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河津桜開花情報(江戸川沿い)① [きたろう散歩]

昨日AM、関わりのある某SNSを閲覧していたら、「河津桜開花」の投稿を見て、急に地元の江戸川沿いの河津桜が気になって、カメラを持って出かけました。

#01、江戸川沿いの河津桜並木
&01P1040772.jpg
並木が茶色っぽい・・・ということは、まだまだつぼみも多いということか?

#02、河津桜と駅前のツインタワービル
&02P1040764.jpg
前回の「ダイヤモンド富士」の記事で、「一輪だけ開花した」と紹介した木と同じ木です。この部分を見ると、2~3分咲きというところか?

#03、この部分は3~4分咲き?(きたろう散歩)
&03P1040767.jpg


#04、この部分は6~8部咲き?(きたろう散歩)
&04P1040769.jpg


#05、春のうらら・・・(きたろう散歩)
&05P1040771.jpg
画面だけ見るとおだやかな春の景色ですが、前方(西)からの風が強烈で、風圧でカメラを持つ手が安定しませんでした。
予報で、気温は17度まで上がっているはずですが、風が強くぽかぽか陽気とはなりませんでした。

#06、昼の月が出ていました(14時36分)
&06P1040761.jpg


#07、河川敷公園の利用制限
&07P1040775.jpg
昨年の今頃、このような状況になるとは全く予想もつきませんでした(もっと楽観的に考えていた)。

#08、・ ・ ・
&08P1040780.jpg


#09、対岸の景色
&09P1040758.jpg
完全に春の空気感です。
水曜にまた見に来よう・・・
END




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さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅲ(寺川邸・下) [きたろう散歩]

さだまさしシリーズは、「ダイヤモンド富士」や「木星・土星接近」の記事で中断してしまいました。
遅筆故、さだまさしシリーズ途中で、新たな興味ある出来事がおこり記事としてアップしてしまったからです。ご了承ください。今回また、さだまさしシリーズに戻り続けたいと思います。
さて、今回のテーマは、さだまさし氏(=以下雅志君とも呼称)が昭和42年から昭和47年(1967~1972)(中学3年の春から大学2年の春まで)に下宿していた寺川邸のありし日の写真を探し出すということです。

まず、私のオリジナル写真に何か無いかと調べました。
寺川邸は菅野2丁目にありましたが、この近辺の写真として、次の写真がありました。本シリーズⅠにも掲載しましたが、建替え直後の日出学園幼稚園から東方の外環自動車道の工事現場の方を撮影した写真です(2009年9月)。

#01、日出学園幼稚園から東方を望む(2009年9月)(きたろう散歩)
#01日の出幼稚園から東方を望む2009年.jpg
※日出学園幼稚園・・・市川市菅野2丁目21−12

当時の状況を、ネットで公開されている国土地理院の航空写真で確認してみました。

#02、寺川邸付近の航空写真(国土地理院 2009年)
#02寺川邸付近付近の航空写真2009年.jpg
※寺川邸・・・市川市菅野2丁目18-10
2009年は、外環自動車道(市川区間)の用地買収が大分進んだという状況でした。寺川邸は外環自動車道の工事で最終的には解体されましたが、2009年当時は、まだ寺川邸が残っていました。但し、この写真をよく見ると、寺川邸の母屋の西側と南側の一部は解体され削られているようでした。

#03、寺川邸の場所の推定(写真#01の拡大写真)(きたろう散歩)
#03寺川邸の推定位置2009年.jpg
#03の写真は、#01の写真を拡大したものですが、#02の航空写真の寺川邸の位置と照らし合わせて見ると、#03の写真中赤矢印の先あたりに寺川邸があったと推定されます。
このときは、外環自動車道の工事状況を撮影しに行ったもので、この辺に、かつて雅志君が住んでいたということは全く認識していませんでした。

因みに、当時撮影した他の写真も掲載します。

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さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅱ(寺川邸・中)❖❖書き直し版❖❖ [きたろう散歩]

