第11回「四ツ谷内藤新宿(秋86景)」 [広重・名所江戸百景]

2010/12/07(火)アップ
今回は、都庁の展望室からダイヤモンド富士を撮りに行く前に、「四ツ谷内藤新宿」の現在を撮って来ましたのでアップします。
#00四ツ谷内藤新宿・広重原図.jpg
 超近景に、馬のお尻を大きく配し、遠景に内藤新宿の宿場を描いた絵は、広重の「江戸名所百景」の中でも、近景と遠景の対比が際立っている絵の一つです。
内藤新宿とは、文字通り内藤の新しい宿(宿場)であり、その云われは、新宿1丁目1-1(地図#01中の地点G)付近にある「内藤新宿開設300年記念碑」に簡潔に記してありますので、次にそのまま引用致します。
「元禄十一年(1698)六月、浅草阿部川町の名主・西松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三T目交差点忖近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。この宿場は、享保三年(1718)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、平成十年(1998)開設三百年を迎えることとなった。(以下略)」
#01新宿区新宿1~3丁目(地図).jpg
※図をクリックすると、拡大表示されます(他の写真も同様)
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 それでは、内藤とは何か?ということになりますが、それは「幕府が信州高遠藩内藤若狭守の広大な下屋敷の一部を返還させて、町屋とともに馬継ぎの施設を設けて宿駅としたものである。内藤家の屋敷跡に新設された宿駅のため内藤新宿と呼ばれた。」(文献A)ということです。
 
 宿場新設願いの表向きの理由は「高井戸官までの距離が開きすぎるから」ということですが、別の狙いもあり、その狙いは、宿場に飯盛女を置いて、これ目当ての客を宿泊させることでした。その後、飯盛女の客引き様があまりにも目立も過ぎため中途廃駅に追い込まれました。明和九年(1772)に宿駅は復活し、一日五十人の飯盛女が許されます。冥加金を支払いつつ「淫売女には之無き」と言い張りつつ、内藤新宿は繁盛をつづけてゆきました。(文献B)このような宿駅の繁昌振りを見て「四谷新宿馬糞の中で、アヤメ(遊女を指した)咲くとはしおらしい」という潮来節の替え唄が流行しました。
 広重はこのような唄を意識してか、前景に馬の尻を大きく写し出し、路上には散乱する馬の糞を描いています。道路の左側には茶店や旅龍屋が続き、その先に黒々とした内藤家の森が見えています。この道の奥は石畳となり、そこに四ツ谷大木戸がありました。(文献A)
 
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 前置きが長くなりましたが、メインテーマである、広重が描いた絵の視点はどこかと言うことですが、文献Aは、地図#01の地点Aから東向きとしています(新宿三丁目交差点付近)。文献Bでは、地点Dから東向きに描いたとしています(新宿二丁目交差点附近)。宿場は、上記の300年記念碑に記されているように、現在の新宿一丁目から三丁目まであったので、地点Aでも地点Dでも良いのですが、きたろうは宿場のほぼ中心の「地点E(新宿2丁目1 -13)から東向き」を広重の視点としました。現在の、そこからの映像が写真#02です(平成21年撮影)。
#02新宿2丁目から1丁目方面を望む.jpg
 江戸時代、ここは内藤新宿の仲町に相当しますが、現在、江戸時代の面影は、これっぽっちもありません。この近辺で江戸の面影・雰囲気を残す物を探しまわりました・・・ありました、新宿末広亭です。末広亭は、新宿3-6-12で地図#01のB地点で、新宿大通りのみずほ銀行のところから入ったとこにあります。宿場の建物とは一寸違いますが、江戸情緒は十分味わえると思いますが如何でしょうか?
#03新宿末広亭.jpg
新宿一丁目、新宿御苑大木戸門付近にある「内藤新宿開設300年記念碑」
#04内藤新宿開設300年記念碑.jpg
余談ですが、第9回の「玉川堤の花」の広重の絵は、この宿場の南側を流れていた玉川沿いの道から西方向を描いた絵になります。
 さて、以下新宿大通りの明治、大正、昭和の写真を、手持ちの文献及び、ネットからピックアップし、きたろう撮影の平成の写真を加え次に展示します。
<写真#05>
#05新宿大通り(明治34年).jpg
 この写真のキャプションに、三宅克乙著「籠の中」よりとあります。この写真を見ると、家並は、江戸時代の延長のように見えますが、明治22年には、現在の中央線に相当する鉄道が新宿→八王子間で開通しています。この頃から、新宿は、近代物資輸送の中継点としての町に変貌していきました。
#06大正8年内藤新宿一丁目(妓楼).jpg
 この写真は、文献Bからの転載ですが、原版は「今昔対照江戸百景」という本に掲載されています。この写真は、新宿大通り(新宿一丁目)の江戸期の旅籠の名残りの部分を撮影したものです(#01の地図上のF地点)。写っている建物は妓楼であり、その手前に馬車が動いています。しかし、決定的な時代の変革も写っていて、通りにはレールが走っています。これは、1903年(明治36年)に開通した市電のレールです(開通時は 東京市街鉄道)。
以下の#07から#09は、ほぼ同じ地点(#01のCまたはD地点)から西方・伊勢丹方向を写したものです。
#07新宿3丁目交差点付近(昭和37年).jpg
 この写真に写っているビルの内、伊勢丹の建物は現在まで続いています。この建物は昭和8年(1933)年に開店した伊勢丹新宿店本館で、外観はアールデコ様式になっています。この建物は、 東京都の歴史的建造物に選定されているとのことです。
#08新宿2丁目から3丁目方向を望む(平成15年).jpg
 この写真は、フィルムカメラで撮影したので色調がくすんでいます。ここに写っている看板で店名や銀行名が読み取れるものは、ほとんど現在も続いています。
#09新宿3丁目交差点付近(平成22年).jpg
 現在の、新宿三丁目交差点付近です。ここと近辺を撮影したあとダイヤモンド富士を狙うため、都庁の展望室に向かいました。 本文END
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<引用文献>
文献A・・・「広重の大江戸名所百景散歩」、人文社、1996年4月1日第1刷発行
文献B・・・「今とむかし廣重名所江戸百景帖」、暮らしの手帖社、平成5年6月26日書刷発行
<撮影データー等>
#00:文献Aより
#01:google mapをベース
#02:2009/12/8 13:43撮影 *
#03:2010/11/10 15:10撮影 *
#04:2010/04/06 15:08撮影 *
#05:新宿大通り商店街振興会のホームページより
#06:文献Bより
#07:MAINICHI Photo Bankより
#08:2003/4/27 AM 撮影 *
#09:2010/11/10 15:02撮影 *
*印・・・撮影:きたろう
              
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<今回の撮影の自己評価>
・広重の視点で写真を撮る・・・☆☆☆
・撮影季節・・・・・・・・・・☆☆☆(秋)
・昔の名残り・・・・・・・・・全く無し
・広重の絵のイメージ再現・・・☆(末広亭で江戸情緒を感じる)
・現地での感動(サプライズ)・・☆
・総合(自己満足度)・・・・・・☆☆
 END

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