この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。
ブラタモリトレース・二子玉川(その3) [散歩会]
2018年6月17日(日)取材
同7月20日(金)アップ
ブラタモリトレース・二子玉川は、広重の名所江戸百景シリーズ(市中繁栄七夕祭)で中断しましたが、再開します。
#01、玉川駅の北東(地点E付近)にて(次掲地図参照)
久保田アナ:「玉川駅の近くに戻って来ましたが、ここでは何を?」
向谷さん:電車(旧玉電)が発車するときの擬音「みょんみょんみょんみょんみょんみょん・・・・」
久保田アナ:「ハハハハハ・・・、結構苦しい感じの音ですね」
向谷さん:「ここ昔、路面電車が走っていた(んです。)」
(音声ファイル1も参照してください)
%音声ファイル01、玉電の歴史等(写真#01~#04に対応する音声)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
地図、ブラタモリトレース(二子玉川)
同7月20日(金)アップ
ブラタモリトレース・二子玉川は、広重の名所江戸百景シリーズ(市中繁栄七夕祭)で中断しましたが、再開します。
#01、玉川駅の北東(地点E付近)にて(次掲地図参照)
久保田アナ:「玉川駅の近くに戻って来ましたが、ここでは何を?」
向谷さん:電車(旧玉電)が発車するときの擬音「みょんみょんみょんみょんみょんみょん・・・・」
久保田アナ:「ハハハハハ・・・、結構苦しい感じの音ですね」
向谷さん:「ここ昔、路面電車が走っていた(んです。)」
(音声ファイル1も参照してください)
%音声ファイル01、玉電の歴史等(写真#01~#04に対応する音声)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
地図、ブラタモリトレース(二子玉川)
第25回(下)、広重・名所江戸百景「市中繁栄七夕祭」(秋73景)その2 [広重・名所江戸百景]
今回は、前回「広重名所江戸百景・市中繁栄七夕祭(その1)」の補足的な記事です。
#00、名所江戸百景・市中繁栄七夕祭(広重画)
「市中繁栄七夕祭」は、京橋の広重の住居から、富士山を画面の中心において七夕祭り時の江戸の家並みを描いたものです。この絵の、現代版の写真での再現は、京橋の広重住居跡から、富士山を撮影することは困難でずっとあきらめていました。
前回の市中繁栄七夕祭は、銀座シックスからの眺望を、広重住居跡からの眺望の代替地として(注)、現代版「市中繁栄七夕祭」にしようと試みたものです。
注)現代版「名所江戸百景」の再現は、広重と全く同じ視点では不可能なケースが多々あります。その場合は、広重の実際の視点の近辺で、似たような代替地での再現を本シリーズでは行っています。ちなみに、市中繁栄七夕祭の広重の実際の視点と、代替地銀座シックスは、約1.2km離れていますが、両者の町並みの感じは、江戸時代も現在も良く似ていると考えられます。
◆市中繁栄七夕祭の視点
市中繁栄七夕祭は、広重の住居の2階(または物干し台)から見た、江戸の町並みとはるか遠くにある富士山を描いたものです。
当時、江戸のほとんどのところから、富士山は見えました。富士山を、自宅から眺めるため、自宅に物干し台を作ることが、一寸裕福な家の間で流行しました。
#01、広重の住居付近の切絵図
◆切絵図に画かれた広重の住居
広重は、53歳から62歳で亡くなるまで、京橋の大鋸町というところに住んでいました。(1849~1858)(注)
最晩年の61歳(1857)のとき、市中繁栄七夕祭を描きました。
#01の切絵図に広重の住居が明示されています。御用絵師「狩野永徳」の屋敷の隣に住居を構えていました。
切絵図では、武家屋敷や神社仏閣については、その名前を明示していますが、一介の町絵師である、広重の住居が切絵図に明示されるということは、異例のことで、当時、広重の人気がいかに高かったかを物語っています。
注)この切絵図は、1863年版で、広重は既に亡くなっています。恐らく、二代目広重がそのまま住居を引き継いだものと思われます。
注)広重晩年の時代背景
広重が、京橋に住んでいた頃の日本は、1853年にペリーが来航し、広重が亡くなって2年後の1860には、「桜田門外の変」がおこるという、日本が激動に向いつつある正にその頃でした(名所江戸百景ではそのような雰囲気は全く見受けられないが・・・)
#02、広重住居跡周辺の地図(現在)
切絵図に示された、広重の住居は、現在で言うと、中央区京橋一丁目9番地に相当します。
銀座シックスでの撮影後、この、広重住居跡を訪れました。そこは、現在工事中でした。「全国信用協同組合連合会新本部」のビルが建つとのことでした。
#03、広重住居跡・工事中1
#04、広重住居跡・工事中2
※画面中央の茶色の張り紙のようなものに注目
#05、広重住居跡表示板1(コピー=紙)
