第10回「市ヶ谷八幡(春41景)」を撮る [広重・名所江戸百景]

2010/4/30(金)アップ

市谷八幡は、文明8年(1476年)に太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡を勧請して創建しました。もとは、市谷御門内にありましたが、寛永年間(1624~1644)に外濠を工事した折にここに(新宿区市谷八幡町15番地)移されました。(#00ア)
#00ア.jpg
※画面をクリックすると拡大表示されます(他の写真も同様)

この絵の右上端が市谷八幡本殿、そのすぐ手前左の小さい屋根の社は茶の木稲荷、そのすぐ手前の鳥居が新宿区指定有形文化財の銅鳥居です。階段下は、水茶屋、芝居小屋、楊弓場等が軒を連ね江戸有数の歓楽街を形成していました。
手前の水面は、江戸城外濠の水面、右下に斜めに道路のようなものが見えているのは、市谷御門に渡って行く道の一部です(現在の市ケ谷橋)。
画面左上の火の見櫓と白壁は、尾張屋敷のものです。

市谷亀が岡八幡付近の航空写真(撮影ポイント)(#00イ)
#00イ市ヶ谷八幡撮影ポイント.jpg
                                                  
広重の「市ヶ谷八幡」と同じ視点の写真(#01)
#01市ヶ谷橋から市ヶ谷八幡方向.JPG
広重と同一視点からの現在の眺めでは、外堀通り沿いの高いビルでさえぎられて市ヶ谷八幡は全く見えません。広重の絵と、この写真の共通点は、外堀通りと外濠の水面だけです。画面右下の斜めに見える部分は、広重の時代は石垣を積み上げた堤状の道なのに対し(写真#07参照)、現在この部分は橋になっているので、見た目は同じですが土木建築上は異なっています。
市ヶ谷八幡の入り口は、赤い屋上看板のビルと青い屋上看板のビルの間です。
外堀通りから市谷八幡を望む(写真#02)
#02市ヶ谷八幡(外堀通りから).jpg
市谷八幡の入り口に「亀岡八幡宮」と書かれた一対の提灯が設置されています。
市谷八幡の階段の下から(#03)
#03市ヶ谷八幡(階段の下から).jpg
※この写真は2年前の写真です。今回、写真すべてに日付を表示していますので参照して下さい。
階段下に、「市谷亀ヶ岡八幡宮」と刻んである石標があります。勧請した鶴ケ丘八幡に対し亀ヶ岡八幡と名付けられました。
石標の上の赤い提灯の陰の社は茶の木稲荷で、眼病に霊験あらたかということで、江戸時代は多くの人が訪れたそうです。
銅の鳥居と本殿(#04)
#04市ヶ谷八幡(銅の鳥居).jpg
この鳥居は銅製で、1804年に作られました。新宿区の有形文化財に指定されています。
市谷八幡本殿(#05)
#05市ヶ谷八幡(本殿).jpg
この写真は11年前のフィルムカメラ時代に撮った写真です。                                                                            
JR市ヶ谷駅プラットホームから市谷八幡(茶の木稲荷)を望む(#06)
#06市ヶ谷八幡(JR市ヶ谷駅プラットホームから).jpg
後方の「東京地本」と表示された建物は、自衛隊の東京地方協力本部の建物です。
広重と同視点の現在の写真(#01)では、市谷八幡が全く見えないので、手持ちの古写真集で、市谷八幡が写っている写真を探しました。「写真で見る 幕末・明治」の43ページにその写真がありました。                                                          
明治5年(1872年)頃の市谷八幡宮と尾張屋敷(ファーイースト)(#07)
#07尾張屋敷と市ヶ谷八幡(1872年頃).jpg
この写真は、広重が描いたときから14年後、維新後に撮られたものですが、広重が描いた光景とほとんど変わっていません。(ビューポイントもほぼ同じ)
火の見櫓、白壁の塀ははっきり写っています。八幡宮は木立の中にあり、辛うじて確認できます。銅の鳥居は確認できません。この写真では、広重の絵で、よしず張りのお休み処に相当するところ(外堀通りのお濠側)には家が連なって建てられたのが判ります。この写真の手前、現在の市ヶ谷橋に相当するところは、この時代は石垣でかためた堤状の道路であることがわかります。橋のところの人物の影な長さから、季節は夏と判断しました。                                                                  
大正8年撮影市谷八幡(#08)
#08市ヶ谷八幡(1919年).jpg
この写真も、広重とほぼ同視点から撮影されています。明治5年写真とくらべると、①八幡宮の外堀通りの入り口の所に鳥居が立ったこと、②外堀通りに電車が走っている(お濠側にあった家並みは消失)、③外堀通り山際の家並みの何軒かで看板をかかげた事などが変わったことがわかります。さらに、尾張屋敷の所に洋風の建物が建っています。これは、明治7年12月開校の陸軍士官学校の建物です。
写真#07は明治5年頃撮影された写真ですので、この写真の尾張屋敷は取り壊し前の最後の写真の一つと考えられます。
大正8年の写真も市谷八幡は木立の中にあり、はっきりは写っていませんでした。
※本ブログ、都合によりしばらく中断致します。申し訳ございません。
      
<広重の絵>
・名所江戸百景の内「市ヶ谷八幡」春41景
安政五年(1858年)十月
<撮影ポイント>
・市谷亀ヶ岡八幡宮・・・新宿区市谷八幡町15番地
・市ヶ谷橋
・JR市ヶ谷駅
<今回の撮影の自己評価>
・広重の視点で写真を撮る・・・ジャストOK
・撮影季節・・・ジャストOK(桜の咲く季節)
・昔の名残り・・・市谷亀ヶ岡八幡宮がそのまま存続
・広重の絵のイメージ再現・・・組み合わせ写真で再現
・現地での感動・・・☆
・総合・・・・☆☆★(星ふたつ半)
<引用写真・文献>
・「写真で見る 幕末・明治」43頁、㈱世界文化社、2000年3月発行
・「今とむかし廣重名所江戸百景帖」210頁、暮らしの手帖社、
平成五年六月初版

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