第21回、広重・名所江戸百景/日本橋江戸はし(夏43景)(Ⅰ) [広重・名所江戸百景]
2012/05/16及び2012/06/13 取材
2012/06/22 アップ
久しぶりに、本ブログのメインテーマ「名所江戸百景」をアップします。(最近は、メインテーマでも登場頻度は低いですが・・・)
今回は、昨年架橋100周年を迎えた「日本橋」を取り上げました。名所江戸百景の中に日本橋(橋自体)を描いた絵は2枚あります(そのほか、地名として「日本橋」が入った絵が1枚あります)。
そのうちの、今の季節に合わせ「夏43景・・・日本橋江戸ばし」を取り上げました。
#01、江戸名所百景・日本橋江戸ばし(夏43景)
この絵の解説は、タネ本の解説をそのまま引用しました。
****************************************
この絵は日本橋の北西から日本橋川の下流とその両岸を描いたものである。左辺に擬宝珠を冠した欄干が配してある。
<中略>
この欄干の左方、日本橋川の北岸には、江戸の台所魚河岸があり、早朝から夜を徹して運ばれて来た鮮魚を売る人や買う人で活気がみなぎっていた。人影は見えないが、今仕入れたばかりの鰹を盤台に入れた棒手振りが橋を南へ渡ろうとしている。目には青葉山ほととぎす初鰹(山口素堂(そどう))」と初物を好んだ江戸っ子達は、高値を物ともせずに鰹を早く買って食べることに異常な情熱を燃やしていた。
<中略>
日本橋の下流が江戸橋で、両橋の南側には塩干物を扱う四日市河岸と、木更津との間を往復して旅人や物資を運ぶ舟が集まる木更津河岸があった。
<中略>
****************************************
引用・・・ 広重の大江戸名所百景散歩(人文社)1996年4月1日発行
#02、日本橋・江戸橋(2012年05月16日撮影)
本ブログでは、広重が描いた絵のアングルと季節を極力同じようにして、現在の写真を撮影しています。
#01のアングルは、日本橋の北端から東方江戸橋方向を描いたものです。描いた季節は江戸期の「初ガツオ」の時期で、5~6月に相当しますのでそれに合わせて撮影しました。
#02の写真と広重の絵でもっとも大きな違いは、川の上を高速道路が通っている点です。
広重の絵では、下流の江戸橋、さらにその先の、ずらっと並んだ蔵の白い壁までが見えますが、現在の写真では、江戸橋さえ高速道路の橋脚に隠れてはっきり見えませんでした。
#03、日本橋北東端(1999年9月21日撮影)
この写真は、#01、#02とほぼ同アングルの13年前の写真です。この頃から本テーマ(名所江戸百景)で写真を撮り始めました。フィルムカメラでの撮影です。
写真の撮影の日付で分かるように、この頃は2000年問題が騒がれていた時期で、この写真は、2000年問題の講習会へ出掛ける途中で撮影したものです。
#02と#03とでは、13年間のへだたりがありますが、比べても、全くと言っていいほど変化がありませんでした。
#04広重日本橋江戸ばし(部分拡大)
#01の絵の江戸橋の辺りを拡大したものです。江戸橋の向こうの白壁の蔵は(当時の)小網町一丁目です。(現在の小網町は”丁目”分けされていません)
画面右・江戸橋の南詰めは切絵図で見ると、蔵屋敷と描いてありますが、この絵を見ると蔵は二つだけで地名とギャップがあるようです。
#05日本橋から江戸橋を望む2012年6月13日撮影
#02では、日本橋上の北端部分からでは江戸橋が良く見えなかったので、橋の中央付近に移動し、江戸橋が良く見えるところから撮影しました。この位置からだと江戸橋はかろうじて見えますが、その向こう側迄はとても見えませんでした。
以下、日本橋の古写真を若干掲載致します。
#06木造の日本橋(1873年頃)
手持ちの資料の中で最も古い日本橋の写真です。この撮影年は特定はされていませんが、キャプションをよく読んでみると、新木造の橋に架け替え直後で、ガス灯が取り付けられる前と思われました。このことから、更に特定を進めると、この写真は、明治6年頃の撮影と推定されました。
引用文献・・・古写真で見る江戸から東京へ(世界文化社) 2001年4月20日発行
#07日本橋(石造り)東京府名勝図会1912年5月
手持ち資料に、日本橋が石造りになった直後の良い写真が無かったので、この写真はネットから取りました。この写真も撮影年がはっきりかいてありませんが、日本橋が出来たのが明治44年4月で、この写真が掲載された本は、明治45年5月に刊行されているので、この間に撮られたものです。
引用(ネットから)・・・東京府名勝図会/刊行年 明治45(1912)年5月/国立国会図書館所蔵
#08日本橋と三越本店(1935年)
この写真は、手持ち資料の中で、日本橋が高速道路に覆われる前で一番鮮明な写真です。この写真の中で、画面右側の三越本店の建物は、現在もそのまま残っています。
橋の北西詰のレンガ造りのビルは帝国製麻(現帝国繊維)の本社ビルです。大正元年(1912)、東京駅の設計で有名な辰野金吾の設計で竣工しました。帝国繊維と社名がかわってからも、本社ビルとして使われましたが、昭和62年(1987)取り壊されました。
引用文献・・・/地図物語 あの日の日本橋(武揚堂)/2007年9月14日発行
<続く>
2012/06/22 アップ
久しぶりに、本ブログのメインテーマ「名所江戸百景」をアップします。(最近は、メインテーマでも登場頻度は低いですが・・・)
今回は、昨年架橋100周年を迎えた「日本橋」を取り上げました。名所江戸百景の中に日本橋(橋自体)を描いた絵は2枚あります(そのほか、地名として「日本橋」が入った絵が1枚あります)。
そのうちの、今の季節に合わせ「夏43景・・・日本橋江戸ばし」を取り上げました。
#01、江戸名所百景・日本橋江戸ばし(夏43景)
この絵の解説は、タネ本の解説をそのまま引用しました。
****************************************
この絵は日本橋の北西から日本橋川の下流とその両岸を描いたものである。左辺に擬宝珠を冠した欄干が配してある。
<中略>
この欄干の左方、日本橋川の北岸には、江戸の台所魚河岸があり、早朝から夜を徹して運ばれて来た鮮魚を売る人や買う人で活気がみなぎっていた。人影は見えないが、今仕入れたばかりの鰹を盤台に入れた棒手振りが橋を南へ渡ろうとしている。目には青葉山ほととぎす初鰹(山口素堂(そどう))」と初物を好んだ江戸っ子達は、高値を物ともせずに鰹を早く買って食べることに異常な情熱を燃やしていた。
<中略>
日本橋の下流が江戸橋で、両橋の南側には塩干物を扱う四日市河岸と、木更津との間を往復して旅人や物資を運ぶ舟が集まる木更津河岸があった。
<中略>
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引用・・・ 広重の大江戸名所百景散歩(人文社)1996年4月1日発行
#02、日本橋・江戸橋(2012年05月16日撮影)
本ブログでは、広重が描いた絵のアングルと季節を極力同じようにして、現在の写真を撮影しています。
#01のアングルは、日本橋の北端から東方江戸橋方向を描いたものです。描いた季節は江戸期の「初ガツオ」の時期で、5~6月に相当しますのでそれに合わせて撮影しました。
#02の写真と広重の絵でもっとも大きな違いは、川の上を高速道路が通っている点です。
広重の絵では、下流の江戸橋、さらにその先の、ずらっと並んだ蔵の白い壁までが見えますが、現在の写真では、江戸橋さえ高速道路の橋脚に隠れてはっきり見えませんでした。
#03、日本橋北東端(1999年9月21日撮影)
この写真は、#01、#02とほぼ同アングルの13年前の写真です。この頃から本テーマ(名所江戸百景)で写真を撮り始めました。フィルムカメラでの撮影です。
写真の撮影の日付で分かるように、この頃は2000年問題が騒がれていた時期で、この写真は、2000年問題の講習会へ出掛ける途中で撮影したものです。
#02と#03とでは、13年間のへだたりがありますが、比べても、全くと言っていいほど変化がありませんでした。
#04広重日本橋江戸ばし(部分拡大)
#01の絵の江戸橋の辺りを拡大したものです。江戸橋の向こうの白壁の蔵は(当時の)小網町一丁目です。(現在の小網町は”丁目”分けされていません)
画面右・江戸橋の南詰めは切絵図で見ると、蔵屋敷と描いてありますが、この絵を見ると蔵は二つだけで地名とギャップがあるようです。