さだまさしのコンサートの記事をはさんだこともあり、本テーマの記事の投稿は久しぶりとなります。
前回アップした記事では、寺川家敷地内の寺川邸母屋、寺川邸離れの位置の推定で重大な誤認がありその記事は保留(没)としました。今回、新たに寺川邸母屋・離れの位置の推定を行ないました。これを『寺川邸・中❖❖書き直し版❖❖』としてアップいたします。(※2020-09-04 にアップした「(寺川邸(中))は今回、全面的に「没」とさせて頂きます。」
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2020年10月23日 アップ
さて、「寺川邸(上)」で、寺川邸の住所が「菅野町5丁目266番地」というところまで、探査しましたが、この住所は、旧住居表示の方式で、このままでは、現在の場所が特定できないので、現在の住居表示方式での住所を探りました。
尚、今回の記事は、かなりマニュアックなものなので、さらっと内容を知りたい方は、本ブログ末尾の#13の図と文章、及びさだまさし著「ちゃんぽん食べたかっ!」の寺川邸の記述に関する抜粋(#09の下及び#11の下の枠で囲んだ文章)を読んで頂ければ十分です。


◆◆寺川邸の住所の特定◆◆
#08、寺川邸の住所の特定①(市川市菅野)
#08昭和41年住宅地図(市川市菅野).jpg
寺川家の住所は、昭和41年(注)の住宅地図で「菅野町5丁目266番地」でした。
注)雅志君は、昭和42年から寺川家(離れ)で暮らしているので、昭和41年時点では、ここに住んでいません。

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さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅱ(寺川邸(中))に関する緊急告知 [きたろう散歩]

一昨日(9月4日)夜、「さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅱ(寺川邸(中))」をアップしましたが、昨日の朝になって、「寺川邸の母屋と離れの推定」が、一部のほころびもなくあまりにも見事に推定が完結していたことに自分自身で疑念を持ちました。そこで、同日午後に、寺川家の記載してある住宅地図を、年代順(さだまさしが住んでいた頃から外環工事が完了した2019年迄)に図書館で閲覧しました。そしたら、アップしたブログの寺川家の母屋と離れの推定は、誤りである可能性が濃厚にになりました。
そこで、「さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅱ(寺川邸(中))」の内容は、暫定処置で保留とさせて頂きます。(ブログの「誤り濃厚の箇所」は、取り消し線を引いてあります)
この件は、さらに慎重に検討し、訂正版をアップ予定です。
宜しくお願い致します

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2020年10月23日【保留⇒没】に変更しました。







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さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅱ(寺川邸(中))ちゃんぽん 食べたかっ!ネタバレ少しあり!! [きたろう散歩]

本記事には、肝心なところに、重大な誤認があり、この記事を『没』とさせて頂きます。 『さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅱ(寺川邸(中))』は、全面的に、内容を書き換えて、再アップ致します。  2020年10月23日記
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原作本「ちゃんぽん食べたかっ!」では、寺川邸の説明でさらに「敷地内には豊田通商の社宅などに使っている二軒のアパートが建っており、裏通りに面した駐車場もあった。立派な母屋の廊下とL字型に繋がったこの立派な「離れ」には横に六畳、八畳、十畳と三つの部屋が並んでいた。」と記述されていました。
この記述と1966年の住宅地図及び1999年の電子地図から総合的に判断して、寺川家敷地内の建物等の詳細を図#09、#10の様に推定しました。

#09、寺川家敷地内建物の解析①
#09寺川家敷地内建物の解析①.jpg


#10、寺川家敷地内建物の解析②
#10B寺川家敷地内建物の解析②.jpg

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さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅰ(寺川邸(上))ちゃんぽん食べたかっ!ネタバレあり!! [きたろう散歩]

