きたろう散歩番外編”歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(6)(最終回)(注) [歌川国芳]
2011/06/12(日)アップ
あれっ、このシリーズは、前回で完結したのでは?とお思いでしょうが、どうしても書かざるを得ない資料が発見されたのでアップしました。
写真#01は、本シリーズ(2)でも掲載しましたが、深川江戸資料館内、ビデオ視聴覚コーナーの壁を飾る線画です。シリーズ(2)で、きたろうは、この絵が架空の場所を描いたものとしましたが、これはとんでもない事実誤認であることが判明しました(以下、順序を追って説明します)
本シリーズ の(5)をアップした後、まだバラ状態のままの資料を整理・ファイルをしていました。その時に、深川江戸資料館の観覧券を資料館の栞にホッチキスで留めようとして、瞬間観覧券の裏を見た時に“あっ”と驚きました。今まで約3ヵ月間も探していた、本所深川方面の絵図(俯瞰図)が掲載されていたのです。
なーんだ、探し求めていた資料はこんな身近にあったのか?とチルチルとミチルの青い鳥探しの心境でした。この観覧券の裏の絵は船橋屋織江著「菓子話船橋」[天保12年(1841)刊]に掲載されているものです。深川佐賀町の菓子の名店船橋屋は文化初めの創業で、練羊羹を売り物としていました。本書はその船橋屋の主人が、店に伝わる菓子の製法を、素人の菓子好みの人々が作れるようにと分量付きで紹介したものです。
因みに、この船橋屋は、現在、亀戸にある「船橋屋」とは関係がないとのことです。
本の綴じ代の部分をカットしてつなげたものが、図#03です。絵は永代橋及び深川佐賀町を南西方向から、北東方向を俯瞰で見下ろすように描かれています。
著者のお店(船橋屋)が画面左に、右手前に永代橋が大きく描かれています。船橋屋は佐賀町にあったという事実から、画面中央の橋は下之橋であることが分かります。また、左端の橋は中之橋と推定されます。また、なんと火の見櫓も描かれているではないですか。それは、下之橋のすぐ左(北)のところに描かれていました。まさに、この絵は国芳が描いたほぼ同じ場所を、国芳の視点より約800m南のところ(隅田川西岸・永代橋の南側)から描いています。
国芳が描いた三ツ股の図では、中之橋があって、すぐ右に火の見櫓があって、そのすぐ右隣に謎の高い塔が描いてありました。しかし「菓子話船橋」に掲載された絵では、その謎の塔は見当たりません。もっとも、国芳が描いたのは、天保二年(1831)、「菓子屋船橋」は天保十二年(1841)刊行ということで、描かれた時期も違うので、国芳が描いた謎の塔、すなわち井戸掘りのための櫓は、一時的な建築物なので、「菓子屋船橋」に描かれていなくとも何の不思議はありませんが・・・
ここで、もう一度#01の線画を、見て頂きたいのですが、本シリーズ(2)に掲載したときには、説明として、「具体的な場所を描いているのではない」ときたろうは結論づけていました。しかし、これはきたろうの大きな勘違いであることが分かりました。なぜかというと、菓子話船橋に掲載の絵に基づいて、江戸期の「本所深川絵図」に船橋屋の位置と火の見櫓の位置を描き入れました。次に、この地図上で火の見櫓、永代橋、富士山の位置関係を良くみると、な、なんと#01の線画は佐賀町の火の見櫓の傍から南西方向を眺めた絵であることがわかりました。(#05)
すなわち、「菓子話船橋」に掲載の絵は、深川・佐賀町を南西方向から北東方向を俯瞰して描いた絵で、それに対し深川江戸資料館のビデオ視聴コーナーの所の線画は深川佐賀町から南西方向、永代橋、富士山の方向を描いた絵で丁度、ビューポイントが正反対の位置関係になっていることが分かりました。
ということは、#01の線画で画面左手に流れている川(堀)は油堀川でさらに左の画面外には下之橋が架かっていると考えられます。
(本シリーズ(5)地図#03参照)
菓子話船橋に掲載の絵図と、国芳の描いた三ツ股の図の対岸深川の様子は、若干異なります。
菓子話船橋の絵では、本所深川の北の方から、中之橋、(船橋屋)、火の見櫓、下之橋、永代橋という順に並んでいます。国芳の絵では、中之橋、火の見櫓、(謎の高い塔)、永代橋と並んでいます。
どちらが、信憑性が高いかと言えば、菓子屋船橋の方が信憑性が高いと思われます。
前回も指摘しましたが、国芳の絵では、橋の架かっている川(堀)の巾と橋と橋の距離等に整合性が見られないことが分かっています。また、菓子屋船橋の絵は、この地区の絵地図的なものとして掲載されているのに対し国芳の絵は風景画として美術的な要素を求めていると考えられるからです。
結局、国芳の謎の塔の解明の鍵は、お水番さんの指摘どおり深川江戸資料館に揃っていた訳です。それを、きたろうも資料館の女性職員も気付ず見逃していたという事でした。
この事実を、きちんと認識してから、観覧券の裏面の絵と、ビデオ視聴コーナーの線画を見ると、これらが、なんと生き生きと見えたことか!!