#05日本橋から江戸橋を望む2012年6月13日撮影
#02では、日本橋上の北端部分からでは江戸橋が良く見えなかったので、橋の中央付近に移動し、江戸橋が良く見えるところから撮影しました。この位置からだと江戸橋はかろうじて見えますが、その向こう側迄はとても見えませんでした。
以下、日本橋の古写真を若干掲載致します。
#06木造の日本橋(1873年頃)
手持ちの資料の中で最も古い日本橋の写真です。この撮影年は特定はされていませんが、キャプションをよく読んでみると、新木造の橋に架け替え直後で、ガス灯が取り付けられる前と思われました。このことから、更に特定を進めると、この写真は、明治6年頃の撮影と推定されました。
引用文献・・・古写真で見る江戸から東京へ(世界文化社) 2001年4月20日発行
#07日本橋(石造り)東京府名勝図会1912年5月
手持ち資料に、日本橋が石造りになった直後の良い写真が無かったので、この写真はネットから取りました。この写真も撮影年がはっきりかいてありませんが、日本橋が出来たのが明治44年4月で、この写真が掲載された本は、明治45年5月に刊行されているので、この間に撮られたものです。
引用(ネットから)・・・東京府名勝図会/刊行年 明治45(1912)年5月/国立国会図書館所蔵
#08日本橋と三越本店(1935年)
この写真は、手持ち資料の中で、日本橋が高速道路に覆われる前で一番鮮明な写真です。この写真の中で、画面右側の三越本店の建物は、現在もそのまま残っています。
橋の北西詰のレンガ造りのビルは帝国製麻(現帝国繊維)の本社ビルです。大正元年(1912)、東京駅の設計で有名な辰野金吾の設計で竣工しました。帝国繊維と社名がかわってからも、本社ビルとして使われましたが、昭和62年(1987)取り壊されました。
引用文献・・・/地図物語 あの日の日本橋(武揚堂)/2007年9月14日発行
<続く>
第20回、上野清水堂不忍ノ池(うえのきよみずどうしのばずのいけ)(春 [広重・名所江戸百景]
2012/04/08(日)取材
2012/04/12(木)アップ
名所江戸百景で、満開の桜を描いたものが、数点あります。上野の名所の清水堂も桜が満開の時期に描かれました。
今年の桜は、今日・8日(日)が満開のピークと思われましたが、午前中から所用があり、なかなか撮影に出かけられませんでした。やっと、出かけて、上野についたときは、日が傾きはじめた頃でした。
#01、広重画・上野清水(きよみず)堂不忍ノ池(春11景)
これが、約150年前に描かれた、上野・清水堂です。満開の桜と不忍池が描かれています。清水堂の下の道の傍らに、ぐるっと円を描いた、奇妙な枝ぶりの松の木が描かれています。この木は、広重がお気にいりだったようで、名所江戸百景のなかで、清水堂の他に、「上野山内月のまつ」としても描かれています。(本ブログでは第2回として、2009年10月26日にアップしています)
#02、現在の上野清水堂
広重のアングルとほぼ同じアングルで撮った現在の清水堂です。満開と日曜が重なったので、大変な人出でした。
この写真は、一脚を利用して、3m程の高さからの俯瞰撮影をしたものです。
この視点からだと、清水堂の手前に丁度桜の木(八重紅枝垂桜)があって、清水堂が良く見えません。
#03、清水堂
やや、清水堂で接近して撮影した写真です。この、写真の左隅
所が、清水堂の崖下の道に降りる階段の降口です。広重の絵では画面下部中央やや左寄りに描かれています。
花見客は、老若男女様々な年齢層の方でごったがえしていました。また、外国の方もたくさんいらっしゃいました。
#04、清水堂舞台
このお堂は、京都の清水寺を模して建てられたので、清水寺と同じように舞台があります。この、舞台を一脚を利用して撮影しました。この画面ではわかりませんが、一脚を持っているきたろうの周囲は、記念写真を撮影する人で満員電車並みの混雑です。
舞台越しに桜も見えますが、逆光で露出オーバーになりました。
ここで、人文社の「大江戸名所百景散歩(堀晃明著)」の上野清水堂の解説文をそのまま転載いたします。
#06、清水堂舞台上(北側から撮影)
#07、階段上から不忍池方向を望む
広重の絵では、不忍池が描かれていますが、現在は、桜の木やその他の木の陰になって、見えません。
#08、下の道から見た清水堂
舞台になっている様子が、良く分かります。
もう、陽はかげって、屋根のとこにしか陽があたっていません。
#09、南東側から見た清水堂
公園内の照明に、灯が入りました。この時間帯は、昼の花見を終えて帰る人と夜桜を見に来る人が行きかって、大混雑です。また、公園内の通行上の注意を呼び掛けるスピーカーの音が鳴り響いていました。
#10、奇妙な枝ぶりの木
広重の絵に描かれた、木の枝が丸く輪を描いた枝の松の木は、明治のはじめに枯れてしまったそうです。
この枝ぶりに似た木があるかどうか、公園内のあちこちを探しました。そっくりな木はありませんでが、この枝ぶりにもっとも近い木は、公園内某所にありました。
(この木がある場所は、本ブログの「第2回、上野山内月のまつ(2009/10/26アップ)」の項を参照してください)
#11、上野公園内、上野駅方向へ向かう道
花見を終えて駅へ向かう人々です。現在17時35分で、ぼんぼりに灯もともりました。
END
2012/04/12(木)アップ
名所江戸百景で、満開の桜を描いたものが、数点あります。上野の名所の清水堂も桜が満開の時期に描かれました。
今年の桜は、今日・8日(日)が満開のピークと思われましたが、午前中から所用があり、なかなか撮影に出かけられませんでした。やっと、出かけて、上野についたときは、日が傾きはじめた頃でした。
#01、広重画・上野清水(きよみず)堂不忍ノ池(春11景)
これが、約150年前に描かれた、上野・清水堂です。満開の桜と不忍池が描かれています。清水堂の下の道の傍らに、ぐるっと円を描いた、奇妙な枝ぶりの松の木が描かれています。この木は、広重がお気にいりだったようで、名所江戸百景のなかで、清水堂の他に、「上野山内月のまつ」としても描かれています。(本ブログでは第2回として、2009年10月26日にアップしています)
#02、現在の上野清水堂
広重のアングルとほぼ同じアングルで撮った現在の清水堂です。満開と日曜が重なったので、大変な人出でした。
この写真は、一脚を利用して、3m程の高さからの俯瞰撮影をしたものです。
この視点からだと、清水堂の手前に丁度桜の木(八重紅枝垂桜)があって、清水堂が良く見えません。
#03、清水堂
やや、清水堂で接近して撮影した写真です。この、写真の左隅
所が、清水堂の崖下の道に降りる階段の降口です。広重の絵では画面下部中央やや左寄りに描かれています。
花見客は、老若男女様々な年齢層の方でごったがえしていました。また、外国の方もたくさんいらっしゃいました。
#04、清水堂舞台
このお堂は、京都の清水寺を模して建てられたので、清水寺と同じように舞台があります。この、舞台を一脚を利用して撮影しました。この画面ではわかりませんが、一脚を持っているきたろうの周囲は、記念写真を撮影する人で満員電車並みの混雑です。
舞台越しに桜も見えますが、逆光で露出オーバーになりました。
ここで、人文社の「大江戸名所百景散歩(堀晃明著)」の上野清水堂の解説文をそのまま転載いたします。
名所江戸百景の内春11景 上野清水堂不忍ノ池 安政3年(1856)4月 「広重の大江戸名所百景散歩・堀晃明著」(人文社1996年4月1日発行)より 上野の山は、江戸一番の桜の名所であった。ここは徳川家の菩提寺である寛永寺の開基であった天海僧正が、大和(奈良)の吉野山と同じように桜見物が出来る場所にしようと、咲く時期を異にする吉野桜、山桜、ハ重桜などを山内に工夫して植えたので、2月末から3月中頃まで桜の花が絶えることがなかった場所である。 上野の山は、桜の時期だけ入口の黒門を開き、庶民の入山を許した。都心に近く、広大な土地で桜見が出来た点では、江戸市民にとって最適な桜見の場所であった。 長屋の住民までも大家に連れられて出かけている(落語「長屋の花見」)。しかし山内には寛末寺があって規則が厳しく、見物人は一応飲酒は許されたが、魚を食べたり、三味線を弾いたり、太鼓を叩いたりして騒ぐことは許されなかった。そのうえ夕方暮れ六ツ(6時)になると入口が閉じられ、山外に退出しなければならなかった。こうした堅苦しさを嫌った若い男女は、隅田川大堤や飛鳥山の方を好んで出かけたので、ここの見物人は老人や女性達が多かったという。 上野の清水(観音)堂は、京都の清水寺を模倣して舞台の上に建てられていた。この舞台からは不忍池、中島弁財天、さらには本郷台地の大名屋敷町を一望することが出来た。また、堂の下の路傍には奇妙な枝振りをした松の木があって見物人の目を惹いていた。広重はこの松を拡大した絵をもう一枚描いている。