久しぶりに投稿します。今回休んでいたのは、かなり難しいテーマのため、文献調査と現地調査で時間が取られたからです。(ちょっとオーバーですが・・・)
 また、なぜ、今の時期「さだまさし」なのかということですが、5年前、さだまさしの高校時代からプロデビューまでの出来事を素材にした、NHKのTV青春ドラマ「ちゃんぽん食べたか」が放映されました。その放映期間中に、我が地元・市川で「さだまさしミュージアム」というさだまさしに関する展示会が開催されました。この詳細は、拙ブログで2015年7月5日~7月25日の間6回に渡ってアップしました。私は、ソネブロの他にも、2~3SNSをやっていますがその一つのSNSにも、同様記事を投稿していました。その記事に、最近コメントが付き、その方と、SNS上で若干やりとりをしていました。また、9月上旬に、市川でさだまさしのコンサートがあるという情報が入り、5年ぶりに、「さだまさし」熱が再燃したからです。

 5年前、いろいろな切り口でさだまさしを取り上げましたが、その一つとして、さだまさしの第2のふるさと・市川市での、さだまさしのゆかりの地の探索しました。大学時代に住んだアパートの「平川荘」、大事な大事なヴァイオリンを質入した質屋、通った銭湯、さださんのお父様が親しく交流した畳屋さん等は、場所を特定し写真に収めました。しかし、中学3年から大学2年まで下宿をしていた寺川邸、大学時代アルバイトをした居酒屋おざわ、同ペンキ屋(上田板金塗装)等については、探索を断念していました。今回、前回、探索を断念していた場所を突き止めようと挑戦しましたので、レポしたいとおもいます。

    

#01、寺川邸にて佐田雅志と大家さんの息子朔太郎と力哉(NHKドラマより)
#01寺川邸にて雅志と寺川(寺山)兄弟.jpg
 
※NHKドラマ「ちゃんぽん食べたか」※より、佐田雅志はドラマでは佐野雅志(=演 - 菅田将暉)、大家の息子、寺川朔太郎と同力哉であるが、ドラマでは寺山朔太郎と寺山力哉となっている。(寺山 朔太郎=演 - 澤部佑、寺山 力哉=演 - 中村倫也)
※原作本のタイトルは「ちゃんぽん食べたかっ!」であるが、TVドラマのタイトルは「ちゃんぽん食べたか」と微妙に異なっています。

   




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葛西臨海公園での花見(Ⅱ) [きたろう散歩]

2020/3/26(木) 取材
2020/4/8(水)  アップ

緊急事態宣言に伴い、私が通っているジムも、本日から休館となってしまいました。
3月初旬頃から、予定していたコンサートが次々と中止(延期)、私が開催している散歩会も取りやめとしている中、唯一ジムでの運動が、気晴らしになっていましたがとうとう、ここも休館で、八方塞がりの閉塞感がつのります。

都から、一次的な自粛要請が出た前日(3月26日)に訪問した葛西臨海公園からの景色の思い出して、少しは閉塞感を解消できればと思います。

葛西臨海公園(再掲)
#01A葛西臨海公園.jpg

◆◆葛西臨海公園◆◆
平成元年度に葛西臨海公園の一部約38ヘクタールがオープン。平成6年4月には鳥類園ゾーン、平成7年7月には展望レストハウス「クリスタルビュー」、平成13年春には観覧車がオープンしました。
また、葛西海浜公園にも隣接しており、行楽地としての色あいの濃い公園となっています。
(ホームページより)
葛西臨海公園案内図(再掲)

#03C葛西臨海公園園内マップB.jpg


***以下前回からの続きです***
芦ケ池から、「西なぎさレストハウス」へやって来ました。

●西なぎさレストハウス(北側から望む)
#17C8929B.jpg
Google Map より

#18、パークトレイン(先頭車両)
#18C8930.jpg
レストハウスで休憩していると、運休しているはずのパークトレインがやって来ました。良く見ると「研修中」の張り紙が貼ってありました。

#19、パークトレイン(客車)
#19C8957.jpg
研修中のため、客は乗っていませんでした。

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行徳橋の架替工事が完了・通行できるようになりました!!(市川市) [きたろう散歩]

2020年3月10日(火)及び11日(水)取材
同3月13日アップ

市川市の行徳地区と八幡地区を結ぶ行徳橋の架替工事が完了し※、通行可能となったので取材して来ました。
※行徳橋の北詰(稲荷木)の船橋方面からの接続道路はまだ工事中です(地図Gゾーン)。

