(行徳、国府台、野田、成田、銚子など)を結ぶ水運交通の重要な水路となりました。塩だけでなく、いろいろな物資の輸送や観光客の往来に利用されました。
広重の絵にも、松の下を行徳方面に向かう船が描かれています。
五本松については、小名木川橋北東詰めのミニ公園の中に、高さ1mほどの石碑があり、その碑文に五本松の事が書いてあるので、その文を、そのまま次に掲載します。
<五本松跡・石碑・碑文>場所:小名木川橋北東詰め江戸時代この付近から東にかけて小名木川の河畔に老松があり小名木川の五本松として有名になり地名にもなったほどであってその一本の松が九鬼家の屋敷から道を越え水面を覆っている風景が江戸名所図会に描かれ錦絵などにも取材されたが明治時代になって枯れてしまった。昭和33年10月1日、江東区台12号
ここへは、2年前と11年前も来て、写真を撮っています。
以下、写真で五本松史跡、小名木川、小名木川橋の11年の変遷を紹介致します。
<五本松跡記念のミニ公園>
#02、平成12年5月4日(朝)撮影(フィルムカメラで撮影)
このミニ公園は、小名木川橋の北東詰めにあります。
松の木がまだ若いのか、葉があまり茂ってません。
#03、平成21年9月11日(午後)撮影(デジカメで撮影)
#01より南側からミニ公園を撮影、#01から9年経過し葉が大分茂って来てます、正面奥の石垣の所は、ベンチになっていて座れます。画面右の石の柱は、小名木川橋の親柱です。
#04、平成23年8月31日(午後)撮影(携帯カメラ)
意識したわけではありませんが、撮影アングルが、偶然11年前とほぼ同じアングルでした。
葉の茂り具合が異なる以外は、ほとんど変化は見られませんでした。
※なぜ携帯での撮影かというと、デジカメは持参したのですが、SDカードを入れ忘れて、撮影出来なかっただけの話です。
<ミニ公園から小名木川の水面を望む>
#05、平成12年
#06、平成21年:小名木川橋の際から小名木川橋の親柱と小奈木川を撮影(一脚を利用した簡易俯瞰撮影)
#07、平成23年
<小名木川橋から東方を望む>
#08、平成12年
五本松は、小名木川の北岸にあったとのことなので、画面の左側の岸にあったことになりますが、現在はどこにあったかを示す手掛かりは、ありません。
#09、平成21年
小名木川橋の、中間当たりの欄干に、広重の”小奈木川五本まつ”の銅のレリーフがはめ込んであります。
#10、明治期に撮影された”五本松”の写真。
これは、ミニ公園内にある、史跡説明板に貼られている写真です。
江戸期の松は、明治に枯れましたが、江東区はこの地を史跡として、ミニ公園を作ったり、松を植えたりして記念しています。
第13回「昌平橋聖堂神田川(夏47景)」 [広重・名所江戸百景]
2011/8/7(日)アップ
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今回は、久々に本論のテーマでアップします。
タイトルは、「昌平橋聖堂(しょうへいばしせいどう)神田川」です。
昌平橋(しょうへいばし)と言われてもピンと来ない方が大半と思いますが、JRお茶の水駅と秋葉原駅の中間辺りで神田川に架かる橋です。広重が描いた時も現在も変わらず存続しています。
広重の絵では、画面右下隅に欄干が描かれています。これが、昌平橋の欄干です。
この昌平橋が架かる神田川ですが、ブラタモリをご覧になった方はご存知と思いますが、神田川は、江戸時代洪水防止のため掘削された人工の川です。
画面の左が上流側、右が下流側で、ずっと先で日本橋川に合流します。
また、江戸期、神田川のこの辺から、お茶の水、水道橋にかけては、今では考えられませんが、風光明媚な景勝地として、文人墨客や一般市民の清遊の地でした。
広重はじめ、多くの画家がこの辺の風景を描いていて、江戸時代もメジャーな場所でした。
さて、聖堂(せいどう)ですが、聖堂とは、孔子とその弟子を祀ったお堂です。
この、境内には、昌平黌(こう)という、幕府の学問所があり、幕臣達に朱子学(儒学)を教えていました。
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昌平とは、孔子の生れ故郷、昌平郷に因んで名づけられました。
また、お茶の水駅の東側にある橋は聖(ひじり)橋と言いますが、聖堂に通ずる橋で、聖橋と名付けられました(一般市民の公募をした上で)。
聖堂は、広重の絵では、直接は描かれていません。外殻の段々状の練塀が描かれています。この練塀は今でも残っています。
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この絵も、広重特有の俯瞰で眺めた絵となっています。
これと同じアングルで撮るために幸いにも、昌平橋の南詰めの所を中央線が走っています。
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#01は、中央線車内から、広重と同アングルで撮影したものです。スチール写真だと、走行中の電車からでは、シャッターチャンスが一瞬のため撮影困難なので、動画で撮影したものからスチールに落としました。
動画から落とした写真なので、画素が粗くアングルとしては、ジャストですが、画質は悪いです。
対岸の、緑の鉄橋は、総武線の鉄橋です。
この写真では写っていませんが、秋葉原の電気街は昌平橋の右奥側に広がっています。
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#02は、フィルムカメラ時代に、同車内から撮影したもので、シャッターのタイミングとしては、遅れていて、神田川の水面が写っておらず、アングルとしては、失敗写真です。
地上からの撮影も試みました。
#03は、一脚にカメラを付け、腕を伸ばして、出来るだけ高い位置から撮影を試みました。
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いくら腕を伸ばしても、せいぜい3m程度の高さで、中央線車内のアングルにはかないませんでした。
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#04は、昌平橋の北詰から相生(あいおい)坂方向を見た写真です。