#06、清水堂舞台上(北側から撮影)
#07、階段上から不忍池方向を望む
広重の絵では、不忍池が描かれていますが、現在は、桜の木やその他の木の陰になって、見えません。
#08、下の道から見た清水堂
舞台になっている様子が、良く分かります。
もう、陽はかげって、屋根のとこにしか陽があたっていません。
#09、南東側から見た清水堂
公園内の照明に、灯が入りました。この時間帯は、昼の花見を終えて帰る人と夜桜を見に来る人が行きかって、大混雑です。また、公園内の通行上の注意を呼び掛けるスピーカーの音が鳴り響いていました。
#10、奇妙な枝ぶりの木
広重の絵に描かれた、木の枝が丸く輪を描いた枝の松の木は、明治のはじめに枯れてしまったそうです。
この枝ぶりに似た木があるかどうか、公園内のあちこちを探しました。そっくりな木はありませんでが、この枝ぶりにもっとも近い木は、公園内某所にありました。
(この木がある場所は、本ブログの「第2回、上野山内月のまつ(2009/10/26アップ)」の項を参照してください)
#11、上野公園内、上野駅方向へ向かう道
花見を終えて駅へ向かう人々です。現在17時35分で、ぼんぼりに灯もともりました。
END
第19回、湯しま天神坂上眺望(ゆしまてんじんさかうえちょうぼう)(冬117景) [広重・名所江戸百景]
2012/02/29(水)取材
2012/04/03(火)アップ
広重の名所江戸百景には、雪景色も数場面あります。
しかし、近年暖冬でなかなか、東京に雪は降りません。降っても、すぐに融けてしまいます。今までも、名所江戸百景の雪景色に何度か挑戦しましたが、現地に着くころには、たいてい融けてしまっていると言うのが続きました。
2月29日は、未明から雪が降っていて、チャンス到来と、撮影に出かけました。
向かった先は、湯島天神です。きたろうはJR御徒町からアプローチしました。
図#01、湯しま天神坂上眺望(広重画)(冬117景)
安政3年(1856)4月
湯島天神はJR御徒町の西、約500mの所に在ります。地形的には、本郷台地の東端に位置します。
広重の絵で正面に二人の人物が登って来るのが見られますが、この斜面が、本郷台地の東の崖に相当します。因みに、この正面の斜面(階段)は女坂と呼称されています。絵の右下隅の階段は、斜面を東側から直登するかなり急な階段で、男坂と呼称されています。
男坂・女坂を登りきった所からの眺望はすばらしく、北西には不忍池が広がっていました。絵のタイトルは、この眺望に因んで付けられています。
#02、「湯島天神坂上眺望」の現在(パノラマ合成写真)
広重の絵の視点と同じ場所(高さは大分低いが)からの現在の眺めです。現在は、周囲をビルに囲まれて、眺望はききません。
絵で見ると、階段の上(鳥居の前は)は、ちょっとした広場のように広く見えますが、実際はそれほど広くはありません。
逆に、この写真で、右隅に見える、男坂の階段は、結構ゆるく見えますが、実際の階段は広重の絵のように、かなり急な階段です。
※この写真は、パノラマ合成です。この、階段の傾斜がゆるく写っていることや、坂上の石畳が歪んで見える(実際は平らである)のは、パノラマ合成による歪みです。
#03、坂上から、西方向(境内側)を望む
この日(2月29日)は、丁度梅まつりの開催期間でしたが、今年は、梅の開花が遅れていて、梅はつぼみの状態でした。
#04、湯島天神境内から境内から東方(男坂)方向を望む
東の方向は丁度道路が東方向に伸びているので、比較的遠くまで眺められます。天気が良いと、ここから約400m東の松坂屋の本館と南館を結ぶ(空中の)連絡通路が見えます。
今日は、雪が降っていて、見えませんでした。
#05、湯島天神本社殿
こんな、雪の日にもかかわらず、お参りの善男善女は結構いました。さすが、千年以上の伝統ある神社です!
ここで、湯島天神について、本ブログのテーマの、タネ本的な人文社の「広重の大江戸名所百景散歩」の湯島天神の項の解説文を、そのまま以下に転載致します。
#06~#08、平成14年5月19日撮影
10年前、同じテーマで、撮った写真です。当時は、デジカメは普及し始めの頃で、この写真はフィルムカメラで撮影したものです。
それから、この頃は、まず広重と同じ視点の場所から現在の景色を撮影するという点に興味の焦点があったため、季節は関係無しに撮っていました。そんなこともあって、これは5月に撮影しており、階段脇の梅林は青葉が茂っています。
この10年前の写真と、現在の写真を比べるとまったくと云って良いほど変わりはありません(青葉で隠れている部分は除いて)。
#09、湯島天神本社殿(平成14年5月19日撮影)
この時は、丁度菅原道真公・千百年大祭をおこなっていました。
#10、湯島天神境内(古写真)
現在は、湯島天神からの眺望は、一部(真東方向)を除いて期待できなかったので、眺望が良かった時代の古写真を、手持ち資料やその他から探しました。その結果、撮影年代は不明ですが、湯島天神境内に立つ粋筋のお姉さんの写真が見つかりました。お姉さんの丁度後方に、崖下の街並みが見下ろせるアングルで撮影されていました。
それから、湯島天神から不忍池を見下ろした写真を探しましたが、これは見つかりませんでした。やっと、ひとつだけ、明治22年建設中のニコライ堂から撮影した写真に不忍池の俯瞰写真がありました。但し、湯島天神から不忍池は約200mに対し、ニコライ堂からは1,300mと距離は異なります。
#11、建設中のニコライ堂から不忍池方向を見た写真(拡大)
この写真は、有名な写真で、明治22年に建設中のニコライ堂の最上部から、全周360°のパノラマを撮影したものです。1月頃撮られたものと伝えられています。
※「神田まちなみ沿革図集」から転載
END
2012/04/03(火)アップ
広重の名所江戸百景には、雪景色も数場面あります。
しかし、近年暖冬でなかなか、東京に雪は降りません。降っても、すぐに融けてしまいます。今までも、名所江戸百景の雪景色に何度か挑戦しましたが、現地に着くころには、たいてい融けてしまっていると言うのが続きました。
2月29日は、未明から雪が降っていて、チャンス到来と、撮影に出かけました。
向かった先は、湯島天神です。きたろうはJR御徒町からアプローチしました。
図#01、湯しま天神坂上眺望(広重画)(冬117景)
安政3年(1856)4月
湯島天神はJR御徒町の西、約500mの所に在ります。地形的には、本郷台地の東端に位置します。
広重の絵で正面に二人の人物が登って来るのが見られますが、この斜面が、本郷台地の東の崖に相当します。因みに、この正面の斜面(階段)は女坂と呼称されています。絵の右下隅の階段は、斜面を東側から直登するかなり急な階段で、男坂と呼称されています。
男坂・女坂を登りきった所からの眺望はすばらしく、北西には不忍池が広がっていました。絵のタイトルは、この眺望に因んで付けられています。
#02、「湯島天神坂上眺望」の現在(パノラマ合成写真)
広重の絵の視点と同じ場所(高さは大分低いが)からの現在の眺めです。現在は、周囲をビルに囲まれて、眺望はききません。
絵で見ると、階段の上(鳥居の前は)は、ちょっとした広場のように広く見えますが、実際はそれほど広くはありません。
逆に、この写真で、右隅に見える、男坂の階段は、結構ゆるく見えますが、実際の階段は広重の絵のように、かなり急な階段です。
※この写真は、パノラマ合成です。この、階段の傾斜がゆるく写っていることや、坂上の石畳が歪んで見える(実際は平らである)のは、パノラマ合成による歪みです。
#03、坂上から、西方向(境内側)を望む
この日(2月29日)は、丁度梅まつりの開催期間でしたが、今年は、梅の開花が遅れていて、梅はつぼみの状態でした。
#04、湯島天神境内から境内から東方(男坂)方向を望む
東の方向は丁度道路が東方向に伸びているので、比較的遠くまで眺められます。天気が良いと、ここから約400m東の松坂屋の本館と南館を結ぶ(空中の)連絡通路が見えます。
今日は、雪が降っていて、見えませんでした。
#05、湯島天神本社殿
こんな、雪の日にもかかわらず、お参りの善男善女は結構いました。さすが、千年以上の伝統ある神社です!