これには、深川霊雲院の他、万年橋、正木稲荷、神明宮塔が描かれています。これも南西方向から北東方向を見下ろした俯瞰図です。
この絵図の掲載で、本シリーズを終了させて頂きます。 END
。
注)従来のサブタイトル(エピローグ)を(最終回)に変更致しました。(2011/8/6)
きたろう散歩番外編”歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(5)(注)” [歌川国芳]
2011/05/06(土)アップ
今まで、国芳の東都三ツ股の図の謎解きを進めるべく現地に行ったり、図書館に行ったりしましたが、改めて見ると、新聞で紹介された時点からひとつも前に進んでいないことに気づかされました。
ふりだしに戻り、今回は国芳の絵を仔細に調べ謎解きを進めることにしました。
1、どの方向を描いた絵か?(左端の橋は何橋か?)
国芳の絵の謎の塔の左側に描いてある橋が何橋かと云うのが、この絵がどの方向を描いたかを解く鍵になります。東京新聞は、この橋が何橋かは断定してはいませんが、小名木川に架かる橋と見ています。小名木川に架かる橋は万年橋で、2月22日の東京新聞には、万年橋と小名木川の写真が掲載されていました。
しかしあるブロガー(お水番さん)はこの橋は、上之橋では?という疑問をご自身のブログで投げかけていました。(注1)
これについて検証しました。この検証には当然地図が必要ですが、三ツ股の図が描かれたのは1831年(天保2年)で、この頃の地図としては「嘉永・慶応江戸切絵図」1862年(文久2年)が有名です。(図#02)しかし、この地図は文字通り絵図であり、正確な縮尺は望むべくも有りません。また、国芳の絵は中洲から隅田川をはさんで対岸の深川方面を描いたものとされていますが、この地図では中洲は描かれていません。
そこで、その後明治20年(1887)に作られた、正確な縮尺の地図「五千分一東京図(陸軍参謀本部)」を使うことにしました。(図#03)
ア)国芳の絵を詳しく解析し、左の橋が何橋であるかを特定する
(国芳の絵の拡大図・図#01上でB―Cの長さとC―Dの長さの比率から、左の橋が何橋か特定できないか?)
図#01でB-Cの長さは、橋が架かる川の河口の巾に相当します(注2)、C-Dの長さは、この橋の南詰から永代橋迄の距離に相当します。国芳の絵に描かれた左側の橋の候補の橋は、上流から万年橋(小名木川)、上之橋(仙台堀)、下之橋(油堀川)が挙げれます。この三つの橋に付いて、単純比例計算で各々C-Dの距離を求めますと、万年橋の場合は292m、上之橋の場合は239m、下之橋の場合は212mになりました。実際のC-D間の距離は、万年橋の場合834m、上之橋の場合は489m、下之橋の場合は207mですので、図#01から求めた距離と実際の距離で整合性のあるのは、下之橋ということになります。
イ)国芳の絵の左の橋が本当に下之橋か
(ア)の解析を行う時に、下之橋は、中洲より大分南なので、対象外にしようとおもいましたが、解析結果では下之橋が該当することになってしまいました。しかし、直観的に見て、絵の中の左の橋が下之橋でないと言うのはすぐに分かります。もし、中州から下之橋を眺めたら、大分斜めから見ることになり、写真#04の様に見えるはずです。国芳の絵は橋とほぼ直角の方向から眺めた感じなので、この橋は下之橋では無いと言えます。
ウ)国芳の絵の左の橋は、万年橋か上之橋か?