その張り紙は、以前ここにあった、中央区教育委員会の「広重住居跡」を示す金属製の表示板のコピーでした。
#06、広重住居跡表示板2(金属製)
以前(2014/5/6)撮影した中央区教育委員会の「広重住居跡」の表示板(金属製)。
ここに、広重住居跡の表示板のコピーが貼ってあるということは、ここのビルが完成した暁には、また、広重住居跡の表示板が復活するということで理解しました。
#07、広重住居跡(過去の写真)
広重住居跡の全体的な写真を、自身では撮影していなかったので、ネット上で探したところ、この写真が見つかったので、転載します。
過去のこのビルには、東証コンピューターシステムの総務部などが入っていました。
#08、広重住居跡から南南西方向を望む
参考まで、広重住居跡の前の道路から、道路の延長線方向(南南西)を撮影しました。地図#02に示したように、富士山の方向は「青矢印」の方向で、道路は赤矢印方向に伸びているので、ここから富士山を撮影するのは、ドローンでも使わない限り、不可能でした。
#09、宝町歩道橋から南南西方向を望む(昭和通)
同様に、広重住居跡の近辺で、少しでも高いところから撮影して見ようということで、宝町歩道橋の上から南南西方向を撮影しましたが、やはりここから富士山が見える可能性はほぼゼロでした。
このようなことで、広重住居跡から市中繁栄七夕祭の現代版の写真の撮影は諦め、銀座シックスからの写真で代用しようと目論んでいます。
END
#00、名所江戸百景・市中繁栄七夕祭(広重画)
「市中繁栄七夕祭」は、京橋の広重の住居から、富士山を画面の中心において七夕祭り時の江戸の家並みを描いたものです。この絵の、現代版の写真での再現は、京橋の広重住居跡から、富士山を撮影することは困難でずっとあきらめていました。
前回の市中繁栄七夕祭は、銀座シックスからの眺望を、広重住居跡からの眺望の代替地として(注)、現代版「市中繁栄七夕祭」にしようと試みたものです。
注)現代版「名所江戸百景」の再現は、広重と全く同じ視点では不可能なケースが多々あります。その場合は、広重の実際の視点の近辺で、似たような代替地での再現を本シリーズでは行っています。ちなみに、市中繁栄七夕祭の広重の実際の視点と、代替地銀座シックスは、約1.2km離れていますが、両者の町並みの感じは、江戸時代も現在も良く似ていると考えられます。
◆市中繁栄七夕祭の視点
市中繁栄七夕祭は、広重の住居の2階(または物干し台)から見た、江戸の町並みとはるか遠くにある富士山を描いたものです。
当時、江戸のほとんどのところから、富士山は見えました。富士山を、自宅から眺めるため、自宅に物干し台を作ることが、一寸裕福な家の間で流行しました。
#01、広重の住居付近の切絵図
◆切絵図に画かれた広重の住居
広重は、53歳から62歳で亡くなるまで、京橋の大鋸町というところに住んでいました。(1849~1858)(注)
最晩年の61歳(1857)のとき、市中繁栄七夕祭を描きました。
#01の切絵図に広重の住居が明示されています。御用絵師「狩野永徳」の屋敷の隣に住居を構えていました。
切絵図では、武家屋敷や神社仏閣については、その名前を明示していますが、一介の町絵師である、広重の住居が切絵図に明示されるということは、異例のことで、当時、広重の人気がいかに高かったかを物語っています。
注)この切絵図は、1863年版で、広重は既に亡くなっています。恐らく、二代目広重がそのまま住居を引き継いだものと思われます。
注)広重晩年の時代背景
広重が、京橋に住んでいた頃の日本は、1853年にペリーが来航し、広重が亡くなって2年後の1860には、「桜田門外の変」がおこるという、日本が激動に向いつつある正にその頃でした(名所江戸百景ではそのような雰囲気は全く見受けられないが・・・)
#02、広重住居跡周辺の地図(現在)
切絵図に示された、広重の住居は、現在で言うと、中央区京橋一丁目9番地に相当します。
銀座シックスでの撮影後、この、広重住居跡を訪れました。そこは、現在工事中でした。「全国信用協同組合連合会新本部」のビルが建つとのことでした。
#03、広重住居跡・工事中1
#04、広重住居跡・工事中2
※画面中央の茶色の張り紙のようなものに注目
#05、広重住居跡表示板1(コピー=紙)
その張り紙は、以前ここにあった、中央区教育委員会の「広重住居跡」を示す金属製の表示板のコピーでした。
#06、広重住居跡表示板2(金属製)
以前(2014/5/6)撮影した中央区教育委員会の「広重住居跡」の表示板(金属製)。
ここに、広重住居跡の表示板のコピーが貼ってあるということは、ここのビルが完成した暁には、また、広重住居跡の表示板が復活するということで理解しました。
#07、広重住居跡(過去の写真)
広重住居跡の全体的な写真を、自身では撮影していなかったので、ネット上で探したところ、この写真が見つかったので、転載します。
過去のこのビルには、東証コンピューターシステムの総務部などが入っていました。
#08、広重住居跡から南南西方向を望む