また、左側高架にオレンジラインの電車が走っていますが、この電車が中央線の上り電車で、写真#01、#02はこの電車から撮影したものです。
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#05は、広重の画面中央に相当する部分を、総武線車内(千葉方面行)から撮影したものです。広重時代は、坂の中腹が描かれていますが、現在では、川沿いに建物が建っているので坂の中腹は見えません。この画面では、聖堂の屋根が写っています。
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#06は、聖堂の外郭の練塀を相生坂の中腹で撮影した写真です。
この練塀は、詳しいことは分かりませんが、外から見た感じでは、瓦と同じ素材の板状のものを、しっくいのようなものでサンドイッチ状に練り固めてあるようで、厚さもかなり厚く大変強固な構造のようです。
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#07は、相生坂の頂上付近をお茶の水駅構内から撮影したものです。
広重の絵に見られる、練塀が段々状になっている状態が、ここからだと良く見えます。
手前の、赤いラインの電車は、地下鉄丸ノ内線です。一瞬神田川を渡る所で、地上に出て、また本郷台地で地下潜ろうとしています。
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最後に、広重の絵のように、神田川と相生坂が同時に見えるアングルを探しました。それは、総武線でお茶の水から秋葉原に行く途中に一瞬だけ見える位置がありました。
これも、スチール写真で捕えるのは、困難なので、動画から落としました。
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今度、機会があったら、#01と#08の写真に相当するスチール写真を取り、鮮明な画像の写真に差し替えたいと思います。
END
第12回 「堀切の花菖蒲(夏64景)」 [広重・名所江戸百景]
2011/6/30(木)アップ
ほぼ、半年ぶりに、本業(名所江戸百景)のブログアップです。ネットの友人が“菖蒲園に行って来ました。”と報告があったので、ハッとして急遽、広重の「堀切の花菖蒲」をアップすることにしました。
今回、"現在の分"の写真は、3年前に撮った写真を使う事にしました。蔵出しの写真のみの使用で申し訳ありません。
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写真#01は、11年前の6月3日に撮影したものです。その日は、“菖蒲まつり”の初日(または翌日)で、きたろうは勇んで出かけて行きました。ところが、菖蒲は、ほとんど咲いていませんでした。
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#01堀切菖蒲園(園内から南西方向を眺む)(撮影:平成12年6月3日)
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次の写真は、#01とほぼ同アングルの、平成20年6月19日の写真で、菖蒲は、見頃の時期でした。手前の、黒い名札は、菖蒲の品種を示している札です。
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#02 見頃を向かえた堀切菖蒲園(撮影:平成20年6月12日)
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次の#03の写真は、11年前、園内ほとんど菖蒲が咲いてないなか、貴重な早咲きの菖蒲の写真です。
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#03 早咲き(?)の菖蒲(堀切菖蒲園・園内から北東方向を眺める)(撮影:平成12年6月3日)
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#04は、#03とほぼ同アングルの3年前の写真です。この時は木曜日にもかかわらず、園内は満員状態という感じでした。
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#04 菖蒲の見頃を迎えた堀切菖蒲園〔撮影:平成20年6月19日(木)〕
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ここで、堀切菖蒲園の歴史を、ひも解いてみたいと思います。と言っても、園内にあった、葛飾区教育委員会の、説明板の文を以下そのまま掲載致します。
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「この地にはじめて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積(あさか)沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804~1817)堀切村の百姓伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本万年録三郎から、「十二一重」を花菖蒲の愛好家松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け繁殖させたのが始まりとも言われています。
堀切で最初の菖蒲園は、江戸時代末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園、花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。
堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また明治には「東京遊行記」(明治39)『東京近郊名所図絵(明治43年)」などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され。全盛期は明治中期から大正末期頃だと思われます。