国芳の絵は、中州から描かれたとされていますが、中洲も結構大きく、上流側は万年橋より約100m上流辺りから、下流側は上之橋の約100m下流辺りまで広がっています。どこから描いたかに付いて、ネット上で大分調べましたが分かりませんでした。
しかし、中洲のどこから描いたか決めないと、この橋が万年橋なのか上之橋なのかも決められないので、描いた場所は、現在、清洲橋が架かっている辺りに該当する部分としました。(図#03で赤丸で示した場所)
中洲の中で、現在清洲橋が架かっている辺りが、江戸時代もやはり中洲の中心的な場所と考えられたからです。
<左の橋が万年橋としたら>
もし、左の橋が万年橋としたら、小名木川の河口及び万年橋は図#07のように、小名木川の北岸側が万年橋の下から見通せるはずです。しかしこの絵は、国芳の左の橋の部分を左右反転させたものです。これで、左の橋が、万年橋と云う事は否定的になります。
さらに、左の橋が万年橋としたら図#01のAの部分は、地図#02及び図#06(広重の絵)で分かるように、正木稲荷神社があるはずです。しかし#01(又は#05)のAの部分には正木稲荷らしき描写はほとんどありません。
<左の橋が上之橋としたら>
中洲の、丸印を付けた所から上之橋を見たとしたら、橋の北西側から斜めに見ることになるので、仙台掘の南岸見通せるはずです。図#05はこの様になっていて矛盾がありません。また、積極的にこの橋が上之橋であるという証拠がないかどうか、ネット上でやはりずいぶん探しましたが、同時代に上之橋を描いた画像は見つかりませんでした。
しかし時代は違いますが、手持ちの資料で明治に描かれた上之橋の絵がありました。(#08)
これは、井上安治が遅くとも1889年迄には描いた「深川仙台掘」という絵です。この橋の歴史を調べると、昭和5年(1930)まで木製の橋であったことがわかっています。この絵は、国芳とは反対側の仙台掘から描いており、また国芳が描いたときから約60年経過していますが、橋の形はそっくりです。
これらのことから、国芳の絵の左の橋は、上之橋とかなりの確率で言えると思います。
と言うことは、謎の塔がある方向は、南東の方向ということになります。中洲の対岸の南東方向には霊雲院、久世大和守の屋敷、霊巌寺、牧野備前守の屋敷などお寺や武家屋敷があります。現在だと清澄庭園のある方向ということになります。
東京新聞では、現在東京スカイツリーと同方向に、謎の塔があるとしていますが、きたろうの解析では、全く方向が違うと結論づけられました。
2、国芳の絵の謎の塔は何か?
次に図#09の国芳の絵の拡大図で、火の見櫓と謎の塔の高さを、河口巾から比例計算で求めてみました。
国芳の左の橋は、上之橋でほぼ間違いないと言う事が分かったので、国芳の絵でB-C間は36mと云う事になります(図#01、#09)。火の見櫓と謎の塔を比例計算で求めると、各々43m、97mという、ありえない高さになりました。
お水番さんによると、江戸の火の見櫓の高さは9m程とのこと。と言うことは、4.78倍も実際の高さより高く描かれていることになります。この比率で、謎の塔も描かれているとすると、謎の塔の高さは20mということになります。
ただ、今ここで謎の塔としましたが、実はネット上では結論が出ていて、既に発表されていました。それは、きたろうは見逃していましたが『iZa イザβ版、ブログで楽しむニュースサイト(2011/03/05 00:26)・・・「180年前の江戸に「スカイツリー」』(注3)で発表されていました。
<#10>
2月22日の東京新聞の記事でコメントを寄せた洋画家の悳 俊彦(いさお としひこ)氏(75)はその著書の中で国芳が描いた井戸掘り櫓の浮世絵「子供遊金生水之掘抜」を掲載しています。この絵に出てくる櫓は、東都三ツ股の図の謎の塔とそっくりの形をしています。子供遊金生水之掘抜の櫓の高さは、大人の背丈の約6倍の高さなので9mと言う事になります。高さは、掘る場所によって加減されたと思われます。
この形から言って、東都三ツ股の謎の塔は、井戸掘りの櫓でほぼ間違いないと思われました以上、国芳の謎の絵を、理詰めで解析すると上記の結論になります。しかし、ここまでやっても、ヤッターという爽快感はありません。
だまし絵の大家の絵なので、この火の見櫓と井戸掘りの櫓の高さを異常に高く描いたというのがだましなのでしょうか?それだけではなく、何か、まだ、だましの要素が仕込まれているのではと思ってしまいます。そう思うと、上空に描かれた雲の形と云い、色と言い、何か悪いことでも起きそうな、または、UFOでも出て来そうな雰囲気で、すべて怪しく見えてきます・・・