参考まで、広重住居跡の前の道路から、道路の延長線方向(南南西)を撮影しました。地図#02に示したように、富士山の方向は「青矢印」の方向で、道路は赤矢印方向に伸びているので、ここから富士山を撮影するのは、ドローンでも使わない限り、不可能でした。
#09、宝町歩道橋から南南西方向を望む(昭和通)
同様に、広重住居跡の近辺で、少しでも高いところから撮影して見ようということで、宝町歩道橋の上から南南西方向を撮影しましたが、やはりここから富士山が見える可能性はほぼゼロでした。
このようなことで、広重住居跡から市中繁栄七夕祭の現代版の写真の撮影は諦め、銀座シックスからの写真で代用しようと目論んでいます。
END
第25回(上)、広重・名所江戸百景「市中繁栄七夕祭」(秋73景)その1 [広重・名所江戸百景]
2018年7月4日(水)取材
同7月8日アップ
題名改定:同7月13日(題名に(上)、(その1)を追加した)
ブラタモリトレース・二子玉川シリーズの途中ですが、急遽、七夕に関するブログをアップします。
現在、12時を回ってしまいましたが、7月7日は七夕祭でした。
江戸時代にも、七夕祭りは行われ、約160年前、歌川広重も、「名所江戸百景」シリーズの中で、「市中繁栄七夕祭」を画いています(#01画面左)。この絵は、広重の住居の物干し台からの眺めを画いたとのこと。
さて、例によって、広重と同一視点から写真を撮り、広重の絵と、現在の写真を比較するという試みをしました。
#01、広重画・市中繁栄七夕祭と銀座シックスから富士山方向の眺望
広重の住居は、東京都中央区京橋1-9ということが判っています。
ところが、この近辺から、富士山を撮影することは困難で、この近辺で、一般人が、立ち入れる高い場所を探しました。銀座シックスの屋上が一般開放されているということで、あらかじめ撮影して来ました(7月4日)。
残念ながら、この日は、富士山は見えませんでした(#01画面右、但し、この写真の富士山は作図です)。
この、写真は、銀座シックス屋上の新橋寄りのところから、西南西方向を撮影したものです。
#02、銀座シックス屋上から南西方向の眺望
※青矢印のところに、富士山が見えるはずである。
銀座シックスから富士山の撮影は、大気がクリアーなときに、再度試みたいと思います。
END
同7月8日アップ
題名改定:同7月13日(題名に(上)、(その1)を追加した)
ブラタモリトレース・二子玉川シリーズの途中ですが、急遽、七夕に関するブログをアップします。
現在、12時を回ってしまいましたが、7月7日は七夕祭でした。
江戸時代にも、七夕祭りは行われ、約160年前、歌川広重も、「名所江戸百景」シリーズの中で、「市中繁栄七夕祭」を画いています(#01画面左)。この絵は、広重の住居の物干し台からの眺めを画いたとのこと。
さて、例によって、広重と同一視点から写真を撮り、広重の絵と、現在の写真を比較するという試みをしました。
#01、広重画・市中繁栄七夕祭と銀座シックスから富士山方向の眺望
広重の住居は、東京都中央区京橋1-9ということが判っています。
ところが、この近辺から、富士山を撮影することは困難で、この近辺で、一般人が、立ち入れる高い場所を探しました。銀座シックスの屋上が一般開放されているということで、あらかじめ撮影して来ました(7月4日)。
残念ながら、この日は、富士山は見えませんでした(#01画面右、但し、この写真の富士山は作図です)。
この、写真は、銀座シックス屋上の新橋寄りのところから、西南西方向を撮影したものです。
#02、銀座シックス屋上から南西方向の眺望
※青矢印のところに、富士山が見えるはずである。
銀座シックスから富士山の撮影は、大気がクリアーなときに、再度試みたいと思います。
END
ブラタモリトレース・二子玉川(その2) [散歩会]
2018年6月17日(日)取材
同7月6日(金)アップ
次に、ショッピングセンター(高島屋)の、開発時のニュース画像やこぼれ話などが披露されましたが、この間、建物内で番組は進行し、ブラタモリトレースとしては、取り上げにくいので割愛いたします。
次に、タモリさん一行は、多摩川の河原にやって来ました。ここで、二人目の案内人が登場しました。
#14、多摩川の河原にて(二人目の案内人=向谷さん登場)
※向谷さん:画面左
◆向谷さんのプロフィール
戸田恵子ナレーター:「向谷さんは、二子玉川出身のミュージシャンで、フュージョングループ カシオペアのキーボード奏者として活躍してきました。大の鉄道ファンでタモリさんとは鉄道仲間です。
実は向谷さん生まれも育ちも二子玉川なんです。」
◆「二子玉川」という名称の誕生のいきさつ(説明:向谷さん)
久保田アナ:「なんかニコタマ、ニコタマってしごく最近よく聞きますけど」
向谷さん:「ニコタマとはそんな昔言ってなかったですね。(僕は、ここの出身なんですが)ニコタマって最初聞いてなんだソレって・・・。