ここで、湯島天神について、本ブログのテーマの、タネ本的な人文社の「広重の大江戸名所百景散歩」の湯島天神の項の解説文を、そのまま以下に転載致します。
「広重の大江戸名所百景散歩」人文社(堀 晃明 著)1996年4月1日第1刷発行 より 湯しま天神坂上眺望(ゆしまてんじんさかうえちょうぼう) 湯島天神は湯島台地の東の突端に建っていた。この辺りの村民が、南北朝時代(1336~1392)に京都北野天満宮の分霊を勧請して祠に祀ったのがその始まりだという。 江戸時代における湯島天神は、和歌や連歌の神、芸能の神、書道の神、さらには縁結びの神として崇められ、本郷や下谷にかけての町人層の間で特別に親しまれていた。 また境内には茶店、休処、売薬屋、香具屋(こうぐや)、楊弓場、宮芝居(みやしばい)小屋などが立ち並び、門前には料理茶屋などもあって、江戸庶民の娯楽地ともなっていた。 湯島天神をとくに有名にしていたのは、富籤である。 「江戸の三富」(他は谷中感応寺・目黒不動)の一つとして、ここで毎月16日に富籤興業が行なわれた。この日は一擢千金を夢見る人々で混雑したという。 湯島天神のある台地へは、女や子供は勾配の緩やかな女坂を北から、また男は真直ぐで急な勾配の男坂を東から登った。 女坂を登り詰めた坂上から北方の景色は素晴らしく、眼下に池之端の町屋、不忍池、池の中へ突出した中島、上野の山の清水堂、寛永寺の大伽藍、さらには谷中辺りまで望むことができた。この絵はその雪景色である。また男坂の上から東方には、下谷広小路の町屋、南方には江戸湾に浮かぶ佃島の沖まで見渡すことができた。
#06~#08、平成14年5月19日撮影
10年前、同じテーマで、撮った写真です。当時は、デジカメは普及し始めの頃で、この写真はフィルムカメラで撮影したものです。
それから、この頃は、まず広重と同じ視点の場所から現在の景色を撮影するという点に興味の焦点があったため、季節は関係無しに撮っていました。そんなこともあって、これは5月に撮影しており、階段脇の梅林は青葉が茂っています。
この10年前の写真と、現在の写真を比べるとまったくと云って良いほど変わりはありません(青葉で隠れている部分は除いて)。
#09、湯島天神本社殿(平成14年5月19日撮影)
この時は、丁度菅原道真公・千百年大祭をおこなっていました。
#10、湯島天神境内(古写真)
現在は、湯島天神からの眺望は、一部(真東方向)を除いて期待できなかったので、眺望が良かった時代の古写真を、手持ち資料やその他から探しました。その結果、撮影年代は不明ですが、湯島天神境内に立つ粋筋のお姉さんの写真が見つかりました。お姉さんの丁度後方に、崖下の街並みが見下ろせるアングルで撮影されていました。
それから、湯島天神から不忍池を見下ろした写真を探しましたが、これは見つかりませんでした。やっと、ひとつだけ、明治22年建設中のニコライ堂から撮影した写真に不忍池の俯瞰写真がありました。但し、湯島天神から不忍池は約200mに対し、ニコライ堂からは1,300mと距離は異なります。
#11、建設中のニコライ堂から不忍池方向を見た写真(拡大)
この写真は、有名な写真で、明治22年に建設中のニコライ堂の最上部から、全周360°のパノラマを撮影したものです。1月頃撮られたものと伝えられています。
※「神田まちなみ沿革図集」から転載
END
第18回(その2)、真間の紅葉手古那の社継ぎはし(ままのもみじてこなのやしろつぎはし)(秋94景)兼きたろう散歩(弘法寺の紅葉・Ⅱ) [広重・名所江戸百景]
2011/12/14(水)アップ
2011/12/4(日)取材
その1では、真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)、手児奈霊堂(てこなれいどう)、継橋(つぎはし)等の歴史や伝承を紹介致しました。
今回は、これら建造物の現在その他を紹介致します。
#02-B、広重・秋94景の絵と現在の風景
左は1857年に描かれた絵、右は154年後の2011年に撮った写真
広重の絵と同視点の現代の写真を並べて見ました。広重の絵で手前の二股の木は楓ですが右の写真の木は残念ながら桜です。広重の絵で、手児奈霊堂は左の楓の幹越しに小さく見えますが、写真では結構大きく写っています。写真では、絵に描かれている、紅葉(もみじ)、鳥居、真間の入り江に連なる水面、継橋及び遠くの山並は写っていません。
以下、この#02-Bの写真で写っていない建造物、樹木、地形を別撮りの写真で紹介します。
#03、真間山弘法寺の紅葉(ア)
江戸期から明治初期、弘法寺境内には楓の木が多数あり、紅葉の名所として知られていましたが明治21年(1888)1月15日の弘法寺の火事で本堂等と共に、ほとんどの楓の木が焼失してしまいました。
現在、境内には楓の木は数本しかありません。前回、来たとき(11月27日)は、この木は紅葉していませんでした。11月下旬から12月上旬で冷え込んできて、これらの紅葉は一挙に進みました。
#04、真間山弘法寺の紅葉(イ)
前回の「きたろう散歩(弘法寺の紅葉・Ⅰ)」(11月27日)で取り上げたこの木は、前回紅葉の真っ盛りでした。今回(12月4日)は、紅葉の真っ盛りは過ぎ、葉が半分ほど落ちていました。
#05、手児奈霊堂(本堂)
文亀元年(1501年)、弘法寺の日与上人が手児奈を祀ったお堂と伝えられています。日与が読経の最中に少女の霊が現われ(夢枕に現れたという伝承もある)、法華経に救われた恩に報いるためこの寺を守護すると告げます。日与はこれを手児奈の霊とし、霊堂を建てたそうです。安産・子育ての神として信仰されています。
#06、手児奈霊堂(西側参道から望む)
広重の絵には、手児奈霊堂の西側に鳥居が描いてあります。現在は、この写真のとおり霊堂の西側に鳥居はありません。
江戸後期の画家・谷文晁によって文化4年(1807)頃描かれた『隅田川鴻台真景図鑑』の中に弘法寺近辺を描いた絵で、「其二山下手児女明神社」と云うのがあり、この頃は、手児奈姫は神としても祀られていた事がわかります。そのため、お堂の西に鳥井があったのでしょう。
#07、継橋(南側から望む)
真間の継ぎ橋は、万葉の時代、この地域にたくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が継橋だったと考えられています。現在はコンクリートの橋に金属製の赤い欄干の小さな橋が架かっているだけです。
(継橋の詳しい説明は(その1)をご覧ください)
広重の絵では、砂州や水面が描かれていますが、現在は継橋の南約100mの所を、川幅約15mの真間川が東西に流れているだけです。
#08、継橋パノラマ写真(北側から望む)
※写真をクリックして拡大表示の上、左右にスクロールしてご覧下さい。
写真中央の、白い板は、市川市教育委員会の「継橋」の説明板、写真右の方の、郵便受け状の箱は、俳句の受付BOXです。
#09秩父の山並
広重の絵の、正面に描かれている山並ですが、弘法寺から手児奈霊堂や継橋の方向(南方向)に、このような山並はありません、南南東の方向に、房総半島南端の山並は見えますが、房総の山の高さは、300~400mと低く、この絵のように高い山並ではありません。
写真#09は、この日の夕方江戸川沿いから見た秩父の山並ですが、広重が描いた山並と似ています。秩父の山並は、高さ2,000m級の山もあり、西方に見えますが、広重は、遠景の山を実際見えるところから、移動することを良くやります。恐らく、西側に見える秩父の山並を、正面南側に移動して描いたものと思われます。
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2011/12/4(日)取材
その1では、真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)、手児奈霊堂(てこなれいどう)、継橋(つぎはし)等の歴史や伝承を紹介致しました。
今回は、これら建造物の現在その他を紹介致します。
#02-B、広重・秋94景の絵と現在の風景
左は1857年に描かれた絵、右は154年後の2011年に撮った写真
広重の絵と同視点の現代の写真を並べて見ました。広重の絵で手前の二股の木は楓ですが右の写真の木は残念ながら桜です。広重の絵で、手児奈霊堂は左の楓の幹越しに小さく見えますが、写真では結構大きく写っています。写真では、絵に描かれている、紅葉(もみじ)、鳥居、真間の入り江に連なる水面、継橋及び遠くの山並は写っていません。
以下、この#02-Bの写真で写っていない建造物、樹木、地形を別撮りの写真で紹介します。
#03、真間山弘法寺の紅葉(ア)
江戸期から明治初期、弘法寺境内には楓の木が多数あり、紅葉の名所として知られていましたが明治21年(1888)1月15日の弘法寺の火事で本堂等と共に、ほとんどの楓の木が焼失してしまいました。
現在、境内には楓の木は数本しかありません。前回、来たとき(11月27日)は、この木は紅葉していませんでした。11月下旬から12月上旬で冷え込んできて、これらの紅葉は一挙に進みました。
#04、真間山弘法寺の紅葉(イ)
前回の「きたろう散歩(弘法寺の紅葉・Ⅰ)」(11月27日)で取り上げたこの木は、前回紅葉の真っ盛りでした。今回(12月4日)は、紅葉の真っ盛りは過ぎ、葉が半分ほど落ちていました。
#05、手児奈霊堂(本堂)
文亀元年(1501年)、弘法寺の日与上人が手児奈を祀ったお堂と伝えられています。日与が読経の最中に少女の霊が現われ(夢枕に現れたという伝承もある)、法華経に救われた恩に報いるためこの寺を守護すると告げます。日与はこれを手児奈の霊とし、霊堂を建てたそうです。安産・子育ての神として信仰されています。
#06、手児奈霊堂(西側参道から望む)
広重の絵には、手児奈霊堂の西側に鳥居が描いてあります。現在は、この写真のとおり霊堂の西側に鳥居はありません。