本文END
注1)so-neのお水番さんのブログ(2011/3/2)3.中間まとめ~歌川国芳「東都三ツ股の図」に描かれたスカイツリーみたいな謎の尖塔を追う
注2)河口巾は川幅とは異なります。図#03の凡例を参照してください。
注3)iZa イザβ版、ブログで楽しむニュースサイト(2011/03/05 00:26)
END
きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(4)” [歌川国芳]
3月28日(月)アップ
前回(3)で国芳の東都三ツ股の図に描かれた対岸の現地調査を行いました。深川江戸資料館では、国芳の絵の一番左に描かれた火の見櫓の原寸再現建築を見ることが出来ました。また、文献調査をするのであれば江東区立深川図書館の方が良いとの助言を頂きました。
3月24日(木)都内で所用があったので、その帰り道深川図書館に寄りました。係りの方にその旨・目的を告げると、2階の「郷土資料室」という鍵のかかった部屋に案内されました。部屋に入る前に、利用表のようなものに住所・氏名等記入し、かばんはロッカーにしまい、筆記用具のみ携行して中に入りました。専門職員の方も、一緒に探して頂けることになりました。この方と、資料室内にある、江戸末期のこの近辺の地図や江戸名所図会的なもの、風景を描いた浮世絵等探しましたが、江戸末期・江東区で火の見櫓があった場所の特定は出来ませんでした。小林清親の「三ツ又 永代橋遠景」と題する浮世絵がありましたが、惜しいことに、この絵は国芳の三ツ股の図の右半分に相当する部分を描いたもので、謎の塔と火の見櫓のある左側の方に相当する部分は描かれていませんでした。
#01 小林清親/三ツ又 永代橋遠景(ネット上からピックアップ)
http://www.yaf.or.jp/yma/arts_sellection/selection/
kato_collection/1985_prj/M/00300004.JPG
図書館は、原発事故に伴う省電力で5時閉館のため、「井戸掘り」に関しては時間切れで調査出来ませんでした。次回は井戸掘りに関し調査したいと思います。
以下、深川図書館と周辺の写真を掲載します。
#02 深川図書館・正面玄関
この入口が正面玄関ですが、最初裏口かと思いました。重厚感のある建物なのに、扉の色が薄い緑なので、裏口と勘違い?と自己分析しました。きたろうは扉の色は金色ならこの建物にマッチすると思います。(安っぽい金色ではダメ)
#03 深川図書館の北側(清澄庭園・南作業用通用口)
深川図書館は清澄庭園の南に位置します。ここは、清澄庭園の南の作業用の通用口。
#04 深川図書館の玄関燈
アンティークな玄関燈。ノスタルジック的で良い!
#05 深川図書館の掲示板
深川図書館南側(道路側)にある掲示板。画面右側は公園。
本文END
きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(3)” [歌川国芳]
ブログを掲載するのに先立ち、このたびの東日本大地震で被災された方には、心よりお見舞い申し上げます。また、犠牲になられた方々へ謹んでご冥福をお祈りいたします。
3月21日アップ
深川江戸資料館では、火の見櫓の原寸再現建築を見ることが出来ました。深川江戸資料館を出て、仙台堀川沿いに隅田川の方へ向かいました。
国芳の絵で画面左にある橋について、東京新聞は萬年橋であるという立場でした。国芳は、この絵を、日本橋中州から描いたとされています。古地図で確認すると、中洲の対岸には上流から、萬年橋、上之橋、中之橋、下之橋があります。(いずれも隅田川と直角に交わる堀(川)の河口に架かる橋)このうち中之橋、下之橋は、大分下流の方にあるので、国芳の絵の左側の橋には該当しません。萬年橋または上之橋が、国芳の絵の左側に描かれた橋の候補です。
※写真をクリックすると、拡大表示出来ます。(他の写真も同様)
また、各写真の撮影位置・方向は図#10Bを参照してください。
この仙台堀川の先に、かつては上之橋がありました。現在は、排水機場があって、隅田川は見通せません。昔、この堀の北岸に仙台藩の米蔵があったのに因んで仙台堀(川)と名付けらました。この川の両岸には、桜が植えてあり遊歩道になっています。南岸の遊歩道を、西方へ移動しましたが遊歩道の所々に芭蕉の句を表示した高札状のものがありました。花見の時期、俳句ファンには絶好のスポットと言えます。