僕 出身が二子玉川小学校なんですけど二子玉川って地名はなかったんですよ。だいたいこの辺は玉川何丁目って言ってたんですけど、この川を渡った神奈川県に二子村(現・川崎市 二子)って言うのがあったのかな?。こちらが玉川村で(現・世田谷区 玉川)それが一緒になって二子玉川っていう、ま~一つの俗称?ということです。」
◆向谷さんの「二子玉川」という名称の誕生のいきさつは、音声ファイルでもお聞きください。
%03.音声ファイル:二子玉川という名称の誕生のいきさつ
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
#15、多摩川河原(きたろう実写)
※本写真は、地点C1から撮影。タモリさん一行は、この画面よりもっと川寄りの方でお話をしていました(地点C2)。
#00、ブラタモリトレース行程図
◆タモリさん一行は、河原から、市街地のほうへ移動(地点Dへ)
#16、川から約50m離れたところにある謎の土手
※本画像右側約50m先が多摩川(河原)。画面奥が、二子玉川駅の方面です。
◆謎の土手発見
久保田アナ:「これ土手なんですか?」
タモリさん:「これは昔っからあった?」
向谷さん:「そうですね僕も子供の頃からもうここに土手ありましたね。」
タモリさん:「これおかしいよね?」
久保田アナ:「でもここ道路ですよね?」
タモリさん:「これなんだろう?自然堤防でもなさそうだよね」
久保田アナ:「ですね、階段もついてますし・・・」
#17、謎の土手上で、土手の吟味は続く
タモリさん:「なんだろうねこれは?」
向谷さん:「多摩川、結構多いですよね、長いから、あっちの下の方にもあるし、こっち
にもあるし」
久保田アナ:「ちょっと土手らしくピクニックされている方も、いらしゃいますし(笑)」
タモリさん:「もっと川沿いにあるなら話はわかるけど。なんだろう これ?」
向谷さん:「ちょっと謎ですね」
久保田アナ:「いざという時役に立たないですよねこれ」
向谷さん:「そうですね(苦笑)」
#18、謎の土手上から(きたろう実写)
※地点D=玉川3-5-3(画面左端の紺色の看板の店(居酒屋)の住所)
#19、俯瞰撮影・・・多摩川と謎の土手との間にマンションが立ち並ぶ
#20、大正13年の地図
◆謎の土手が出来た理由
戸田ナレーター:「多摩川沿いにはマンションが立ち並んでいます。土手があるのは川からおよそ50m離れたこの場所。これじゃあ川が氾濫した時水に浸かってしまいますよね~
不思議な土手ができたわけ、それは大正13年の地図の中にありました。現在マンションが並ぶ一角を見てみると料亭街が広がっています。
氾濫の多かった多摩川沿いにはこの様に堤防を作る計画が持ち上がりました(古地図、川沿いの赤の線)。
しかし川の景観を売りにする店からは反対の声も多く挙がりました。」
シャリ~~ン(効果音)
「その結果、この様に堤防は川から離れた現在の位置に(緑の線)造られる事になったんです。」
この説明は、音声ファイルでもどうぞ・・・
%04、音声ファイル:謎の土手が出来た理由(戸田ナレーター)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
◆次に、タモリさん一行は、一軒だけ残っている、老舗の料理屋にやって来ました。
#21、一軒残る老舗の料理屋(やなぎや)
#22、やなぎや正面入口(きたろう実写)
※やなぎや・・・玉川3-25-15
◆タモリさん達は、女将に出迎えられ店内に入りました。
#23、和のスイーツセットを食すたもりさん達
右端・・・女将:西尾順子さん
女将は、このスイーツをお茶菓子と称していたが、実際は、多摩川をイメージした10数種から成る、和スイーツの豪華な盛り合わせであった。
◆女将は、昔の写真をタモリさんたちに披露した。
#24、昔のやなぎやの写真
※この、写真が何時頃かの説明(テロップも含め)はなかった。
◆女将から土手に関する話を聞く
タモリさん:「創業何年くらいになるんですか?」
女将:「天保2年(1831年)でございます。これ、昔の古い写真なんですけど・・・」
久保田アナ:「うわぁ~貴重なものですね!」
向谷さん:「これ川沿いだ、本当に。」
久保田アナ:「舟を浮かべて・・・」
女将:「そうですね、舟遊びをされていたようです。」
久保田アナ:「どういう方がいらっしゃるんですか、お客様は?」
女将:「そうですね~、天保年間の時には徳川様がお見えになりました。」
久保田アナ:「あの徳川様!」
向谷さん:「他に徳川様はいない。」
一同笑い
久保田アナ:「ここに来る途中に道路の真中に土手があったんですが(あれは、何なんですか?)」
女将:「土手ですね、ほんとはもっと川側に造らなければいけないんですけど、お料理屋さんの景観が悪くなってしまうのでお料理屋さんが皆さんで料理屋の外側に土手を造ってくれという事で、もう私達はどうなってもいいから・・・・」
一同笑い
#25、古写真・・・料理屋から多摩川方向眺める女性二人(芸者?)
