きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(2)” [歌川国芳]

ブログを掲載するのに先立ち、このたびの東日本大地震で犠牲になられた方々へご冥福をお祈りいたします。
        
2011年3月13日アップ
        
今回は、前回の“国芳VS東京スカイツリー”のフォローアップ版ともいうべきレポートです。3月10日定期的に開催される散歩会で、たまたま深川江戸資料館がコースに入っていました。前回の“きたろう散歩”にコメントを寄せられた“お水番さん”が、深川江戸資料館なら、この絵の謎を解く情報があるはずということで、深川江戸資料館では、“井戸堀”、“火の見櫓”をキーワードに調査及び写真撮影をして来ました。
        
※深川江戸資料館館内の写真のブログへのアップについては、当館の方に確認をとったところ、他の見学者のプライバシーが損なわれないよう注意すれば可とのことでした。 (但し、企画展示室内の部分は撮影禁止とのこと。)
        
当日の散歩のコース(部分)及び写真撮影位置とその方向
#01地図永代橋.jpg
※地図上をクリックすると、拡大表示できます。(他の写真も同様)
        
優美な姿の清洲橋。隅田川に架かる橋の中で、最も交通量が少ないらしい。
#02清洲橋.jpg
地図#01に、昔の中洲の地形を再現して示しましたが、明治19年迄は、この辺に文字通り中洲がありました。清洲橋は、日本橋中洲町と深川の清澄町を結ぶ橋と言うことに因んで名付けられましたが、この名前は公募されたものから選ばれたということです。
#03東京スカイツリー万年橋清洲橋.jpg
写真#03は清洲橋西詰から見た、隅田川東岸のパノラマ写真です。上流(左)方向に東京スカイツリー、ほぼ正面に小名木川河口付近に架かる萬年橋、右端に清洲橋が眺められます。 国芳の左の方の橋に関して、東京新聞はこの橋が、萬年橋であるという立場です。 しかし、この撮影位置からだと、萬年橋の左に東京スカイツリーが見えるので、国芳の絵の塔と橋の位置関係とは、逆になります。
        
#04萬年橋.jpg
写真#04は、写真#03の萬年橋部分のクローズアップ写真です。
        
#05清澄公園内時計台.jpg
江戸時代の、火の見櫓の頂上部分に時計を埋め込んだユニークな時計台(清澄公園内)。
        
#06火の見櫓の図.jpg
深川江戸資料館ロビーにある、当館のメイン展示の江戸町並み再現の説明図(部分)。
        
#07江戸の町並み(立体写真).jpg
深川江戸資料館のメイン展示の江戸町並み再現(原寸大)。手前左は土蔵。奥の右側は火の見櫓、左側は船宿です。お水番さんは、当時の火の見櫓は、高さが9m位と認識していますが、この再現建築を見ると概ね9m位ありそうです。(※船宿のてっぺんを約6mとみなすと、それよりも火の見櫓は数m高いので) この写真は、立体写真です。平行観察法で、立体視が得られます。
#08船宿と火の見櫓.jpg
船宿の前から見た火の見櫓。下から見上げると、高さが感じられます。
        
#09江戸の風景ア(線画).jpg
ビデオ視聴コーナー壁面全体に設置してある江戸の風景。描かれているものは、火の見櫓、蔵、大きい橋と現実的なものです。橋の後方に富士山が見えるので、この川は、西南西に流れていることになります。しかし、この絵のように大きい川で西南西方向に流れる川は、現実にはあり得ないので、この絵は、具体的な場所を描いているのではないと言うことが分かります。
#10江戸の風景イ(線画).jpg
同上の、別の壁面にある、江戸の風景、火の見櫓が遠景で描いてあります。この絵が写実的であるとすると、国芳の火の見櫓は大分細長いと思われます。
        
深川江戸資料館に到着直後に、お水番さんが気にしていた、昔のこの地域のどこに火の見櫓があったか?とか、この辺で、井戸掘りの記録があったか?と言うことに関し、当館の若い女性の方にお聞きしましたが、当館にはその類の資料はないとのことでした。文献資料は、近所にある、区立深川図書館の方で所蔵しているとのことでした。
        
最後にロビーにある地域の歴史資料、販売図書の見本、定期刊行物等を出来る限りめくって調べましたが、火の見櫓の位置まで載っている古地図や、井戸掘りに関する記述は残念ながら見当たりませんでした。
        
資料館を出た後、仙台川堀沿いに隅田川の方に歩みを進めましたが、それについては、次回レポートします。
本文END
※レイアウト若干変更しました。(2011/03/15)
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お水番

きたろうさん、興味深いレポートをありがとうございます。私は、国芳の画は、風景の位置関係はかなり写実的で、実際になかったものは書いていないのではないか、ただ、並んで立っている火の見櫓と謎の塔の高さを極端に誇張したのではないか、と考えていました。
今も、その考えに沿って仮説をたてていこうとは思っていますが、しかし、国芳の作風を考えると、なにか判じ物みたいに、火の見櫓と謎の塔を描いたのかもしれない、その可能性も捨てきれないような気がしています。
仮に判じ物だとして、現代の私たちには解けないけれど、当時の洒落っ気のある江戸の人には解けたのかもしれませんね。
国芳の画は、やっぱり謎ですね。
by お水番 (2011-03-14 17:34) 

きたろう

お水番さん、訪問ありがとうございます。
一応、きたろうは、井戸掘用櫓説ですが、今回の調査は予断を排し、素材提供に徹しました。次回は、仙台堀川→浅野セメント工業跡→一之橋(跡)をレポートします。
by きたろう (2011-03-15 04:45) 

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