清川橋の後方(西方)画面左の建物は清澄排水機場、中央右寄りの白い建物は読売江東ビルです。
江東区の低地を水害から守る一連の設備のひとつだそうです。高潮の恐れや津波の襲来があるときは、この川と繋がっている複数の川の、隅田川または荒川との接点にある水門は閉じられます。そのとき、大雨が降っていると当然川があふれる危険があります。これを防ぐため、排水ポンプで仙台堀川の水を隅田川に排水する設備です。従って、普段は動いていません。排水能力はなんと1秒間に48tだそうです。昭和61年に建てられましたが、それより前は、ここには水門がありました。この施設は、仙台堀川が隅田川と繋がる部分を暗渠化しその上に建てられているので、仙台掘川の水面が見えるのはここまでです。
現在、アサノコンクリート(株)がある場所に、かつて、浅野セメント工場がありました。浅野セメント工場は明治14年日本初のセメント工場として、ここで創業しました。
浅野セメント工場は、その後企業合併等で、現在は太平洋セメント㈱になり、アサノコンクリートは、そのグループ会社のひとつです。会社案内を見ると、「良質なレディーミクストコンクリートの安定供給」と書いてあり、普段「生コン」と略して言っているのは、正式には「レディーミクストコンクリート」と言うことが分かりました。
この説明板は、工場の道路沿いに、明治時代に作られたコンクリートブロックや、セメント工業発祥の地を記念する石碑(コンクリート碑?)や、浅野セメントの創業者の銅像がまとめて置いてある展示スペースの左端にあります。ここに書いてある説明文を、以下そのまま記載しました。
『当地は日本で初めてのセメント工場のあった場所です。明治8年、工部省が本格的な
セメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料
の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上ました。明治16年、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展をとげました。 平成16年5月 太平洋セメント株式会社』
明治27年に製造されたとのことですが、このコンクリートブロックの右脇にある説明文を次にそのまま記載します。
『明治22~23年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ボルトラントセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。』
このコンクリートブロックは、江東区の登録文化財になっています。
この碑のベースはコンクリートのようです。石碑ならぬコンクリート碑(?)。
ここの、展示スペースでは全く触れられていませんが、浅野セメント工場は、操業開始数年後から公害問題を引き起こしていました。この地は、日本の公害の第1号の地でもあります。操業以来。長期間近隣住民は工場の操業中止を求めて来ました。しかし、操業開始から約60年間この地でセメント製造を行い、昭和17年になってようやくこの地でのセメント製造を中止しました。
現在、上之橋はありません、清澄排水機場建設に伴い、排水機場の敷地になる部分から、隅田川との接点まで、仙台掘川を暗渠化したためです。
上之橋の解説文で、ネット上に簡潔で良いものを見つけましたので、以下そのまま転載します。
『上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。
本橋は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱4本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。
昭和61年(1986)11月 江東区』
※「永山不動産HPの内東京都の歴史(江東区)」から引用。(http://tokyokoto.blog.shinobi.jp/Category/14/)
この文章は、教育委員会や区の史蹟説明板の文章のスタイルですが、現地で上之橋についての史蹟説明板のような物は見かけませんでした。(見逃しているかも?)