女将:「私たちは水で流されてもいいから、この景観を残しておきたいという事で・・・」
タモリさん:「結局、料理屋は流されたことはないんですね?」
女将:「流されたことはございません、(他の料理屋さんは)みんなお辞めになりましたけど・・・」
久保田アナ:「あ~~~」
◆「女将から土手に関する話を聞く」は音声ファイルでもどうぞ・・・
%05、音声ファイル
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
#26、現在の多摩川河原(ストリート・ビュー)
(続く)
同7月6日(金)アップ
次に、ショッピングセンター(高島屋)の、開発時のニュース画像やこぼれ話などが披露されましたが、この間、建物内で番組は進行し、ブラタモリトレースとしては、取り上げにくいので割愛いたします。
次に、タモリさん一行は、多摩川の河原にやって来ました。ここで、二人目の案内人が登場しました。
#14、多摩川の河原にて(二人目の案内人=向谷さん登場)
※向谷さん:画面左
◆向谷さんのプロフィール
戸田恵子ナレーター:「向谷さんは、二子玉川出身のミュージシャンで、フュージョングループ カシオペアのキーボード奏者として活躍してきました。大の鉄道ファンでタモリさんとは鉄道仲間です。
実は向谷さん生まれも育ちも二子玉川なんです。」
◆「二子玉川」という名称の誕生のいきさつ(説明:向谷さん)
久保田アナ:「なんかニコタマ、ニコタマってしごく最近よく聞きますけど」
向谷さん:「ニコタマとはそんな昔言ってなかったですね。(僕は、ここの出身なんですが)ニコタマって最初聞いてなんだソレって・・・。
僕 出身が二子玉川小学校なんですけど二子玉川って地名はなかったんですよ。だいたいこの辺は玉川何丁目って言ってたんですけど、この川を渡った神奈川県に二子村(現・川崎市 二子)って言うのがあったのかな?。こちらが玉川村で(現・世田谷区 玉川)それが一緒になって二子玉川っていう、ま~一つの俗称?ということです。」
◆向谷さんの「二子玉川」という名称の誕生のいきさつは、音声ファイルでもお聞きください。
%03.音声ファイル:二子玉川という名称の誕生のいきさつ
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
#15、多摩川河原(きたろう実写)
※本写真は、地点C1から撮影。タモリさん一行は、この画面よりもっと川寄りの方でお話をしていました(地点C2)。
#00、ブラタモリトレース行程図
◆タモリさん一行は、河原から、市街地のほうへ移動(地点Dへ)
#16、川から約50m離れたところにある謎の土手
※本画像右側約50m先が多摩川(河原)。画面奥が、二子玉川駅の方面です。
◆謎の土手発見
久保田アナ:「これ土手なんですか?」
タモリさん:「これは昔っからあった?」
向谷さん:「そうですね僕も子供の頃からもうここに土手ありましたね。」
タモリさん:「これおかしいよね?」
久保田アナ:「でもここ道路ですよね?」
タモリさん:「これなんだろう?自然堤防でもなさそうだよね」
久保田アナ:「ですね、階段もついてますし・・・」
#17、謎の土手上で、土手の吟味は続く
タモリさん:「なんだろうねこれは?」
向谷さん:「多摩川、結構多いですよね、長いから、あっちの下の方にもあるし、こっち
にもあるし」
久保田アナ:「ちょっと土手らしくピクニックされている方も、いらしゃいますし(笑)」
タモリさん:「もっと川沿いにあるなら話はわかるけど。なんだろう これ?」
向谷さん:「ちょっと謎ですね」
久保田アナ:「いざという時役に立たないですよねこれ」
向谷さん:「そうですね(苦笑)」
#18、謎の土手上から(きたろう実写)
※地点D=玉川3-5-3(画面左端の紺色の看板の店(居酒屋)の住所)
#19、俯瞰撮影・・・多摩川と謎の土手との間にマンションが立ち並ぶ
#20、大正13年の地図
◆謎の土手が出来た理由
戸田ナレーター:「多摩川沿いにはマンションが立ち並んでいます。土手があるのは川からおよそ50m離れたこの場所。これじゃあ川が氾濫した時水に浸かってしまいますよね~
不思議な土手ができたわけ、それは大正13年の地図の中にありました。現在マンションが並ぶ一角を見てみると料亭街が広がっています。
氾濫の多かった多摩川沿いにはこの様に堤防を作る計画が持ち上がりました(古地図、川沿いの赤の線)。
しかし川の景観を売りにする店からは反対の声も多く挙がりました。」