園内では「十二単衣」「酔美人」「霓裳羽衣(げいしょううい)」など稀少な品種も多くみられます。」
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また、この説明板には、この菖蒲園が“葛飾区指定名勝”に昭和52年(1977)3月19日指定された旨も記載されていました。
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以下は、3年前撮影の園内の点景をランダムに掲載致します。
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#05 堀切菖蒲園・北西方向を眺める
(高速道路の向こう側が、隅田川です。)
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#06 菖蒲園の中で、広重の描いた菖蒲と最も似ていた花
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#07 広重の描いた花に似た花の品種名は、奇しくも“江戸紫”であった。
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#08 この日撮影した中で、もっとも華やかな菖蒲の写真です。
後ろを歩く二人の女性がまたいい雰囲気をかもし出しています。
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#09 入口入ってすぐの所にある葛飾区教育委員会の説明板
(先程引用した説明板より大きく、菖蒲園の歴史に付いて詳しく書いてありました。)
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この説明板の表示内容は末尾にテキストで表示しました。
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#10 手持ちの資料から、菖蒲園の古写真を一枚アップします。
撮影年が今一はっきりしません。当時は、園内に築山があったんですね。
いま、園内は、ほとんど平です。
この園内には、200種、6,000株の花菖蒲が植えられています。
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本文END
第11回「四ツ谷内藤新宿(秋86景)」 [広重・名所江戸百景]
2010/12/07(火)アップ
今回は、都庁の展望室からダイヤモンド富士を撮りに行く前に、「四ツ谷内藤新宿」の現在を撮って来ましたのでアップします。
超近景に、馬のお尻を大きく配し、遠景に内藤新宿の宿場を描いた絵は、広重の「江戸名所百景」の中でも、近景と遠景の対比が際立っている絵の一つです。
内藤新宿とは、文字通り内藤の新しい宿(宿場)であり、その云われは、新宿1丁目1-1(地図#01中の地点G)付近にある「内藤新宿開設300年記念碑」に簡潔に記してありますので、次にそのまま引用致します。
「元禄十一年(1698)六月、浅草阿部川町の名主・西松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三T目交差点忖近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。この宿場は、享保三年(1718)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、平成十年(1998)開設三百年を迎えることとなった。(以下略)」
※図をクリックすると、拡大表示されます(他の写真も同様)
・・・
それでは、内藤とは何か?ということになりますが、それは「幕府が信州高遠藩内藤若狭守の広大な下屋敷の一部を返還させて、町屋とともに馬継ぎの施設を設けて宿駅としたものである。内藤家の屋敷跡に新設された宿駅のため内藤新宿と呼ばれた。」(文献A)ということです。
宿場新設願いの表向きの理由は「高井戸官までの距離が開きすぎるから」ということですが、別の狙いもあり、その狙いは、宿場に飯盛女を置いて、これ目当ての客を宿泊させることでした。その後、飯盛女の客引き様があまりにも目立も過ぎため中途廃駅に追い込まれました。明和九年(1772)に宿駅は復活し、一日五十人の飯盛女が許されます。冥加金を支払いつつ「淫売女には之無き」と言い張りつつ、内藤新宿は繁盛をつづけてゆきました。(文献B)このような宿駅の繁昌振りを見て「四谷新宿馬糞の中で、アヤメ(遊女を指した)咲くとはしおらしい」という潮来節の替え唄が流行しました。
広重はこのような唄を意識してか、前景に馬の尻を大きく写し出し、路上には散乱する馬の糞を描いています。道路の左側には茶店や旅龍屋が続き、その先に黒々とした内藤家の森が見えています。この道の奥は石畳となり、そこに四ツ谷大木戸がありました。(文献A)
・・・
前置きが長くなりましたが、メインテーマである、広重が描いた絵の視点はどこかと言うことですが、文献Aは、地図#01の地点Aから東向きとしています(新宿三丁目交差点付近)。文献Bでは、地点Dから東向きに描いたとしています(新宿二丁目交差点附近)。宿場は、上記の300年記念碑に記されているように、現在の新宿一丁目から三丁目まであったので、地点Aでも地点Dでも良いのですが、きたろうは宿場のほぼ中心の「地点E(新宿2丁目1 -13)から東向き」を広重の視点としました。現在の、そこからの映像が写真#02です(平成21年撮影)。
江戸時代、ここは内藤新宿の仲町に相当しますが、現在、江戸時代の面影は、これっぽっちもありません。この近辺で江戸の面影・雰囲気を残す物を探しまわりました・・・ありました、新宿末広亭です。末広亭は、新宿3-6-12で地図#01のB地点で、新宿大通りのみずほ銀行のところから入ったとこにあります。宿場の建物とは一寸違いますが、江戸情緒は十分味わえると思いますが如何でしょうか?