#01、渡れるようになった行徳橋(3月10日14時19分)
#01架替後行徳橋開通3月10日IM5507.jpg
行徳橋、南詰(行徳側)の写真です。あいにくの雨で、写真写りが悪いので、明日再取材することにしました。

#02、行徳橋近辺の地図
#02行徳橋近辺地図③.jpg
3月11日午後、架替後の行徳橋を車で初めて渡り行徳橋の南詰めから行徳橋の写真を撮影しました。
※一般開放されている駐車場あります(無料)。

#03、架替後の行徳橋への新ルート(地図Aゾーン)
#03架替後行徳橋への新ルートP224.jpg
片側車線は、まだ工事中で、交互通行となっています。
尚、「架替後の行徳橋」というまどろっこしい表現をしていますが、新しく架け替えたからと言って「新行徳橋」ということにはなりません。既存の行徳バイパスが通っている橋が「新行徳橋」という名称のため、この橋は「架替後の行徳橋」という表現になります。

#04、同ルートを北側から撮影(Aゾーン)
#04南詰め新道路P223.jpg
工事は、最終段階で、恐らく本日中には相互通行になると推定されました。

#05、行徳橋南端の信号(地図B地点)
#05行徳橋南詰めP222.jpg
押しボタン式信号でした。

#06、架替後の親柱(左側)(B地点)
#06行徳橋親柱左P214.jpg


#07、架替後の行徳橋の車道
#07行徳橋車道P213.jpg
新型コロナウイルスの影響で学校が閉鎖のため、平日なのに子供の姿が多数見られました。

#08、同、自転車道&歩道
#08自転車道&歩道P210.jpg
幅は4mです。地面に描かれた水色の表示を見ると、車道寄りの2mが自転車道で、欄干側の2mが歩道でした。

#09、同親柱(右側)
#09親柱右P211.jpg
「令和二年三月竣工」と書いてあります。

#10、行徳橋の南端付近(C地点より撮影)
#10行徳橋C地点より撮影P221.jpg
まだ、工事用の資材等が置いてあります。

#11、行徳橋全景(C地点より撮影)
#11行徳橋上流からC地点から撮影P220.jpg


#12、行徳橋架替工事の看板
#12行徳工事の看板P219.jpg
架替後の行徳橋は通行開始となりましたが、工事は3月23日まで続きます。

#13、架替後の行徳橋の南端(地点Dより撮影)
#13D地点より撮影P229.jpg


#14、架替後の行徳橋(左)と廃止になった行徳橋(右)
#14D地点より撮影P209.jpg
正面に見える設備は可動堰です。可動堰の改修は平成26年(2014年)に終了しています。その後、行徳橋の架替工事が始まりました。

#15、廃止行徳橋親柱(左)
#15廃止行徳橋親柱P207.jpg


#16、廃止行徳橋の歩道
#16廃止行徳橋歩道P206.jpg
幅1.2m、これで、人間と自転車と相互通行していました。
※写真の撮り方が悪く通行出来るように見えますが、手前は金網で封鎖されています。(#15参照)

#17、廃止行徳橋の車道
#17廃止行徳橋車道P228.jpg


#18、廃止行徳橋の親柱(右)
#18廃止行徳橋親柱P208.jpg


#19、廃止行徳橋へ通じる道路(Aゾーン)
#19行徳地区からの旧ルート通行止めP227.jpg
この道路の車道部分は閉鎖になると思われますが、歩道部分は、多分そのまま活かされると思われます。

#20、廃止行徳橋の南端
#20廃止行徳橋F地点から撮影P203.jpg


#21、廃止行徳橋全景
#21廃止行徳橋F地点より撮影P202.jpg
この橋は、4月以降に撤去の工事が行われるとのことです。
今回、橋の北端のあたり(Gゾーン)は、車を止められる適当な場所も無かったこともあって、写真は撮っていません。3月24日以降、再度訪問しGゾーンの工事後の状況を写真でレポしたいと思います。
END



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完成間近!行徳橋の架替(市川市) [きたろう散歩]