江戸後期の画家・谷文晁によって文化4年(1807)頃描かれた『隅田川鴻台真景図鑑』の中に弘法寺近辺を描いた絵で、「其二山下手児女明神社」と云うのがあり、この頃は、手児奈姫は神としても祀られていた事がわかります。そのため、お堂の西に鳥井があったのでしょう。
#07、継橋(南側から望む)
真間の継ぎ橋は、万葉の時代、この地域にたくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が継橋だったと考えられています。現在はコンクリートの橋に金属製の赤い欄干の小さな橋が架かっているだけです。
(継橋の詳しい説明は(その1)をご覧ください)
広重の絵では、砂州や水面が描かれていますが、現在は継橋の南約100mの所を、川幅約15mの真間川が東西に流れているだけです。
#08、継橋パノラマ写真(北側から望む)
※写真をクリックして拡大表示の上、左右にスクロールしてご覧下さい。
写真中央の、白い板は、市川市教育委員会の「継橋」の説明板、写真右の方の、郵便受け状の箱は、俳句の受付BOXです。
#09秩父の山並
広重の絵の、正面に描かれている山並ですが、弘法寺から手児奈霊堂や継橋の方向(南方向)に、このような山並はありません、南南東の方向に、房総半島南端の山並は見えますが、房総の山の高さは、300~400mと低く、この絵のように高い山並ではありません。
写真#09は、この日の夕方江戸川沿いから見た秩父の山並ですが、広重が描いた山並と似ています。秩父の山並は、高さ2,000m級の山もあり、西方に見えますが、広重は、遠景の山を実際見えるところから、移動することを良くやります。恐らく、西側に見える秩父の山並を、正面南側に移動して描いたものと思われます。
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第18回(その1)、真間の紅葉手古那の社継ぎはし(ままのもみじてこなのやしろつぎはし)(秋94景) [広重・名所江戸百景]
2011/12/11(日)アップ
2011/12/4(日)取材
今回は、名所江戸百景シリーズです。”真間(まま)の紅葉”とは市川の真間(地名)のことで、ここにある日蓮宗の真間山弘法寺(ぐほうじ)が舞台になっています。一週間前(11月27日)にも取材に行きましたが、時期が早かったとためか、主要テーマのもみじが色づいていなかったので”名所江戸百景シリーズ”にはしないで、きたろう散歩としてアップしました。
#01、真間の紅葉手古那の社継はし(広重画)(秋94景)
安政4年(1857)正月
さて、”真間の紅葉”ですが、真間はこの辺の地名で、現在もこの地名は残っています。因みに、”まま”とは崖のことで、昔、この辺は江戸川から入り江が入り込み、崖状の地形があったので、真間という地名になりました。
真間の弘法寺は、江戸時代から紅葉の名所として知られ、秋の紅葉狩りシーズンには、江戸からも見物客が、来訪しました。当時は、舟が交通手段で、小名木川経由で来ました。
当時、境内には、楓の木が多数ありましたが、明治21年1月15日、弘法寺の深夜の火事で、本堂、祖師堂、山門と共に多数失われてしまいました。現在、楓の木は境内には数えるほどしかありません。
広重の「秋94景」の絵(絵#01)描かれた二股の木は「楓」で、画面中央から上部に大きくもみじの葉が描かれています。
この真間の地には、手古那(以下手児奈と記す)姫伝説が伝わっています。手児奈姫は、若く美しい娘ですが訳あって、自らの命を絶ってしまったというお話です。伝説とは言え、その霊を慰めるお堂が、真間にあり「手児奈霊堂」と言います。”手古那(てこな)の社”とは、この手児奈霊堂のことです。
広重の絵では、左の楓の幹の向こう側、水辺の傍にあるお堂として手児奈霊堂が描かれています。
※手児奈霊堂の詳細については、文末に、市川市教育委員会の「手児奈霊堂」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
万葉集が作られた頃、真間の入り江の江戸川の口付近には、砂州が広がってました。砂州と砂州を継橋で結んでいました。手児奈姫の伝説と継橋を織り込んだ読み人知らずの歌が万葉集に納められ現在まで伝わっています。
広重の絵で、継橋は画面の中央に、小さく描かれています。
※継橋の詳細については、文末に市川市教育委員会の「真間の継橋」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
2011/12/4(日)取材
今回は、名所江戸百景シリーズです。”真間(まま)の紅葉”とは市川の真間(地名)のことで、ここにある日蓮宗の真間山弘法寺(ぐほうじ)が舞台になっています。一週間前(11月27日)にも取材に行きましたが、時期が早かったとためか、主要テーマのもみじが色づいていなかったので”名所江戸百景シリーズ”にはしないで、きたろう散歩としてアップしました。
#01、真間の紅葉手古那の社継はし(広重画)(秋94景)
安政4年(1857)正月
さて、”真間の紅葉”ですが、真間はこの辺の地名で、現在もこの地名は残っています。因みに、”まま”とは崖のことで、昔、この辺は江戸川から入り江が入り込み、崖状の地形があったので、真間という地名になりました。
真間の弘法寺は、江戸時代から紅葉の名所として知られ、秋の紅葉狩りシーズンには、江戸からも見物客が、来訪しました。当時は、舟が交通手段で、小名木川経由で来ました。
当時、境内には、楓の木が多数ありましたが、明治21年1月15日、弘法寺の深夜の火事で、本堂、祖師堂、山門と共に多数失われてしまいました。現在、楓の木は境内には数えるほどしかありません。
広重の「秋94景」の絵(絵#01)描かれた二股の木は「楓」で、画面中央から上部に大きくもみじの葉が描かれています。
この真間の地には、手古那(以下手児奈と記す)姫伝説が伝わっています。手児奈姫は、若く美しい娘ですが訳あって、自らの命を絶ってしまったというお話です。伝説とは言え、その霊を慰めるお堂が、真間にあり「手児奈霊堂」と言います。”手古那(てこな)の社”とは、この手児奈霊堂のことです。
広重の絵では、左の楓の幹の向こう側、水辺の傍にあるお堂として手児奈霊堂が描かれています。
※手児奈霊堂の詳細については、文末に、市川市教育委員会の「手児奈霊堂」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
万葉集が作られた頃、真間の入り江の江戸川の口付近には、砂州が広がってました。砂州と砂州を継橋で結んでいました。手児奈姫の伝説と継橋を織り込んだ読み人知らずの歌が万葉集に納められ現在まで伝わっています。
広重の絵で、継橋は画面の中央に、小さく描かれています。
※継橋の詳細については、文末に市川市教育委員会の「真間の継橋」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
手児奈霊堂 奈良時代のはじめ、山部赤人(やまべのあきひと)が下総国府を訪れたおり、手児奈の伝承を聞いて、 われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきどころ) と詠ったものが万葉集に収録されている 手児奈霊堂は、この奥津城所(墓所)と伝えられる地に建てられ、 文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀 る霊堂として、世に広めたという。 手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のため 人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の 入り江に身を沈めたとか、継母の仕え真間の井の水を汲んでは孝養を 尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の 国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが 生れ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったり する等、いろいろと形を変えて伝えられている。 万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、 市川市における文学のふる里であるともいえる。 昭和58年3月 市川市教育委員会
真間の継橋 その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂洲と の間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に 向って奥深い入江ができていた。この入江を『真間の入江」とよ び、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた 片葉の葦 やスゲ等 が密生していた。 国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道 は、市川砂州上を通っていた。砂洲から国府台の台地に登る間の、 入江の□には幾つかの湖ができていて、その洲から洲に掛け渡さ れた橋が、万葉集に詠われた『真間の継橋』なのである。この継橋は 足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ (足音せずに行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋をいつも手児 奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの 歌ではあるが、当詩の都びとに’まで知れわたっていたのである。 この真間周辺には継橋をはじめ、手見奈の奥津城(墓)、真間の 井など、万葉集に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経 つにつれて、人びとの間から忘れ去られていくのであるが。これ を憂えた鈴木長頼は、弘法寺の十七世日貞上人と議して、元禄九 年(一六九六)その地と推定される位置に碑を建て、万葉の旧跡 を末永く顕彰することを図った。この碑がいまに 残る 真間の三碑 である。 昭和五十八年三月 市川市教育委員会