新宿一丁目、新宿御苑大木戸門付近にある「内藤新宿開設300年記念碑」
余談ですが、第9回の「玉川堤の花」の広重の絵は、この宿場の南側を流れていた玉川沿いの道から西方向を描いた絵になります。
さて、以下新宿大通りの明治、大正、昭和の写真を、手持ちの文献及び、ネットからピックアップし、きたろう撮影の平成の写真を加え次に展示します。
<写真#05>
この写真のキャプションに、三宅克乙著「籠の中」よりとあります。この写真を見ると、家並は、江戸時代の延長のように見えますが、明治22年には、現在の中央線に相当する鉄道が新宿→八王子間で開通しています。この頃から、新宿は、近代物資輸送の中継点としての町に変貌していきました。
この写真は、文献Bからの転載ですが、原版は「今昔対照江戸百景」という本に掲載されています。この写真は、新宿大通り(新宿一丁目)の江戸期の旅籠の名残りの部分を撮影したものです(#01の地図上のF地点)。写っている建物は妓楼であり、その手前に馬車が動いています。しかし、決定的な時代の変革も写っていて、通りにはレールが走っています。これは、1903年(明治36年)に開通した市電のレールです(開通時は 東京市街鉄道)。
以下の#07から#09は、ほぼ同じ地点(#01のCまたはD地点)から西方・伊勢丹方向を写したものです。
この写真に写っているビルの内、伊勢丹の建物は現在まで続いています。この建物は昭和8年(1933)年に開店した伊勢丹新宿店本館で、外観はアールデコ様式になっています。この建物は、 東京都の歴史的建造物に選定されているとのことです。
この写真は、フィルムカメラで撮影したので色調がくすんでいます。ここに写っている看板で店名や銀行名が読み取れるものは、ほとんど現在も続いています。
現在の、新宿三丁目交差点付近です。ここと近辺を撮影したあとダイヤモンド富士を狙うため、都庁の展望室に向かいました。 本文END
第10回「市ヶ谷八幡(春41景)」を撮る [広重・名所江戸百景]
2010/4/30(金)アップ
市谷八幡は、文明8年(1476年)に太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡を勧請して創建しました。もとは、市谷御門内にありましたが、寛永年間(1624~1644)に外濠を工事した折にここに(新宿区市谷八幡町15番地)移されました。(#00ア)
※画面をクリックすると拡大表示されます(他の写真も同様)
この絵の右上端が市谷八幡本殿、そのすぐ手前左の小さい屋根の社は茶の木稲荷、そのすぐ手前の鳥居が新宿区指定有形文化財の銅鳥居です。階段下は、水茶屋、芝居小屋、楊弓場等が軒を連ね江戸有数の歓楽街を形成していました。
手前の水面は、江戸城外濠の水面、右下に斜めに道路のようなものが見えているのは、市谷御門に渡って行く道の一部です(現在の市ケ谷橋)。
画面左上の火の見櫓と白壁は、尾張屋敷のものです。
市谷亀が岡八幡付近の航空写真(撮影ポイント)(#00イ)
広重の「市ヶ谷八幡」と同じ視点の写真(#01)
広重と同一視点からの現在の眺めでは、外堀通り沿いの高いビルでさえぎられて市ヶ谷八幡は全く見えません。広重の絵と、この写真の共通点は、外堀通りと外濠の水面だけです。画面右下の斜めに見える部分は、広重の時代は石垣を積み上げた堤状の道なのに対し(写真#07参照)、現在この部分は橋になっているので、見た目は同じですが土木建築上は異なっています。
市ヶ谷八幡の入り口は、赤い屋上看板のビルと青い屋上看板のビルの間です。
外堀通りから市谷八幡を望む(写真#02)
市谷八幡の入り口に「亀岡八幡宮」と書かれた一対の提灯が設置されています。
市谷八幡の階段の下から(#03)
※この写真は2年前の写真です。今回、写真すべてに日付を表示していますので参照して下さい。
階段下に、「市谷亀ヶ岡八幡宮」と刻んである石標があります。勧請した鶴ケ丘八幡に対し亀ヶ岡八幡と名付けられました。
石標の上の赤い提灯の陰の社は茶の木稲荷で、眼病に霊験あらたかということで、江戸時代は多くの人が訪れたそうです。
銅の鳥居と本殿(#04)
この鳥居は銅製で、1804年に作られました。新宿区の有形文化財に指定されています。
市谷八幡本殿(#05)
この写真は11年前のフィルムカメラ時代に撮った写真です。
JR市ヶ谷駅プラットホームから市谷八幡(茶の木稲荷)を望む(#06)
後方の「東京地本」と表示された建物は、自衛隊の東京地方協力本部の建物です。
広重と同視点の現在の写真(#01)では、市谷八幡が全く見えないので、手持ちの古写真集で、市谷八幡が写っている写真を探しました。「写真で見る 幕末・明治」の43ページにその写真がありました。