写真#18は、かつて上之橋があった場所を。北東から南西方向に見た画像です。画面左端にある構造物が、残された親柱の一つです。
上之橋跡の南から北方向を見た画像。
上之橋跡の南西側の親柱。桜(河津桜と思われる)もほころびはじめました。
写真#20の撮影位置近辺から、北方向を撮影した画像。清洲橋越しに東京スカイツリーが望めました。
以上、国芳が描いた、三ツ股の図の対岸に該当する地域及び深川江戸資料館内を探索しましたが、国芳の絵の東京スカイツリーの様な塔が何であるかを解く手掛かりはありませんでした。また、国芳の絵の左端に描かれている橋が、萬年橋なのか上之橋なのかを決める手がかりもありませんでした。区立深川図書館で、江戸末期、この辺にあった火の見櫓の位置や、井戸掘りの記録等調べれば国芳の絵の謎に一歩近づけるかもしれませんが、この日の散策目的は一般的な史蹟散策会で、深川図書館に寄る時間はありませんでした。
この後、佐賀二丁目の佐賀稲荷神社にお参りし、永代橋を渡り、永代橋西詰のパノラマ写真を撮ったところから、再び隅田川と対岸・江東区の方を眺めました。大きい川の流れを眺めるのは、いつもながらゆったりとした、いい気分になります。
計画した、残りの史蹟を見学し、いつもの所で恒例の散歩慰労会を行いました。
本文END
きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(2)” [歌川国芳]
ブログを掲載するのに先立ち、このたびの東日本大地震で犠牲になられた方々へご冥福をお祈りいたします。
2011年3月13日アップ
今回は、前回の“国芳VS東京スカイツリー”のフォローアップ版ともいうべきレポートです。3月10日定期的に開催される散歩会で、たまたま深川江戸資料館がコースに入っていました。前回の“きたろう散歩”にコメントを寄せられた“お水番さん”が、深川江戸資料館なら、この絵の謎を解く情報があるはずということで、深川江戸資料館では、“井戸堀”、“火の見櫓”をキーワードに調査及び写真撮影をして来ました。
※深川江戸資料館館内の写真のブログへのアップについては、当館の方に確認をとったところ、他の見学者のプライバシーが損なわれないよう注意すれば可とのことでした。
(但し、企画展示室内の部分は撮影禁止とのこと。)
当日の散歩のコース(部分)及び写真撮影位置とその方向
優美な姿の清洲橋。隅田川に架かる橋の中で、最も交通量が少ないらしい。
地図#01に、昔の中洲の地形を再現して示しましたが、明治19年迄は、この辺に文字通り中洲がありました。清洲橋は、日本橋中洲町と深川の清澄町を結ぶ橋と言うことに因んで名付けられましたが、この名前は公募されたものから選ばれたということです。
※地図上をクリックすると、拡大表示できます。(他の写真も同様)
写真#03は清洲橋西詰から見た、隅田川東岸のパノラマ写真です。上流(左)方向に東京スカイツリー、ほぼ正面に小名木川河口付近に架かる萬年橋、右端に清洲橋が眺められます。
国芳の左の方の橋に関して、東京新聞はこの橋が、萬年橋であるという立場です。
しかし、この撮影位置からだと、萬年橋の左に東京スカイツリーが見えるので、国芳の絵の塔と橋の位置関係とは、逆になります。
写真#04は、写真#03の萬年橋部分のクローズアップ写真です。
江戸時代の、火の見櫓の頂上部分に時計を埋め込んだユニークな時計台(清澄公園内)。
深川江戸資料館ロビーにある、当館のメイン展示の江戸町並み再現の説明図(部分)。
深川江戸資料館のメイン展示の江戸町並み再現(原寸大)。手前左は土蔵。奥の右側は火の見櫓、左側は船宿です。お水番さんは、当時の火の見櫓は、高さが9m位と認識していますが、この再現建築を見ると概ね9m位ありそうです。(※船宿のてっぺんを約6mとみなすと、それよりも火の見櫓は数m高いので)
この写真は、立体写真です。平行観察法で、立体視が得られます。
船宿の前から見た火の見櫓。下から見上げると、高さが感じられます。
ビデオ視聴コーナー壁面全体に設置してある江戸の風景。描かれているものは、火の見櫓、蔵、大きい橋と現実的なものです。橋の後方に富士山が見えるので、この川は、西南西に流れていることになります。しかし、この絵のように大きい川で西南西方向に流れる川は、現実にはあり得ないので、この絵は、具体的な場所を描いているのではないと言うことが分かります。
同上の、別の壁面にある、江戸の風景、火の見櫓が遠景で描いてあります。この絵が写実的であるとすると、国芳の火の見櫓は大分細長いと思われます。
