第8回「目黒新富士(春24景)」を訪ねる [広重・名所江戸百景]

2010/4/9アップ

このミニ富士山は、徳川幕府の幕臣で、北蝦夷や千島列島を探査したことで知られる近藤重蔵(じゅうぞう)の別宅敷地に築かれた人造の山です。ここは、別所坂を登りきったところで住所は目黒区中目黒2-1-23、ここにミニ富士山を文政二年(1819年)に築きました。前回紹介した現キングホームズにあったミニ富士山は文化九年(1812年)に築かましたが、その7年後にここの富士山が築かれました。それ以来、現キングホームズにあったミニ富士山は目黒元富士、ここのミニ富士山は目黒新富士と呼ばれるようになりました。近藤重蔵の屋敷は元々高台で、さらに元富士をしのぐ程の高さの山を築いたので、新富士からの眺めは良く武州第一と称されました。

#00ア春24景目黒新富士.jpg
#00イ目黒新富士近辺地図.jpg
※画像をクリックすると、拡大表示します。(他の写真も同様)。

頂上からは、北西に武甲山、秩父の山々、南西に富士山、大山、丹沢山塊、南東に上総の山々を眺める事が出来ました。 広重の絵で、目黒新富士の山腹右、遠方に見える大きい屋根は祐天寺の屋根と推定されます。 また、目黒新富士の中ほどに、人の背丈に満たない祠と石碑のようなものが見えますが、これらは富士講再興の祖といわれた身禄行者(みろくぎょうじゃ)を祀った祠や「南妙法蓮華経」「小御岳(こみだけ)」「文政二年吉日戌申」などの銘のある三つの石碑とおもわれます

目黒新富士の手前の川は、玉川用水を水源とする三田用水です。三田用水は、前回紹介した旧朝倉家住宅の方から、渋谷区と目黒区の区界の尾根沿いに流れ、新富士の麓を通って三田へ流れていました。(上の地図で緑色の線が区界です) この用水は江戸時代から昭和50年迄、農業用水や恵比寿のビール工場の雑用水に使われていましたが昭和50年に廃止になりました。

目黒新富士の絵でも花見をする人や、ミニ富士登山をする人々が描かれています。

近藤重蔵の屋敷は、近藤重蔵の息子の代で、人手に渡り大正の頃は笹間家が所有との記録もあります(脚注)。

その後、昭和34年この地に、国際電信電話㈱目黒研究所が建設されるに伴い、目黒新富士は姿を消しました。山腹にあった石碑は、同構内に残されました。

7年前(2003年)、この地を訪問した時の写真が#01ですが、画面右の方に小さく国際電信電話㈱目黒研究所改め「KDDI研究所」と表示がしてありました。
 さらにその後、2006年マンション(テラス恵比寿の丘)が建設され現在に至っています。

#01目黒新富士跡地(KDDI研究所)2003年.jpg
目黒新富士の跡地(目黒区中目黒2-1-23)現、テラス恵比寿の丘(写真#02)

#02テラス恵比寿の丘.jpg
広重の視点と同じ視点で写真を撮るという命題ですが、目黒新富士の絵を見ると、ミニ富士の山頂よりも高い視点から描いています。この近辺で、このような高い視点から写真が撮れるような適当な場所は無く、同じ視点での写真撮影は断念しました。せめて、広重が描いた方向と同じ方向で写真を撮ることにしました。広重の絵では、本物の富士山が描かれています。ということは、西南西方向を描いていることになります。目黒新富士跡地の近辺から、南南西方向を撮った写真が写真#03です。

#03目黒新富士跡から南南西を望む.jpg
上の写真で、このマンションのすぐ右側(西側)に、都市計画法に基づく公開通路が設けられており、この公開通路はマンションの南西隅にある「目黒区立 別所坂児童遊園」に繋がっています。

公開通路から南方向を撮った写真です。(写真#04)

#04公開通路から南西方向を望む.jpg
高台にあるためか、桜は3~4分咲きと、途中見て来た目黒川の桜よりは開いていませんでした。このショットは、一応広重の絵のある桜のイメージ再現のつもりです。

児童遊園から南南西方向の水平遠望です(写真#05)

#05別所坂児童遊園から西南西方向ア.jpg
この日は大気が比較的クリアーで、大山、丹沢の山並みが見えました。(写真#06)

#06別所坂児童遊園から西南西方向イ.jpg

ということは、富士山が見えても良いはずですが写真には写っていませんでした。
(ビルの陰で見えないのかも・・・)

児童遊園から西方向の水平遠望です。(写真#07)

#07別所坂児童遊園から西方向.jpg
画面左寄りの高層の建物は、中目黒駅近くに出来た「中目黒アトラスタワー」です。

児童公園の南隅に、教育委員会の説明板と石碑がありました。(写真#08)

#08別所坂児童遊園南隅方向.JPG

目黒区教育委員会の「目黒新富士」に関する説明板(写真#09)

#09目黒新富士・教育委員会説明板.JPG

山腹にあったとされる石碑は、この説明板の右に置かれていました。(写真#10)
#10目黒新富士石碑.jpg

「南妙法蓮華経」の銘がある石碑は、3つの石碑の左側にありました。

この石碑は、国際電信電話㈱&KDDIがあった時代には、会社の構内にあり、一般公開はされていませんでした。マンション建設時に児童公園に移され、一般公開されるようになったことは、歴史ファンとしては喜ばしいことです。


公開通路から、下の別所坂を撮った写真です。(写真11)

#11公開通路から別所坂を見る.jpg
結構急な坂です。

新富士があった場所を、北から見た写真です。(#12)

#12酒販会館恵比寿寮.jpg

中央の建物は、酒販会館恵比寿寮その右奥がテラス恵比寿の丘です。手前に見える車の数m向こうが区界で、こちらが渋谷区、向こう側が目黒区になります。この辺に三田用水が通っていたと思われます。

テラス恵比寿の丘から別所坂へ下りる階段のところにある「目黒区みどりの散歩道」の看板(写真#13(1)&(2))
※この看板は、写真#03に小さく写っています。

#13(1)新富士地下遺溝ア.jpg
#13(2)新富士地下遺溝イ.jpg
この説明文中「平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。」とありますが、近くとは、全国小売酒販組合の敷地で、写真#12の中央から左手の辺りと思われます。 目黒新富士の探訪は以上です。

この後、目黒元富士の所へ再度行き、代官山を通って渋谷駅から帰りました。
     
<広重の絵>名所江戸百景の内「春24景 目黒新富士」

<撮影地住所>
・目黒新富士跡地(元KDDI研究所、元テラス恵比寿の丘)・・・目黒区中目黒2-1-23
・目黒区立別所坂児童遊園・・・目黒区中目黒2-1-15
・写真12・・・渋谷区恵比寿南3-9辺りから目黒区中目黒2-1-27酒販会館恵比寿寮を撮影
<文献>
「今とむかし廣重名所江戸百景帖」、暮らしの手帖社、平成5年6月初刷
<今回の探訪の評価>
・広重の視点で写真を撮る・・・高度はX、方向はOK
・撮影季節・・・・OK(花見の季節)
・昔の名残りの掘り出し・・・山腹にあった石碑が一般公開されるようになった
・現地での感動・・・☆☆
・総合評価・・・☆☆★(星2.5・・・★は星0.5とする)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。