きたろう散歩(弘法寺の紅葉・Ⅰ) [広重・名所江戸百景]
第17回、増上寺塔赤羽根(とうあかばね)(夏53景) [広重・名所江戸百景]
2011/10/16(日)アップ
2011/09/28(水)取材
前回(第16-3回)増上寺三門一般公開で、この三門の二階部分に入場した話をしましたが、この入場の前に、江戸時代にあった、増上寺の五重の塔があった場所を取材しました。
まず、絵の題字の説明ですが、塔はもちろん絵の右半分に描かれた。五重の塔のことです。
赤羽根は絵の左側のあたりの当時の地名です。塔の左に描かれている橋は赤羽根橋です。現在、赤羽根の地名は残っていませんが、橋の名前(赤羽橋)と交差点名(赤羽橋交差点)にその名を留めています。
塔の左側の川は古川で、現在はこの川の上に、高速道路・都心環状線が作られています。
#00 増上寺塔赤羽根(広重画)
赤羽根橋の左側にある交番の様な建物は、辻番所です。更に左の武家屋敷は九州久留米藩主有馬中務大輔(なかつかさたいふ)の上屋敷です。この屋敷内の岡の上に江戸で一番高い火の見櫓が作られていました。火の見櫓と五重の塔の間に見える、白い幟(のぼり)は、水天宮の幟です。この水天宮は明治5年に人形町に移転しました。
さて、この絵の五重の塔ですが、これは文化三年(1806年)に再建されたものです。元々は、江戸初期に初代の大老・姫路の酒井雅楽頭(うたのかみ)が建立しました。
この塔は、増上寺の南側にある、前方後円墳・丸山古墳の前方部上に建っていました。
(#01の五千分一東京図参照)
この五重の塔は、昭和20年5月25日の夜の空襲で焼け落ちてしまい、それっきりで再建はされませんでした。
というわけで、この塔の現在の写真はありませんが、この近辺の主要スポットの写真を紹介します。
#01、江戸期と明治時代と現代の地図比較
現代の地図上の、#02~#09は、各写真№の撮影場所と方向です。
※画面上をクリックすると拡大表示になります。(他の写真でも同様です)
#02、芝公園内の川
現在、ここは芝公園になっていますが、江戸時代はこの辺まで増上寺の境内でした。
また、戦前までは、この川の先の方向に五重の塔がありました。
#03、銀世界の梅
江戸時代に「梅屋敷銀世界」と呼ばれていた梅林で、西新宿三丁目(東京ガス敷地内)にありました。昭和41年にここに移植されました。
#04、丸山古墳(前方後円墳の前方部分の下の辺り)
全長106mの丸山古墳。都内最大級の古墳で、5世紀代の築造と考えらるものです。ここは古墳の中の前方部分で、戦前までこの上に五重の塔が建っていました。
#05、丸山古墳・後円部分(から南東方向を望む)
後円部は、標高約16mであり、後円部の北寄りの所に「伊能忠敬測地遺功表」があります。
写真は、この遺功表の上に上がって撮影しました。
#06 東照宮
(詳細未取材)
#07、惣門
(詳細未取材)
#08、天然記念物・増上寺のカヤ
樹高25m以上のこのカヤの木は推定樹齢600年とのことです。増上寺には、このカヤに関する記録は特に無いとのことです。江戸期の地図で、この付近に相当する位置に「飯倉茅天神」というのがありますが、このカヤの木と関係があるのかどうか?これは不明です。
東京都港区の指定文化財でもあります。
#09、増上寺本堂
増上寺は浄土宗で、江戸時代は徳川家の菩提寺として、幕府の手厚い保護を受けました。この本堂は昭和20年(1945年)5月の空襲により焼失し、昭和49年に地上三階、地下1階・鉄筋コンクリート建てで再建されました。本尊の阿弥陀如来像は2階にお祀りしてあります。
因みに増上寺の寺紋は、徳川家と同じ三つ葉葵の御紋です。
#10、芝公園内の川(平成11年撮影)
写真#02と同様場所で12年前の平成11年5月25日(火)に撮影した写真です。
以前は、きれいな水が流れていました。今思えば、この日は、奇しくも、この辺りが空襲を受けた日だったんですね。その時は、何も感じませんでしたが・・・
2011/09/28(水)取材
前回(第16-3回)増上寺三門一般公開で、この三門の二階部分に入場した話をしましたが、この入場の前に、江戸時代にあった、増上寺の五重の塔があった場所を取材しました。
まず、絵の題字の説明ですが、塔はもちろん絵の右半分に描かれた。五重の塔のことです。
赤羽根は絵の左側のあたりの当時の地名です。塔の左に描かれている橋は赤羽根橋です。現在、赤羽根の地名は残っていませんが、橋の名前(赤羽橋)と交差点名(赤羽橋交差点)にその名を留めています。
塔の左側の川は古川で、現在はこの川の上に、高速道路・都心環状線が作られています。
#00 増上寺塔赤羽根(広重画)
赤羽根橋の左側にある交番の様な建物は、辻番所です。更に左の武家屋敷は九州久留米藩主有馬中務大輔(なかつかさたいふ)の上屋敷です。この屋敷内の岡の上に江戸で一番高い火の見櫓が作られていました。火の見櫓と五重の塔の間に見える、白い幟(のぼり)は、水天宮の幟です。この水天宮は明治5年に人形町に移転しました。
さて、この絵の五重の塔ですが、これは文化三年(1806年)に再建されたものです。元々は、江戸初期に初代の大老・姫路の酒井雅楽頭(うたのかみ)が建立しました。
この塔は、増上寺の南側にある、前方後円墳・丸山古墳の前方部上に建っていました。
(#01の五千分一東京図参照)
この五重の塔は、昭和20年5月25日の夜の空襲で焼け落ちてしまい、それっきりで再建はされませんでした。
というわけで、この塔の現在の写真はありませんが、この近辺の主要スポットの写真を紹介します。
#01、江戸期と明治時代と現代の地図比較
現代の地図上の、#02~#09は、各写真№の撮影場所と方向です。
※画面上をクリックすると拡大表示になります。(他の写真でも同様です)
#02、芝公園内の川
現在、ここは芝公園になっていますが、江戸時代はこの辺まで増上寺の境内でした。
また、戦前までは、この川の先の方向に五重の塔がありました。
#03、銀世界の梅
江戸時代に「梅屋敷銀世界」と呼ばれていた梅林で、西新宿三丁目(東京ガス敷地内)にありました。昭和41年にここに移植されました。
#04、丸山古墳(前方後円墳の前方部分の下の辺り)
全長106mの丸山古墳。都内最大級の古墳で、5世紀代の築造と考えらるものです。ここは古墳の中の前方部分で、戦前までこの上に五重の塔が建っていました。
#05、丸山古墳・後円部分(から南東方向を望む)
後円部は、標高約16mであり、後円部の北寄りの所に「伊能忠敬測地遺功表」があります。
写真は、この遺功表の上に上がって撮影しました。
#06 東照宮
(詳細未取材)
#07、惣門
(詳細未取材)
#08、天然記念物・増上寺のカヤ
樹高25m以上のこのカヤの木は推定樹齢600年とのことです。増上寺には、このカヤに関する記録は特に無いとのことです。江戸期の地図で、この付近に相当する位置に「飯倉茅天神」というのがありますが、このカヤの木と関係があるのかどうか?これは不明です。
東京都港区の指定文化財でもあります。
#09、増上寺本堂
増上寺は浄土宗で、江戸時代は徳川家の菩提寺として、幕府の手厚い保護を受けました。この本堂は昭和20年(1945年)5月の空襲により焼失し、昭和49年に地上三階、地下1階・鉄筋コンクリート建てで再建されました。本尊の阿弥陀如来像は2階にお祀りしてあります。
因みに増上寺の寺紋は、徳川家と同じ三つ葉葵の御紋です。
#10、芝公園内の川(平成11年撮影)
写真#02と同様場所で12年前の平成11年5月25日(火)に撮影した写真です。
以前は、きれいな水が流れていました。今思えば、この日は、奇しくも、この辺りが空襲を受けた日だったんですね。その時は、何も感じませんでしたが・・・
第16-3回、増上寺三門一般公開(広重名所江戸百景番外編)(一般公開は終了しました) [広重・名所江戸百景]
一般公開は終了しました2011/10/02(日)アップ
2011/09/28(水)取材
前回増上寺大門を9月14日に取材しましたが、その直後、TVで増上寺三門が戦後初めて一般公開されているという報道が流れていました。昔の大きい門は、門の二階部分が部屋のようになっていて、この部分を公開するというものでした。
9月28日(水)この門に入場するため、再びこの地を訪れました。
(この門への入場の前に、江戸名所百景の「増上寺塔赤羽」の取材を行いましたが、それについては、次回発表します。)
この門は、江戸の初期・元和8年(1622年)に再建されたものが、大震災、東京大空襲時にも火災にあわず残ったという貴重な門で、重要文化財に指定されています。
#01、増上寺三門(東側から望む)(簡易俯瞰撮影)
#02、増上寺三門(南側から望む)
#03、増上寺三門一階部拡大(パノラマ合成写真)
門二階へは、門の右側の建物(の裏側)から入場し、急な階段を上って二階に行きます。二階の正面向かって左側(南側)から階段を下ります(降りる階段が写真で写っています)。
#04、増上寺三門南側の建物(昇降口)
見学者はこの建物(の裏)から退場します
#05、増上寺三門近接写真(南側から)
二階部の周囲は、回廊になっています。二階見学後ここを通って帰ります。
#06、増上寺三門から本堂を望む
#07、三門(三解脱門)一般公開のポスター
ポスターのとおり11月30日(水)まで公開されます。
三門の正式名は三解脱門で、この門をくぐると、三毒煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)から離れることが出来るとされています。