明治5年(1872年)頃の市谷八幡宮と尾張屋敷(ファーイースト)(#07)
この写真は、広重が描いたときから14年後、維新後に撮られたものですが、広重が描いた光景とほとんど変わっていません。(ビューポイントもほぼ同じ)
火の見櫓、白壁の塀ははっきり写っています。八幡宮は木立の中にあり、辛うじて確認できます。銅の鳥居は確認できません。この写真では、広重の絵で、よしず張りのお休み処に相当するところ(外堀通りのお濠側)には家が連なって建てられたのが判ります。この写真の手前、現在の市ヶ谷橋に相当するところは、この時代は石垣でかためた堤状の道路であることがわかります。橋のところの人物の影な長さから、季節は夏と判断しました。
大正8年撮影市谷八幡(#08)
この写真も、広重とほぼ同視点から撮影されています。明治5年写真とくらべると、①八幡宮の外堀通りの入り口の所に鳥居が立ったこと、②外堀通りに電車が走っている(お濠側にあった家並みは消失)、③外堀通り山際の家並みの何軒かで看板をかかげた事などが変わったことがわかります。さらに、尾張屋敷の所に洋風の建物が建っています。これは、明治7年12月開校の陸軍士官学校の建物です。
写真#07は明治5年頃撮影された写真ですので、この写真の尾張屋敷は取り壊し前の最後の写真の一つと考えられます。
第9回 広重画「玉川堤の花」の舞台を散歩する [広重・名所江戸百景]
2010/4/16(金)アップ
この絵を最初見たときに、玉川が流れているということで、この絵の舞台は小金井とか立川の方かと思いました。ところが、この絵は、今の新宿御苑のところを描いたものであることが判り驚きました。玉川は、江戸に上水を供給するため、多摩郡の羽村から今の新宿御苑のすぐ北側を通り、この先にあった四谷大木戸の水番所迄掘った人工の川です。江戸時代は、水番所先からは暗渠となって江戸市中に水を供給していました。
今も、玉川上水はありますが杉並区久我山2丁目(中央高速・高井戸IC付近)の所から暗渠になっています。
この絵見ると、玉川の流れは右にカーブしています。(ものの本によるとこの絵は東から西方向を描いたとのこと)桜並木も川の堤に植えられているので同様に右カーブしています。川の右側は町屋(旅籠)で左側は武家屋敷(内藤駿河の守の下屋敷または家臣の家)です。桜は満開で、多数の花見の客が立って見ています。子供や赤ちゃんもいますので、家族ずれでも見に来ているということです。
この場所は、本テーマの撮影で何度か訪れており、広重と同一視点では、玉川の流れが無いことは経験済なので、今日は(4月6日)先にこの絵のイメージの再現を行うことにしました。
一番左に道路、次に桜、右側に玉川上水という構成の景色を小金井にターゲットを絞り小金井橋から玉川上水沿いに西方面を探索しました。一番このイメージに近いところが貫井橋の一寸先で見つかり、撮った写真が、写真#01です。
※画面をクリックすると拡大表示出来ます(他の写真も同様)。
写真#01では、左に道路、中央に桜並木、右に玉川と広重の絵のイメージにぴったりでした。残念ながら、玉川は、3m程下を流れているため水面は写りませんでした。また、道はカーブしていませんでした。(途中、右カーブしている所もありましたが、そこの桜はあまり咲いていなかったので残念ながらイメージと合わず割愛)。
小金井橋から写真を撮影した所まで約800mですが、その間桜の咲き方は大分むらがあり、「咲きはじめ」の状態から「満開」の状態までと様々でした。歩道のベンチに座っていた地元の人に聞いて見ましたが明確な回答は得られませんでした。小金井橋から貫井橋まで平均すると、6~7分咲きくらいになると思われました。(写真#02、03)
広重の絵のイメージの場所を、地図で探したときはこの通り(上水桜通り)はぴったりの場所でしたが、実際に来てみると玉川の流れが見えず、広重の絵のイメージ再現は今一歩でした。
次に、新宿に戻り、広重がかつて描いたであろうと言う場所を探しました。ポイントは、東から西方向を見て右カーブしている場所です。その場所は2箇所ありました。うち1箇所は、住所でいうと新宿区新宿1-6です。(写真#04)
もう1箇所は、ここから300m東の新宿御苑の大木戸門の近辺です。(写真#05)
どちらが、広重の視点に近いかということでは、写真#04の方です。というのは、現在の大木戸門のところは古地図で見ると、ここは両側とも武家屋敷なので、写真#05の可能性は低いからです。
新宿の桜は、葉桜状態で散り始めていました。(写真#06)
この辺では玉川の流れは暗渠され今でも流れているのか、それとも流れはもう無いのか良く分かりませんが、新宿御苑の散策道(#04の道路のすぐ南側)に玉川の流れを復活する工事が計画されています。その完成予想図が写真#07です。