2020.3.1(日)取材、
2020.3.3(火)アップ
老朽化と歩道が狭く通行に支障をきたしている等の理由から行徳橋の架替工事が進められて来ました。
行徳橋の架替工事が完成し、完成式の案内が、市の広報に載りました。これを、見て架替後の橋を渡ってみようと、出かけました。

#01、行徳橋の完成式の案内(市川市広報)
#01行徳橋架替完成式の案内.jpg


#02、行徳橋南詰め
#02行徳橋南詰めP893.jpg
現地に行ったら、まだ工事中で、渡れる状態ではありませんでした。

#03、行徳橋近辺の地図①
#03行徳橋近辺地図①.jpg
行徳橋は、行徳街道が江戸川を渡る道路橋です。行徳街道は、市川市の行徳地区と八幡地区を結んでいる江戸時代から続く由緒ある道です。バイパスも出来ましたが、現在でも、路線バスは通るし、車、自転車、歩行者の通行量も多い重要な道路です。

#04、行徳橋近辺の地図②(行徳橋近辺の地図①拡大版です。)
#04行徳橋近辺地図②.jpg


#05、行徳橋架替工事の看板
#05行徳橋架替看板P905.jpg
この看板を見て、完成式が終わっても、工事は続き、一般人は橋を渡れないということがわかりました。

#06、現行行徳橋の親柱
#06旧行徳橋P895.jpg
行徳橋は、旧行徳橋とも呼称されています。(行徳街道のバイパスが江戸川を渡る橋が新行徳橋です。)

#07、現行の行徳橋と架替後の行徳橋
#07行徳橋架替前と後P897.jpg

現行の行徳橋が右で、架替後が左です。

#08、行徳橋完成式中止の看板
#08行徳橋開通式コロナウイルスで中止のP904.jpg
こんな、看板がありました。完成式は、当然屋外で実施されるだろうし、そんなに多くの人が参加するとも思えないのに「中止」ですか?
右にならえ!の日本人の性格が良く現れていると思いました。
また、広報の案内で「渡り初めを行う」と書いてありましたが、この看板で開通予定日は、頭書の予定通りの3月10日となっていて、渡り初め後にすぐ、一般の通行に供用されるのではないと認識しました。

#09、「架替工事の経緯」の看板
#09行徳橋架替理由P908.jpg
架替工事の理由として、①老朽化、②利用者の安全確保、他とありました。
「老朽化」を画像で示すのは難しいので、「利用者の安全確保」の一端を次に示します。

#10、現行行徳橋の歩道
#10行徳橋架替前P896.jpg
行徳橋の歩道は、このように大変狭い。また、車道も、狭く、ぎりぎりすれ違っているので、自転車の方は危険を感じ、歩道部分を走ることになります。この歩道は、幅1.2mとせまく、自転車と歩行者のすれ違いの時は、細心の注意を払う必要があります。自転車と自転車のすれ違いでは、どちらか一方の自転車は停止しないとすれ違えないという状況です。

#11、架替後の、自転車道&歩道
#11行徳橋架替後歩道P900.jpg
架替後の自転車道&歩道は幅4mと十分な広さとなります。

#12、行徳橋架替後の車道、歩道等の幅
#12行徳橋架替後断面図P908.jpg


#13、架替後の行徳橋(上流側)
#13行徳橋架替後親柱左P902.jpg
2013年3月16日に行われた、国土交通省関東地方整備局の地域住民に対する説明会で、地域住民は「橋の両側に歩道を設置して欲しい」旨強く要望していましたが、結局、それは、無視された形となりました。
親柱に記載されているとおり、橋の名称は「ぎょうとくはし(行徳橋)」です。架替という概念ですので、「新行徳橋」とはなりません(もっとも、新行徳橋は既にありますし・・・)。
「ぎょうとくばし」でなく「ぎょうとくはし」なんですね?(私は、「ぎょうとくばし」と言っていますが・・・)