#08、三門二階から、大門方向(東方向)を望む
二階には、釈迦三尊像、十六体の羅漢像が安置されていますが、二階内部は撮影禁止なので写真はありません。
三門は、江戸時代も期間を決めて一般公開されていました。江戸時代は、この二階からの眺望は素晴らしく海も見えました。
今年の3月10日の放送された、ブラタモリで、タモリもここから、久保田アナと東方向を眺めていました。
#09、境内側から三門外(大門方向)を望む
大門の向こう側がJR浜松町駅になります。
#10、入場記念のグッズ(栞)
竹製の栞、表面は、広重の「芝神明増上寺」の絵柄です。裏面は、増上寺の署名。紋は、なんと三葉葵の御紋です。徳川家の菩提寺なのでこの紋が許される訳です。
この門への、入場料は500円で、上の記念品が付きます。尚、二階へ上がる階段は、階段というより梯子と言った方が良い程急勾配ですので、ご留意ください。
2011/09/28(水)取材
前回増上寺大門を9月14日に取材しましたが、その直後、TVで増上寺三門が戦後初めて一般公開されているという報道が流れていました。昔の大きい門は、門の二階部分が部屋のようになっていて、この部分を公開するというものでした。
9月28日(水)この門に入場するため、再びこの地を訪れました。
(この門への入場の前に、江戸名所百景の「増上寺塔赤羽」の取材を行いましたが、それについては、次回発表します。)
この門は、江戸の初期・元和8年(1622年)に再建されたものが、大震災、東京大空襲時にも火災にあわず残ったという貴重な門で、重要文化財に指定されています。
#01、増上寺三門(東側から望む)(簡易俯瞰撮影)
#02、増上寺三門(南側から望む)
#03、増上寺三門一階部拡大(パノラマ合成写真)
門二階へは、門の右側の建物(の裏側)から入場し、急な階段を上って二階に行きます。二階の正面向かって左側(南側)から階段を下ります(降りる階段が写真で写っています)。
#04、増上寺三門南側の建物(昇降口)
見学者はこの建物(の裏)から退場します
#05、増上寺三門近接写真(南側から)
二階部の周囲は、回廊になっています。二階見学後ここを通って帰ります。
#06、増上寺三門から本堂を望む
#07、三門(三解脱門)一般公開のポスター
ポスターのとおり11月30日(水)まで公開されます。
三門の正式名は三解脱門で、この門をくぐると、三毒煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)から離れることが出来るとされています。
#08、三門二階から、大門方向(東方向)を望む
二階には、釈迦三尊像、十六体の羅漢像が安置されていますが、二階内部は撮影禁止なので写真はありません。
三門は、江戸時代も期間を決めて一般公開されていました。江戸時代は、この二階からの眺望は素晴らしく海も見えました。
今年の3月10日の放送された、ブラタモリで、タモリもここから、久保田アナと東方向を眺めていました。
#09、境内側から三門外(大門方向)を望む
大門の向こう側がJR浜松町駅になります。
#10、入場記念のグッズ(栞)
竹製の栞、表面は、広重の「芝神明増上寺」の絵柄です。裏面は、増上寺の署名。紋は、なんと三葉葵の御紋です。徳川家の菩提寺なのでこの紋が許される訳です。
この門への、入場料は500円で、上の記念品が付きます。尚、二階へ上がる階段は、階段というより梯子と言った方が良い程急勾配ですので、ご留意ください。
第16-2回「芝神明増上寺」(秋79景)(下) [広重・名所江戸百景]
2011/10/01アップ
2011/09/28(水)取材
前回、増上寺大門に関して、広重が描いたのと同視点での写真を撮ってはいませんでした。
また、増上寺三門が9月17日から、一般公開が始まり、この公開は期間限定ということで、広重と同じ視点と同一の写真を撮り、また、三門の一般公開に参加すべく、再度増上寺を訪れることにしました。
浜松町の駅を降りて、西の方向へ向かい数分で大門の前に着きました。
今から、約150年前の広重の視点、および9年前のフィルムカメラでの視点とほぼ同じ地点で写真を撮りました。
今回は、広重の視点に、”より”近ずくため簡易俯瞰撮影を行いました(一脚を利用し地上約3mの高さから撮影を行った)。
#01 増上寺大門を望む(1)
画面奥が、増上寺大門、前回アップした9年前の写真の画面右に「あさひ銀行」と見えるのは、現在では「りそな」銀行として引き継がれています。
この辺が広重の視点に、近いと思われます。現在では、ビルに隠れていますが、芝大神宮は、手前のビルが無ければ、画面右、りそな銀行の奥の方に見えるはずです。
画面左に、大門の左半分を隠すように、箱型の荷台のトラックが駐車しています。このトラックが、どかないかと10分位そこで粘ってましたが、トラックは、動く気配がなく、あきらめて、門の方に近づき撮影を行いました。
#02 増上寺大門を望む(2)
このアングルですと、門全体は見えますが、ここまで来ると、広重の視線よりは、門に近づき過ぎということになります。
この、大門をくぐりさらに西に進み、増上寺三門の一般公開に参加して来ました。
それは、項を改めて、次回報告したいと思います。
2011/09/28(水)取材
前回、増上寺大門に関して、広重が描いたのと同視点での写真を撮ってはいませんでした。
また、増上寺三門が9月17日から、一般公開が始まり、この公開は期間限定ということで、広重と同じ視点と同一の写真を撮り、また、三門の一般公開に参加すべく、再度増上寺を訪れることにしました。
浜松町の駅を降りて、西の方向へ向かい数分で大門の前に着きました。
今から、約150年前の広重の視点、および9年前のフィルムカメラでの視点とほぼ同じ地点で写真を撮りました。
今回は、広重の視点に、”より”近ずくため簡易俯瞰撮影を行いました(一脚を利用し地上約3mの高さから撮影を行った)。
#01 増上寺大門を望む(1)
画面奥が、増上寺大門、前回アップした9年前の写真の画面右に「あさひ銀行」と見えるのは、現在では「りそな」銀行として引き継がれています。
この辺が広重の視点に、近いと思われます。現在では、ビルに隠れていますが、芝大神宮は、手前のビルが無ければ、画面右、りそな銀行の奥の方に見えるはずです。
画面左に、大門の左半分を隠すように、箱型の荷台のトラックが駐車しています。このトラックが、どかないかと10分位そこで粘ってましたが、トラックは、動く気配がなく、あきらめて、門の方に近づき撮影を行いました。
#02 増上寺大門を望む(2)
このアングルですと、門全体は見えますが、ここまで来ると、広重の視線よりは、門に近づき過ぎということになります。
この、大門をくぐりさらに西に進み、増上寺三門の一般公開に参加して来ました。
それは、項を改めて、次回報告したいと思います。
第16-1回「芝神明増上寺」(秋79景)(上) [広重・名所江戸百景]
(2011/09/21アップ)
2011/09/14(水)
今回は、芝神明増上寺(しばしんめいぞうじょうじ)です。
まず、絵の題ですが、芝神明は、現在もこの地に建っている芝大神宮(しばだいじんぐう)のことで、広重の絵では、画面右(上)に描かれています。
増上寺は、徳川家の菩提寺として有名な増上寺で、増上寺の大門が、絵の左(上)に描かれています。
#00、芝神明増上寺
画面手前の、一行は、地方から来た観光客の一行です。徳川家菩提所の参拝を済ませ、これから、大神宮へ参拝するものと思われます。
彼ら、彼女らの表情を良く見て頂きたい。歩きながら、結構大声でおしゃべりしています。現代の団体の観光客の行動もこの時代となんら変わらないのではないのでしょうか。
後ろの、僧侶の一団は、増上寺の青年僧の一団で、七ツ(午後4時)の鐘を合図に、増上寺を出発、托鉢に出かけるところです。七ツ時に出かけるので、人々は七ツ坊主と呼びました。
広辞苑によれば「江戸末期に、寺の僧たちが、毎日七つ(午後四時)頃から拍子木をたたき、念仏を唱えて、江戸の町を托鉢(たくはつ)して歩いたもの。」とあります。
これは、この僧たちの表面的な説明で、「絵本江戸風俗往来」によれば、「日暮七ツ時という鐘声を報ずるや、十人二十人ずつ組みて市中所々へ托鉢に出る増上寺の僧で、ゆえに、この名がついた。この坊主の集団は、修行と称して、道行く武士などに論争をふっかけて回り、托鉢は名のみにして、実は大道横行する者を懲しめんことを専らとす」というのが、実態でした。(東洋文庫50、『絵本江戸風俗往来』(菊池貴一郎著、鈴木棠三編)
托鉢という行動から逸脱しているとも考えられるこれらの行動は、徳川家の菩提寺である増上寺を後ろ盾にしていることもあって、黙認されていたようでした。
きたろうは午前中神田で所用を済ませ、ここにはJR浜松町駅から来ました。浜松町駅からここまでは数分で来れます。
#01:大門裏から増上寺三門を望む
この写真は、今回(9月14日)撮った写真で、増上寺の大門の裏から、増上寺の三門(三解脱門)を望んだところです。この三門は江戸初期に建てられ、その後1622年に再建されたものが残っていて、国の重要文化財に指定されています。
この三門の二階部分は、戦後公開されたことがなかったのですが、一昨日(9月19日)のTVで、現在、この門の、二階部分を公開しているとの報道がなされていました。(11月30日まで、拝観料500円)
当日、きたろうは勘違いして、広重の絵と同じアングルと思って、この写真を撮っていましたが、この写真を撮った位置は、広重の絵でいうと左上に見える門(大門)の内側から撮っていた事になります。
#02:増上寺大門を望む
この写真は、9年前(2002年)に撮った写真(フィルムカメラで)ですが、ここに見える門は、大門で、この写真の方が広重の視点に近い写真です。
「あさひ銀行」という看板が時代を感じさせます。
(この時は、広重の絵と同じ場所のアングルを押さえていたのに、今回はどうしたんでしょうね?)