シャリ~~ン(効果音)
「その結果、この様に堤防は川から離れた現在の位置に(緑の線)造られる事になったんです。」
この説明は、音声ファイルでもどうぞ・・・
%04、音声ファイル:謎の土手が出来た理由(戸田ナレーター)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
◆次に、タモリさん一行は、一軒だけ残っている、老舗の料理屋にやって来ました。
#21、一軒残る老舗の料理屋(やなぎや)
#22、やなぎや正面入口(きたろう実写)
※やなぎや・・・玉川3-25-15
◆タモリさん達は、女将に出迎えられ店内に入りました。
#23、和のスイーツセットを食すたもりさん達
右端・・・女将:西尾順子さん
女将は、このスイーツをお茶菓子と称していたが、実際は、多摩川をイメージした10数種から成る、和スイーツの豪華な盛り合わせであった。
◆女将は、昔の写真をタモリさんたちに披露した。
#24、昔のやなぎやの写真
※この、写真が何時頃かの説明(テロップも含め)はなかった。
◆女将から土手に関する話を聞く
タモリさん:「創業何年くらいになるんですか?」
女将:「天保2年(1831年)でございます。これ、昔の古い写真なんですけど・・・」
久保田アナ:「うわぁ~貴重なものですね!」
向谷さん:「これ川沿いだ、本当に。」
久保田アナ:「舟を浮かべて・・・」
女将:「そうですね、舟遊びをされていたようです。」
久保田アナ:「どういう方がいらっしゃるんですか、お客様は?」
女将:「そうですね~、天保年間の時には徳川様がお見えになりました。」
久保田アナ:「あの徳川様!」
向谷さん:「他に徳川様はいない。」
一同笑い
久保田アナ:「ここに来る途中に道路の真中に土手があったんですが(あれは、何なんですか?)」
女将:「土手ですね、ほんとはもっと川側に造らなければいけないんですけど、お料理屋さんの景観が悪くなってしまうのでお料理屋さんが皆さんで料理屋の外側に土手を造ってくれという事で、もう私達はどうなってもいいから・・・・」
一同笑い
#25、古写真・・・料理屋から多摩川方向眺める女性二人(芸者?)
女将:「私たちは水で流されてもいいから、この景観を残しておきたいという事で・・・」
タモリさん:「結局、料理屋は流されたことはないんですね?」
女将:「流されたことはございません、(他の料理屋さんは)みんなお辞めになりましたけど・・・」
久保田アナ:「あ~~~」
◆「女将から土手に関する話を聞く」は音声ファイルでもどうぞ・・・
%05、音声ファイル
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
#26、現在の多摩川河原(ストリート・ビュー)
(続く)
ブラタモリトレース・二子玉川(その1) [散歩会]
2018年6月17日(日)取材
同7月3日(火)アップ
大変、ご無沙汰しております。
ちょっと間が空きましたが、また、ブラタモリトレースを企画し実施しましたので、ブログ・アップ致します。
※お詫び
前回の「ブラタモリトレース・神宮外苑」は、全3回シリーズ予定のところ、2回で中断してしまい、大変申し訳ございませんでした。お詫び致します。
さて、今回は、NHKの番組「ブラタモリ」シリーズの第3回目に放送された「二子玉川」に焦点をあてました。本番組は2009年(平成21年)10月15日に放送され、2010年10月22日に再放送されました。(本ブログは、再放送の画像を使用しました。また、アナログVTRで録画したものからの画像ですので、不鮮明な画像であることをご了承ください。)
#00、ブラタモリトレース・二子玉川の地図(計画&実績)
番組のロケ地は
①巨大ショッピング・センター
②古写真に写された場所(#00地図の地点B)
③多摩川河原
④川から離れた場所にある謎の土手
⑤一軒残る、老舗の料理店
⑥廃止された玉川電気鉄道の名残の構造物(鉄道柵)
⑦同電停「中耕地」の跡地
⑧蕎麦屋・大勝庵(玉川電気鉄道グッズ収集家)
⑨行善寺
ですが、①ショッピング・センターと⑨行善寺、は取材を割愛しました。
また、⑤の老舗の料理屋については、店の前の通過に留めました。
#01、ブラタモリ 二子玉川 オープニング画面
オープニング・テーマ曲(音声ファイル)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