この工事の工期は、別の看板に平成21年11月から平成22年3月と書いてあるので完成していても良いはずですが、工事はあまり進捗しているようにはみえませんでした。大分、工期が遅れているようです。
この、工事が完成すると散策道に模擬玉川の流れが加わり雰囲気の良い散歩道になると期待されます。残念ながら、桜並木は再現されません。
昔、ここの玉川の堤は桜の名所で大勢の人々で賑わっていました。今は、新宿御苑への来訪者で賑わっています。(新宿御苑大木戸門)(写真#08)
新宿御苑の大木戸門のそばに、「内藤新宿開設三百年記念碑」がありました。この碑に、広重の絵の画面右側に描かれた旅籠に関する記述もありました。(この碑に描かれた絵も広重の絵のようである)(写真#09)
この後、次の広重の絵の舞台の市ヶ谷に向かいました。
第8回「目黒新富士(春24景)」を訪ねる [広重・名所江戸百景]
2010/4/9アップ
このミニ富士山は、徳川幕府の幕臣で、北蝦夷や千島列島を探査したことで知られる近藤重蔵(じゅうぞう)の別宅敷地に築かれた人造の山です。ここは、別所坂を登りきったところで住所は目黒区中目黒2-1-23、ここにミニ富士山を文政二年(1819年)に築きました。前回紹介した現キングホームズにあったミニ富士山は文化九年(1812年)に築かましたが、その7年後にここの富士山が築かれました。それ以来、現キングホームズにあったミニ富士山は目黒元富士、ここのミニ富士山は目黒新富士と呼ばれるようになりました。近藤重蔵の屋敷は元々高台で、さらに元富士をしのぐ程の高さの山を築いたので、新富士からの眺めは良く武州第一と称されました。
※画像をクリックすると、拡大表示します。(他の写真も同様)。
頂上からは、北西に武甲山、秩父の山々、南西に富士山、大山、丹沢山塊、南東に上総の山々を眺める事が出来ました。
広重の絵で、目黒新富士の山腹右、遠方に見える大きい屋根は祐天寺の屋根と推定されます。
また、目黒新富士の中ほどに、人の背丈に満たない祠と石碑のようなものが見えますが、これらは富士講再興の祖といわれた身禄行者(みろくぎょうじゃ)を祀った祠や「南妙法蓮華経」「小御岳(こみだけ)」「文政二年吉日戌申」などの銘のある三つの石碑とおもわれます
。目黒新富士の手前の川は、玉川用水を水源とする三田用水です。三田用水は、前回紹介した旧朝倉家住宅の方から、渋谷区と目黒区の区界の尾根沿いに流れ、新富士の麓を通って三田へ流れていました。(上の地図で緑色の線が区界です)
この用水は江戸時代から昭和50年迄、農業用水や恵比寿のビール工場の雑用水に使われていましたが昭和50年に廃止になりました。
目黒新富士の絵でも花見をする人や、ミニ富士登山をする人々が描かれています。
近藤重蔵の屋敷は、近藤重蔵の息子の代で、人手に渡り大正の頃は笹間家が所有との記録もあります(脚注)。
その後、昭和34年この地に、国際電信電話㈱目黒研究所が建設されるに伴い、目黒新富士は姿を消しました。山腹にあった石碑は、同構内に残されました。
7年前(2003年)、この地を訪問した時の写真が#01ですが、画面右の方に小さく国際電信電話㈱目黒研究所改め「KDDI研究所」と表示がしてありました。
さらにその後、2006年マンション(テラス恵比寿の丘)が建設され現在に至っています。
目黒新富士の跡地(目黒区中目黒2-1-23)現、テラス恵比寿の丘(写真#02)
広重の視点と同じ視点で写真を撮るという命題ですが、目黒新富士の絵を見ると、ミニ富士の山頂よりも高い視点から描いています。この近辺で、このような高い視点から写真が撮れるような適当な場所は無く、同じ視点での写真撮影は断念しました。せめて、広重が描いた方向と同じ方向で写真を撮ることにしました。広重の絵では、本物の富士山が描かれています。ということは、西南西方向を描いていることになります。目黒新富士跡地の近辺から、南南西方向を撮った写真が写真#03です。
上の写真で、このマンションのすぐ右側(西側)に、都市計画法に基づく公開通路が設けられており、この公開通路はマンションの南西隅にある「目黒区立 別所坂児童遊園」に繋がっています。
公開通路から南方向を撮った写真です。(写真#04)
高台にあるためか、桜は3~4分咲きと、途中見て来た目黒川の桜よりは開いていませんでした。このショットは、一応広重の絵のある桜のイメージ再現のつもりです。
児童遊園から南南西方向の水平遠望です(写真#05)
この日は大気が比較的クリアーで、大山、丹沢の山並みが見えました。(写真#06)
ということは、富士山が見えても良いはずですが写真には写っていませんでした。
(ビルの陰で見えないのかも・・・)