#14、親柱(右側)
#14行徳橋架替後親柱右P898.jpg
架替後の橋は、現行の橋よりも、大分高いところを通っているのがこの写真でわかると思います。

#15、現行の橋(右)と架替後の橋(左)
#15行徳橋架替前と後P910.jpg
私は、行徳橋を、車でも、自転車でも時々渡ります。
特に、自転車でのすれ違い時に、細心の注意から開放され、快適に通行できると期待されます。
END

タグ:市川 行徳橋
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おかね塚(下) [きたろう散歩]

取材日、2019/05/26(日)
アップ日、2019/07/11(木)
3月6日、市川市押切12-31(前)の6差路にある史跡おかね塚を通りがかりに取材しました。そこには「行徳おかね塚の由来」という石碑がありましたが、それをてっきり「おかね塚」と誤認したまま前回ブログ・アップしてしまいました。
 今回、改めて、この史跡を取材しました。

#01、市川市押切の6差路の西端にあるおかね塚
#01行徳おかね塚2019年5月-001B.jpg


#02、石碑「行徳おかね塚の由来」
#02行徳おかね塚2019年5月-003.jpg
この石碑は、「ここに『おかね塚』が作られました。」という説明板ですが、「この一角のどこにおかね塚があるか」というようなことは書いてありませんでした。
この、由来碑の後方には、ブロック塀で囲われた中に、墓石や石仏がありました。
この取材の前に、WEBで若干調べたところ、「おかね塚は庚申塔」であるという記述が見られた。しかし、庚申塔がなんであるか良くわからないまま現地に行き、この一角にある、墓石、石仏を写真におさめました。

#03、石仏と複数の墓石
#03行徳おかね塚2019年5月-006.jpg


#04、墓所中央にある墓
#04行徳おかね塚2019年5月-007.jpg


#05、中央の墓は廣瀬家の墓
#05行徳おかね塚2019年5月-017.jpg


#06、廣瀬家の墓右後方の複数の墓石
#06行徳おかね塚2019年5月-020.jpg


#07、廣瀬家の墓左後方の複数の墓石
#07行徳おかね塚2019年5月-022.jpg


#08、墓所、左手前にある石仏
#08和行徳おかね塚2019年5月-009.jpg


#09、石仏頭部
#09行徳おかね塚2019年5月-011B.jpg


#10、石仏上半身
#10行徳おかね塚2019年5月-015B.jpg


#11、石仏下半身
#11行徳おかね塚2019年5月-013B.jpg

これらの石仏、墓石には、いろいろ文字が書いてあるので、判読を試みましたが、墓石(中央の墓石除く)は苔むして、全く文字が見えませんでした。石仏にも、いろいろ文字が書いてありましたが、不鮮明で、判読は即、断念しました。
さて、これらの、墓石、石仏のどれがおかね塚なのか?ということであるが、この由来碑によれば、おかねさんのために墓を建てたように読み取れるし、ネットの情報では、庚申塔であると言うことだし、さっぱり見当がつきませんでした。
 取材日の二日後の5月28日に、たまたま郷土史の講座があったので、講師の方に、これらの写真を提示しながら、お話を伺ったところ、この左手にある石仏が庚申塔で、おかね塚と呼ばれているということや、この由来碑にある粗朶とは製塩に使うための薪であること、また、碑文を書いた綿貫喜郎氏は、数年前にお亡くなりになったことなどを教示していただきました。
 ただ、きたろうが疑念をもった、この由来碑の文章の信憑性については、はっきりした見解は、示して頂けませんでした。
この後、ネット上で、やや詳しく検索して見ましたが、ネット上の情報は、自身で調べたという情報はなく、何らかの情報の孫引きで、もやもや感が残りました。
 6月14日、市川中央図書館に行き、綿貫喜郎氏、宮崎長蔵氏共著の「行徳物語」を当たったところ、第3章「今と昔」に「おかね塚とお経塚」という項目があり、おかね塚についての言及がありました。(この部分の文章は、末尾に掲載)
 由来碑を書いた綿貫喜郎氏(宮崎長蔵氏共著)の著書でも、この石仏が、おかねさんの朋輩がお金を出しあって建てたものというより、「地元の伝承としてこのようなことが伝わっている」というような書き方で、史実であるとの判断は避けているように感じました。