#02、タモリさんと久保田アナが二子玉川降り立つ(TV画像)
タモリさん達が、電車で二子玉川駅に来たとは思えませんが、タモリさん久保田アナが二子玉川駅に降り立ち、西口から出てくるところから番組が始まりました。この後すぐに、二子玉川駅前の再開発の映像に変り、当時(2009年)再開発の真っ最中であるのが紹介されました(駅舎も改装中)。
ついで、タモリさんは、ほとんど二子玉川に来たことが無く、興味もあまりないというのに対し、久保田アナは、二子玉川はおしゃれで素敵な街であるという認識を持っていることが発覚しました。
注)以下、TV画面の写真は、青い枠で囲んで示し、「(TV画像)」の表示は割愛いたします。
#03、現在(2018年6月)の二子玉川駅西口(きたろう実写)
駅舎はメタリック調の外装にリニューアルされました。
#04、多摩川河原
多摩川に架かっている鉄橋は、東急田園都市線の鉄橋です。画面左方が二子玉川駅方面、画面右の先が溝の口方面です。
(※見える川面は、厳密には多摩川の支流の野川か?丁度この付近で合流するので、微妙なところです。)
本画面を皮切りに、二子玉川交通アクセス図、多摩川の空撮映像、駅前巨大ショッピングセンターの映像が示され、それに合わせて戸田恵子さんが、二子玉川の概要説明をナレーションしました。
二子玉川の概要(ナレーション:戸田恵子さん)(音声ファイル)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
次に、ショッピングセンター内を歩くタモリさんと久保田アナの場面になります。タモリさんは、ショッピングセンターには全く興味を示さないまま番組は進行しましたが、ここで一人目の案内人の方が登場したとたん、タモリさんはがぜん、ブラタモリのスイッチが入ったようです。
#05A、一人目の案内人松沢邦光さん(画面右)
松沢邦光さん:ショッピングセンター開発時の現場責任者。この辺一帯の、地権者一軒一軒と交渉を続けているときに、この辺の写真を撮影、現在まで大切に保管していたとのこと。
#05B、開発時撮影した写真の場所と同一場所との新旧比較
久保田アナ:「この辺で、同じポジションが判る場所がありますか?」
松沢邦光さん「今、この角が、この写真の場所です。」
タモリ:「ここは、何があるんですか?」
松沢さん:「砂利置き場!」
久保田アナ:「砂利置き場!!ハー!?」
#06、かつて「砂利置き場」だった交差点の北西の角(現在)。
#07、同上場所の昭和38年の写真
#08、同上、北東の角(現在)
#09、同上場所の昭和38年の写真
タモリ:「世田谷じゃないですね」
松沢さん:「全然違います。」
タモリ:「ものすごいド田舎です。これを見せて、昭和38・39年頃の世田谷とは誰も思わないです。」
久保田アナ:「分からないですね、本当に。」
#10、古写真の現在の場所の解析(地図)
現地で、古写真の撮影場所は、#10の「地点A」と思い、写真を撮りました。
#11、地点Aからの眺め(現在)きたろう実写
しかし、この写真では交差点の左の角の建物が全く違うことや空中連絡通路の数が、ビデオでは1本に対し、撮影した写真では3本もあり、ここでは無いことが判りました。
帰宅後、ビデオを見返したところ、タモリさん、松沢さんの後方に野村證券の赤い看板がある(#05A、#05Bにも写っている)のをヒントに、GOOGLE MAPのストリート・ビューで付近を探索したところ、#10の「地点B」がその場所であると判明しました。
#12、旧砂利置き場の現在の画像(GOOGLE MAPのストリート・ビュー)
#13、旧田園風景が広がっていた所の現在の画像(GOOGLE MAPのストリート・ビュー)
<続く>
同7月3日(火)アップ
大変、ご無沙汰しております。
ちょっと間が空きましたが、また、ブラタモリトレースを企画し実施しましたので、ブログ・アップ致します。
※お詫び
前回の「ブラタモリトレース・神宮外苑」は、全3回シリーズ予定のところ、2回で中断してしまい、大変申し訳ございませんでした。お詫び致します。
さて、今回は、NHKの番組「ブラタモリ」シリーズの第3回目に放送された「二子玉川」に焦点をあてました。本番組は2009年(平成21年)10月15日に放送され、2010年10月22日に再放送されました。(本ブログは、再放送の画像を使用しました。また、アナログVTRで録画したものからの画像ですので、不鮮明な画像であることをご了承ください。)
#00、ブラタモリトレース・二子玉川の地図(計画&実績)