児童遊園から西方向の水平遠望です。(写真#07)
画面左寄りの高層の建物は、中目黒駅近くに出来た「中目黒アトラスタワー」です。
児童公園の南隅に、教育委員会の説明板と石碑がありました。(写真#08)
目黒区教育委員会の「目黒新富士」に関する説明板(写真#09)
山腹にあったとされる石碑は、この説明板の右に置かれていました。(写真#10)
「南妙法蓮華経」の銘がある石碑は、3つの石碑の左側にありました。
この石碑は、国際電信電話㈱&KDDIがあった時代には、会社の構内にあり、一般公開はされていませんでした。マンション建設時に児童公園に移され、一般公開されるようになったことは、歴史ファンとしては喜ばしいことです。
公開通路から、下の別所坂を撮った写真です。(写真11)
結構急な坂です。
新富士があった場所を、北から見た写真です。(#12)
中央の建物は、酒販会館恵比寿寮その右奥がテラス恵比寿の丘です。手前に見える車の数m向こうが区界で、こちらが渋谷区、向こう側が目黒区になります。この辺に三田用水が通っていたと思われます。
テラス恵比寿の丘から別所坂へ下りる階段のところにある「目黒区みどりの散歩道」の看板(写真#13(1)&(2))
※この看板は、写真#03に小さく写っています。
この説明文中「平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。」とありますが、近くとは、全国小売酒販組合の敷地で、写真#12の中央から左手の辺りと思われます。
目黒新富士の探訪は以上です。
この後、目黒元富士の所へ再度行き、代官山を通って渋谷駅から帰りました。
第7回 「目黒元不二(春25景)」を訪ねる [広重・名所江戸百景]
2010/4/3(土)アップ
昔「富士講」という富士山を信仰の対象とした宗教団体が各地に出来ました。彼らの活動の中心は、富士登山をすることです。しかし、当時富士登山は、費用も体力も多大なもの要し、高齢者、若年者には困難でした。そこで、近所に、ミニ富士山を作りこれに登って山頂に作った石祠を拝み、富士登山の代わりに済ませました。この、ミニ富士の一つを広重が描きました。
ここに作られた富士山はミニ富士と言っても9~12mとビル3~4階建てに相当するほどの高さがありました。ミニ富士は、富士講の人々が何カ月もかかって築きました。このミニ富士の麓?に桜が植えてあり、花見をしている人々が見られます。ミニ富士登山をしている人も見えます。これらの人々は楽しそうに見えます。ミニ富士登山は富士講という宗教の反面レジャー的要素もあったと思われます。
さて、今日(3月30日)は天気も良いし、桜も5、6分咲いたとの情報もあり、ミニ富士探訪に出かけました。
東急東横線・中目黒駅から目黒元不二(富士)へ向かう途中の目黒川の桜は、6~7分咲きでした。(写真#01)
駒沢通りの鎗ケ崎交差点のやや下ったところから、目黒元富士跡方向を撮った写真です。(写真#02)
残念ながら、ミニ富士は崩されて現在はマンションが建っており(キングホームズ)、このマンションがミニ富士のように威容を誇っていました。
次に、広重が描いたと同じ視点での撮影を試みました。広重の絵を分析すると、東から西方向を眺めています。視点の高さは地面から20m程の高さと考えられます。元富士があった場所は、この近辺でもひと際高くなっていて、その高さは10m程高いと思われます。さらに、そこに12mの山を築いてあります。絵の地平線は、山の8合目の高さ程にあるので、土台部分10mプラス8合目の高さ10mで、約20mと割り出しました。元富士の東側のテナントビルの6Fから撮影したのが写真#03です。
6Fの高さだと、大雑把に見て18m位と考えられるので、この写真は、ほぼ、広重の視点と同じ所から見た写真と言って差し支えないと思います。視点は同じでも、目黒元富士も、麓の桜も、本物の富士山も見えませんでした。
この後、近くに在る目黒新富士へ行き、一通り写真を撮ってから夕方また、ここへ戻ってきました。(目黒新富士は次回アップします)
目黒元富士のあったマンションの門の近くに、ここに目黒元富士があったということを示す案内板が二種類立っていました。一つは目黒区教育委員会のもの(写真#04)、一つは「目黒区みどりの散歩道」シリーズのもの(写真#05)です。
※画面をクリックすれば、拡大表示出来ます。他の写真も同様
目黒元富士は、明治11年に取り壊され、現在はキングホームズという高級マンションになっています。(写真#06)
念のため、Google map の航空写真でこの敷地内を仔細に眺めましたが、目黒元富士の名残は何も発見できませんでした。