#12、おかね塚由来碑の背面
#12行徳おかね塚2019年5月-021.jpg


#13、おかね塚由来碑の背面の拡大
#13行徳おかね塚2019年5月-019.jpg


由来碑は、おかねさんの悲運を哀れんで供養してきた地元の方々の伝承を後世に伝えるため、地元の有志によって昭和51年6月に建てられました。
信憑性が疑問視されるような伝承にこんな立派な由来碑を作ってしまうという、有志の方々に感心せざるを得ませんでした。
本文END

宮崎長蔵・綿貫喜郎共著「行徳物語」※、第3章 今と昔、「おかね塚とお経塚」より
 ◆おかね塚とお経塚◆
 行徳には、江戸時代初期の石造物がかなり残されている。その中でも押切にある《おかね塚》と新井にある《お経塚》には、それぞれ伝説が結びつけられ、人びとに語り継がれてきた。
 押切には船だまりがあって、五大木とよばれる小さな漁船の溜り場となっていた。ここには江戸時代の中ごろから、製塩に使われる燃料の粗朶(薪)が上総方面から運ばれ、定期的に五大力船とよぶ荷物の輸送船が停泊するようになった。
 こうした船の船頭や、人夫のなかには、停泊中に江戸の吉原(遊郭街)まで遊びに行く者もいた。そんな者たちのひとりが、かねという遊女と親しくなり、ついに夫婦の約束を交わしてしまった。
 船頭との約束をかたく信じたかねは、年季が明けるとすぐ押切に来て、上総からたきぎを運んでくる船頭に会えるのを楽しみに、ひたすら持ちこがれていた。

 しかし、いつまで持ってもその船頭は現われなかった。かねは蓄えたお金もすっかりつかい果たしてしまったが、それでも船頭がやって来るのを諦めず、村人たちに物乞いしながら、船だまりにある松の木蔭で待ち続けた。だが、かねもそのうち疲れ果ててしまい、ついにその松の木の下で帰らぬ人となってしまった。

 このことを伝え聞いた吉原の遊女たち百余人は、かねの純情な気持ちを哀れみ、わずかずつの金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちも、この薄幸なかねのために花や線香を供え、これを《おかね塚》と名づけて今日まで供養を続けてきた。
 しかし、このように人びとに語り伝えられてきた《おかね塚》の碑だが、はたしてこれは、本当に遊女かねのために建てられたものだろうか?
 実は、この碑は、今から三百十数年前の寛文五年十月十五日に建てられたもので、押切部落の人たちによる庚申信仰のための庚申塔だったのである。
 舟形の光背に如来像を彫り出した実に立派な石像で、その下部周辺には百余名の名前が刻まれている。その名前も、片仮名で彫った女の名前が目立っているところから、おそらく遊女百余人の伝説が生まれてきたものだろう。とにかく、船頭と遊女にまつわる話が数ある中でも、悲恋に終わった純情な遊女かねのことは、強く村びとの心をとらえたできごとだったに違いない。それがいつしか、女性の名前がたくさん彫られた庚申塔と結びついて、今日まで供養されて来たものと思われる。
 真実はともかくとして、地下鉄東西線の出現とともに、行徳も新しく生まれ変わった今日では、もはや、この話を知る人も少なくなった。やがては人びとの心の中からも消え去る運命にあったが、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝え供養をしてきた人たちの心を後世に残そうと、このほど地元有志によって改めて「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建てられた。
※昭和52年10月15日初版発行、発行所 市川新聞社、発売元飯塚書房 東京都千代田区神田神保町

<再掲>郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
#05綿貫喜郎氏曽谷公民館にて.jpg


●訂正&補足
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
前回、「おかね塚(上)」で記述した「行徳おかね塚の由来」の10行目
『待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□』の□□部分は、「乞う」であることが判明しました。
また、碑文の末尾の署名が前回では、
「綿貫喜郎」となっていましたが、正しくは「綿貫喜郎誌」で、訂正いたします。


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