番組のロケ地は
①巨大ショッピング・センター
②古写真に写された場所(#00地図の地点B)
③多摩川河原
④川から離れた場所にある謎の土手
⑤一軒残る、老舗の料理店
⑥廃止された玉川電気鉄道の名残の構造物(鉄道柵)
⑦同電停「中耕地」の跡地
⑧蕎麦屋・大勝庵(玉川電気鉄道グッズ収集家)
⑨行善寺
ですが、①ショッピング・センターと⑨行善寺、は取材を割愛しました。
また、⑤の老舗の料理屋については、店の前の通過に留めました。
#01、ブラタモリ 二子玉川 オープニング画面
オープニング・テーマ曲(音声ファイル)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
#02、タモリさんと久保田アナが二子玉川降り立つ(TV画像)
タモリさん達が、電車で二子玉川駅に来たとは思えませんが、タモリさん久保田アナが二子玉川駅に降り立ち、西口から出てくるところから番組が始まりました。この後すぐに、二子玉川駅前の再開発の映像に変り、当時(2009年)再開発の真っ最中であるのが紹介されました(駅舎も改装中)。
ついで、タモリさんは、ほとんど二子玉川に来たことが無く、興味もあまりないというのに対し、久保田アナは、二子玉川はおしゃれで素敵な街であるという認識を持っていることが発覚しました。
注)以下、TV画面の写真は、青い枠で囲んで示し、「(TV画像)」の表示は割愛いたします。
#03、現在(2018年6月)の二子玉川駅西口(きたろう実写)
駅舎はメタリック調の外装にリニューアルされました。
#04、多摩川河原
多摩川に架かっている鉄橋は、東急田園都市線の鉄橋です。画面左方が二子玉川駅方面、画面右の先が溝の口方面です。
(※見える川面は、厳密には多摩川の支流の野川か?丁度この付近で合流するので、微妙なところです。)
本画面を皮切りに、二子玉川交通アクセス図、多摩川の空撮映像、駅前巨大ショッピングセンターの映像が示され、それに合わせて戸田恵子さんが、二子玉川の概要説明をナレーションしました。
二子玉川の概要(ナレーション:戸田恵子さん)(音声ファイル)
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
次に、ショッピングセンター内を歩くタモリさんと久保田アナの場面になります。タモリさんは、ショッピングセンターには全く興味を示さないまま番組は進行しましたが、ここで一人目の案内人の方が登場したとたん、タモリさんはがぜん、ブラタモリのスイッチが入ったようです。
#05A、一人目の案内人松沢邦光さん(画面右)
松沢邦光さん:ショッピングセンター開発時の現場責任者。この辺一帯の、地権者一軒一軒と交渉を続けているときに、この辺の写真を撮影、現在まで大切に保管していたとのこと。
#05B、開発時撮影した写真の場所と同一場所との新旧比較
久保田アナ:「この辺で、同じポジションが判る場所がありますか?」
松沢邦光さん「今、この角が、この写真の場所です。」
タモリ:「ここは、何があるんですか?」
松沢さん:「砂利置き場!」
久保田アナ:「砂利置き場!!ハー!?」
#06、かつて「砂利置き場」だった交差点の北西の角(現在)。
#07、同上場所の昭和38年の写真
#08、同上、北東の角(現在)
#09、同上場所の昭和38年の写真
タモリ:「世田谷じゃないですね」
松沢さん:「全然違います。」
タモリ:「ものすごいド田舎です。これを見せて、昭和38・39年頃の世田谷とは誰も思わないです。」
久保田アナ:「分からないですね、本当に。」
#10、古写真の現在の場所の解析(地図)
現地で、古写真の撮影場所は、#10の「地点A」と思い、写真を撮りました。
#11、地点Aからの眺め(現在)きたろう実写
しかし、この写真では交差点の左の角の建物が全く違うことや空中連絡通路の数が、ビデオでは1本に対し、撮影した写真では3本もあり、ここでは無いことが判りました。
帰宅後、ビデオを見返したところ、タモリさん、松沢さんの後方に野村證券の赤い看板がある(#05A、#05Bにも写っている)のをヒントに、GOOGLE MAPのストリート・ビューで付近を探索したところ、#10の「地点B」がその場所であると判明しました。
#12、旧砂利置き場の現在の画像(GOOGLE MAPのストリート・ビュー)
#13、旧田園風景が広がっていた所の現在の画像(GOOGLE MAPのストリート・ビュー)
<続く>