深川江戸資料館に到着直後に、お水番さんが気にしていた、昔のこの地域のどこに火の見櫓があったか?とか、この辺で、井戸掘りの記録があったか?と言うことに関し、当館の若い女性の方にお聞きしましたが、当館にはその類の資料はないとのことでした。文献資料は、近所にある、区立深川図書館の方で所蔵しているとのことでした。
最後にロビーにある地域の歴史資料、販売図書の見本、定期刊行物等を出来る限りめくって調べましたが、火の見櫓の位置まで載っている古地図や、井戸掘りに関する記述は残念ながら見当たりませんでした。
資料館を出た後、仙台川堀沿いに隅田川の方に歩みを進めましたが、それについては、次回レポートします。
本文END
きたろう散歩番外編”歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(1)(注)” [歌川国芳]
2011年2月23日アップ(4月25日一部改訂)
2月22日の朝、日テレを見ていたら新聞記事の紹介コーナーで「歌川国芳の浮世絵で現在の東京スカイツリーの方向を描いた風景画があるが、丁度現在の東京スカイツリーの位置に高い塔が描かれているものがある」という記事を紹介していました。これは、興味ある話だと思いましたが、何新聞の記事かは聞き逃したので、紹介していた絵が何であるかネットで調べた所、歌川国芳の「東都 三ツ股の図」という絵であることが分かりました。
※絵をクリックすると拡大表示出来ます。(他の、図・写真も同様)
画面左手に二つの塔が並んで立っており、一つは火の見櫓であるが、その右横に火の見櫓の倍の高さもある櫓状の塔が描かれていました。記事紹介の番組では、井戸堀の為の櫓という説もあると紹介されていました。この辺りの景色は、広重も描いており名所江戸百景シリーズの中にも「みつまたわかれの淵」という題のものがあります。朝の時点では、これ以上の情報はありませんでした。
午前中、都内で所用があり、それを済ましてから所用先の近くの図書館でその記事を探したところ「東京新聞」の記事であることがわかりました。
東京新聞 2011年2月22日(朝刊)
歌川国芳 東都 三ツ股の図
<新聞記事抜粋>
江戸時代の浮世絵師が「東京スカイツリ一を予知していた・・・かどうかは分からないが 驚くことに、来春開業の電波塔にそっくりの”謎の塔”が 隅田川を描いた風景画に残されていた。作者は、大胆な構図や奇抜な発想で人気の浮世絵師歌川国芳(一七九七~一八六一年)。百八十年前の空の下にそそリ立つ尖塔のミステリーを追った。
(川崎支局・酒井博章、中山洋子)
「数年前に作品を入手していたときは気にとめなかつたんです。でも今年一月、久しぶりに桐箱から取り出してみると「東京スカイツリー」にしか見えない塔が描かれていた。びっくりですよ」そう話すのは 浮世絵の中にスカイツリーを”発見”した収集家で川崎市で私設美術館「川崎・砂子の里資料館」を営む斎藤文夫氏(82)らだ。国芳の没後百五十年になる三月に企画展を予定していて、その準備中にピンときてしまったという。 注目の作品は、一八三一(天保二年)ごろに描かれた「東都三ツ股の図」。
隅田川の中州から深川方面を眺望する構図で手前の中州では船底を焼く様子が描かれ、右手に永代橋、その奥には無数の千石船が係留された佃島が見える。対岸の左手で小名木川とみられる支流には橋がかかる。その橋のたもとにそびえる二塔のうち、低い方は火の見櫓だが、右側のさらに高い塔が「スカイツリー」にそっくりなのだ。斎藤氏は「国芳は、スカイツリーの登場を予言してたんでしようかと面白がるが、本当は何なのか。
<以下略>
※上記の東京新聞の記事で省略した部分は、<続きを読む>に、掲載します。
図書館で情報を入手後、駅で東京新聞を購入し、この絵が描かれた場所に向いました。隅田川の三ツ股は現在は埋め立てられて同じ場所を撮影することは不可能ですが、この絵と似たような景色が撮影出来る場所を探しました。そこは、意外にも永代橋・西詰上流側のミニ公園のようになっている場所でした。
左:東京スカイツリー、右:永代橋(永代橋西詰から撮影)、パノラマ合成写真
東京スカイツリーをやや拡大
※手前の船は、産業廃棄物運搬のハシケ(帰り船)
帰り道の錦糸町駅構内から見た東京スカイツリー。
国芳の描いた塔に関し、この辺りの地下水は塩分を含んでいるので井戸掘りのための櫓では無いとする説もありますが、きたろうはやはり井戸掘りのための櫓説を支持します。浅い井戸では、塩分が混じるので深い井戸を掘ろうとするが故に、このような高い櫓が必要だったのだと思います。
注:続編(2)(3)が出来ましたので、本編を(1)としました。
本文END
続きを読む[撮影データ&東京新聞の記事(本文で省略した部分)]