このマンションに面した道は「富士見坂」です。富士見坂を挟んだ向かい側は「旧朝倉家住宅」で住宅は公開展示されています。(有料)(写真#07)
この近辺で、広重の絵のような水平遠望が出来るところ探しましたが、適当な場所がなく、辛うじて「代官山交番前交差点」にある歩道橋の上から西の空が見渡されました。(写真#08)
日も暮れて来たので今日はこれで帰ることにしました。
目黒元富士探訪記は以上です。おまけの写真をひとつ掲載します。(写真#09)
合流地広場は写真#01画面に右外側になります。
第6回 「品川御殿やま(春28景)」を撮る [広重・名所江戸百景]
2010/3/28アップ
ここは、名所江戸百景のなかで広重の時代から現代まで地形的なものが残っている地点の一つです。(絵#01)
江戸時代の始め、徳川家が豊臣秀吉の側室淀君を人質にとっておく目的で御殿を建てたところから、御殿山という地名となりました。
この絵で、河岸段丘状の地形は、自然に出来たものではなく崖の手前は、人工的に削った部分です。幕末、ペリー提督が黒船を率いて日本にやってきたのをきっかけに、品川沖に砲台の台となる場所、すなわちお台場を築くときに、御殿山を削った土を使ったそうです。
広重の絵で、土を削って低くなったところを、現在はJRが走っています。
八代将軍吉宗がここに桜を植えさせてから桜の名所になりました。また、江戸の名所の中で桜の開花が最も最も早いことで知られていました。本項の桜シリーズの皮切りに御殿山を選びました。
御殿山をまず地点Aから撮影しました。(図#02、写真#03)
※画面をクリックすれば、拡大表示されます(以下の写真も同様)
地点Aからでは、広重の絵のような奥行きのある景色は無理でした。広重の絵のように、画面右側部に奥行き感をだそうとすると、新八ツ山橋の欄干で景色が遮断されてしまうからです。但し、広重の絵と同じように崖の上に桜が咲いているのは捨てがたい光景でした。
次に、地点Bで撮影することにしました。行く前、地図で見ると道路がJRの線路部分に最も近づいていて絶好の撮影ポイントの様に見えますが、現地に着くと、道路とJRの線路部分は、新幹線へ侵入防止等の目的でコンクリートの高い塀で遮断されていて、写真撮影が困難でした。かろうじて、直角に曲がった道路の先端部の塀の一部が窓状になっていてプラスチックのパネルが埋め込まれているところがあり、そこから御殿山方向を撮影しました。(写真#04)
広重が約150年に描いた視点にかなり近いと思われましたが、惜しむらくはプラスチックのパネル越しに撮っているため、結果的ではありますが、画面のコントラストが足らないのと、画面の一部がハレーションになって、写真としてはグレードの低いものでした。
次に、C地点から、撮影しました。ここは、ズバリ「御殿山通り」という通りがJRの線路を跨いでいるところで、地図では一番期待されるところです。そこで撮影したのが写真#05です。
150年も経過しているので、広重の絵と写真#05は全然違っています。しかし、「150年前を偲ぶものが何か無いか?」の精神で、この写真をよく見ると対岸のホテルの建物や、JRの線路や架線を取り除いて想像すると、対岸の崖の感じや溝状になっている部分など、地形的なものはほとんど変わっていないことがわかりました。桜も手前の方に咲いていました。
御殿山通りです。(写真#06)
JRに絡む、事故防止のため跨線橋とその近辺は高い金網が張り巡らされていて、電車や景色を撮影するのは不向きです。写真#05の右上と左下の黒い影は金網が写り込んでいる影です。
いろいろな電車が通ります。(写真#07)
新幹線も通ります。(写真#08)
ここのJRの線路は、京浜東北線、山の手線、東海道線、横須賀線、新幹線といろいろな路線が走っていて、いろいろな種類の電車が走ります。
広重の絵では、崖の上に桜の林が見えますが、写真#05と写真#07では桜は見えないので御殿山へ跨線橋を渡って行きました。(地点D)(写真#09)
桜は咲いていました。桜の木は道路の両脇に並木状に植わっているだけですが、濃厚な香りでした。お酒を飲んで、この香りを吸い込むと気持ちを異常に高揚させるという説がありますが本当でしょうか?(写真#10)
保存樹と書かれたプレートが数本の木に掛けられていました。「保存樹」がどういうことなのか、ネットで一寸調べましたが、良い情報にぶつかりませんでした。(写真11)
今日(3月26日)で開花発表から4日たちます。ここの桜は五分咲き位かなと思いましたが、この写真で開花状況は各位判断して下さい。(写真#12)
御殿山に向かう途中、総武線沿線にある桜の木を眺めて来ましたが、ほとんど咲いていませんでした。(数本の木が咲いていたのみ)
やはり、御殿山は都内でも桜が咲くのは早いというのを実感しました。