さて、芝神明、現在は芝大神宮と呼ばれていますが、#02の写真で言うと、あさひ銀行の裏の通りを右の入って行くと大神宮の参道にぶつかります。
#03:芝大神宮社殿正面
芝大神宮について、ネットで調べた中で、きたろうが一番気に入った説明のものを、以下そのまま転載します。
(本来は、芝大神宮内の縁起を記した説明板等の写真を載せる所ですが、その類の説明板等は見あたりませんでした。)
今日(9月14日)、芝神明増上寺を取材しようと思ったのは、午前に都内に所用があったこともありますが、芝大神宮の例祭期間中だったこともあります。
9月16日の大祭祭儀を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それらが長期間「だらだら」と続くために、古来より「だらだら祭り」とも言われているそうです。
写真#04:祭り期間中なので、神輿が展示してありました。
写真#05:芝大神宮参道
大神宮の鳥居の方向が西になります。社殿は東向きに建っています。
写真06:芝大神宮(奥の院)
大神宮の奥の院を裏から見た所。裏からだと、社殿(神明造り)の千木等が良く見えます。
#07:増上寺大門
広重の絵の左上の門は、この門です。この辺の地名「芝大門」や都営地下鉄の「大門駅」は。この門に因んで命名されました。現在の門は、昭和12年に作られたコンクリート製の門です。
当時、この門の内側が寺社の境内でしたが、現在は、民間のビルで占められています。
(現在は、この奥の三門の内側が寺社の境内になっています)
#08大門の前のレリーフ
この辺を描いた、浮世絵のレリーフで左のレリーフは、本項、広重の絵をレリーフにしたものです。
右の絵は、芝神明のだらだら祭りの様子を描いた浮世絵のようです。
#09:大門(古写真)撮影年月不明
門の内側の参道の両脇に並んでいるのは、茶店と思われる。
#10:芝神明(古写真)撮影年月不明
現在の社殿は、結構高いとこにありますが、これは自然の地形でなく、人工的に嵩上げしている
ことが、この写真からわかります。嵩上げした部分は、駐車場になっています。
注)本項続編を新設したのでタイトルを変更しました。
2011/09/14(水)
今回は、芝神明増上寺(しばしんめいぞうじょうじ)です。
まず、絵の題ですが、芝神明は、現在もこの地に建っている芝大神宮(しばだいじんぐう)のことで、広重の絵では、画面右(上)に描かれています。
増上寺は、徳川家の菩提寺として有名な増上寺で、増上寺の大門が、絵の左(上)に描かれています。
#00、芝神明増上寺
画面手前の、一行は、地方から来た観光客の一行です。徳川家菩提所の参拝を済ませ、これから、大神宮へ参拝するものと思われます。
彼ら、彼女らの表情を良く見て頂きたい。歩きながら、結構大声でおしゃべりしています。現代の団体の観光客の行動もこの時代となんら変わらないのではないのでしょうか。
後ろの、僧侶の一団は、増上寺の青年僧の一団で、七ツ(午後4時)の鐘を合図に、増上寺を出発、托鉢に出かけるところです。七ツ時に出かけるので、人々は七ツ坊主と呼びました。
広辞苑によれば「江戸末期に、寺の僧たちが、毎日七つ(午後四時)頃から拍子木をたたき、念仏を唱えて、江戸の町を托鉢(たくはつ)して歩いたもの。」とあります。
これは、この僧たちの表面的な説明で、「絵本江戸風俗往来」によれば、「日暮七ツ時という鐘声を報ずるや、十人二十人ずつ組みて市中所々へ托鉢に出る増上寺の僧で、ゆえに、この名がついた。この坊主の集団は、修行と称して、道行く武士などに論争をふっかけて回り、托鉢は名のみにして、実は大道横行する者を懲しめんことを専らとす」というのが、実態でした。(東洋文庫50、『絵本江戸風俗往来』(菊池貴一郎著、鈴木棠三編)
托鉢という行動から逸脱しているとも考えられるこれらの行動は、徳川家の菩提寺である増上寺を後ろ盾にしていることもあって、黙認されていたようでした。
きたろうは午前中神田で所用を済ませ、ここにはJR浜松町駅から来ました。浜松町駅からここまでは数分で来れます。
#01:大門裏から増上寺三門を望む
この写真は、今回(9月14日)撮った写真で、増上寺の大門の裏から、増上寺の三門(三解脱門)を望んだところです。この三門は江戸初期に建てられ、その後1622年に再建されたものが残っていて、国の重要文化財に指定されています。
この三門の二階部分は、戦後公開されたことがなかったのですが、一昨日(9月19日)のTVで、現在、この門の、二階部分を公開しているとの報道がなされていました。(11月30日まで、拝観料500円)
当日、きたろうは勘違いして、広重の絵と同じアングルと思って、この写真を撮っていましたが、この写真を撮った位置は、広重の絵でいうと左上に見える門(大門)の内側から撮っていた事になります。
#02:増上寺大門を望む
この写真は、9年前(2002年)に撮った写真(フィルムカメラで)ですが、ここに見える門は、大門で、この写真の方が広重の視点に近い写真です。
「あさひ銀行」という看板が時代を感じさせます。
(この時は、広重の絵と同じ場所のアングルを押さえていたのに、今回はどうしたんでしょうね?)
さて、芝神明、現在は芝大神宮と呼ばれていますが、#02の写真で言うと、あさひ銀行の裏の通りを右の入って行くと大神宮の参道にぶつかります。
#03:芝大神宮社殿正面
芝大神宮について、ネットで調べた中で、きたろうが一番気に入った説明のものを、以下そのまま転載します。
(本来は、芝大神宮内の縁起を記した説明板等の写真を載せる所ですが、その類の説明板等は見あたりませんでした。)
芝大神宮・・・東京都港区芝大門一丁目芝神明と称され、伊勢神宮のご祭神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)と 豊受大神(とようけのおおかみ)の二柱を主祭神とする「関東のお伊勢さま」です。創建は平安時代の寛弘2年(1005年)で、一条天皇の御代から続く由緒あるお社。鎌倉時代には、征夷大将軍・源頼朝より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、 江戸時代には、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はさらに賑わいをみせて 安藤広重などの浮世絵で描かれたように、関東一円の庶民信仰を集めました。現在も縁結びや金運上昇などのご利益を求めて、多くの参拝者が訪れています。(OTALABO 開運史学から引用)
今日(9月14日)、芝神明増上寺を取材しようと思ったのは、午前に都内に所用があったこともありますが、芝大神宮の例祭期間中だったこともあります。
9月16日の大祭祭儀を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われますが、それらが長期間「だらだら」と続くために、古来より「だらだら祭り」とも言われているそうです。
写真#04:祭り期間中なので、神輿が展示してありました。
写真#05:芝大神宮参道
大神宮の鳥居の方向が西になります。社殿は東向きに建っています。
写真06:芝大神宮(奥の院)
大神宮の奥の院を裏から見た所。裏からだと、社殿(神明造り)の千木等が良く見えます。
#07:増上寺大門
広重の絵の左上の門は、この門です。この辺の地名「芝大門」や都営地下鉄の「大門駅」は。この門に因んで命名されました。現在の門は、昭和12年に作られたコンクリート製の門です。
当時、この門の内側が寺社の境内でしたが、現在は、民間のビルで占められています。
(現在は、この奥の三門の内側が寺社の境内になっています)
#08大門の前のレリーフ
この辺を描いた、浮世絵のレリーフで左のレリーフは、本項、広重の絵をレリーフにしたものです。
右の絵は、芝神明のだらだら祭りの様子を描いた浮世絵のようです。
#09:大門(古写真)撮影年月不明
門の内側の参道の両脇に並んでいるのは、茶店と思われる。
#10:芝神明(古写真)撮影年月不明
現在の社殿は、結構高いとこにありますが、これは自然の地形でなく、人工的に嵩上げしている
ことが、この写真からわかります。嵩上げした部分は、駐車場になっています。
注)本項続編を新設したのでタイトルを変更しました。