きたろう散歩番外編“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(3)” [歌川国芳]

ブログを掲載するのに先立ち、このたびの東日本大地震で被災された方には、心よりお見舞い申し上げます。また、犠牲になられた方々へ謹んでご冥福をお祈りいたします。
        
3月21日アップ
        
深川江戸資料館では、火の見櫓の原寸再現建築を見ることが出来ました。深川江戸資料館を出て、仙台堀川沿いに隅田川の方へ向かいました。
        
#10B地図永代橋.jpg
国芳の絵で画面左にある橋について、東京新聞は萬年橋であるという立場でした。国芳は、この絵を、日本橋中州から描いたとされています。古地図で確認すると、中洲の対岸には上流から、萬年橋、上之橋、中之橋、下之橋があります。(いずれも隅田川と直角に交わる堀(川)の河口に架かる橋)このうち中之橋、下之橋は、大分下流の方にあるので、国芳の絵の左側の橋には該当しません。萬年橋または上之橋が、国芳の絵の左側に描かれた橋の候補です。
        
#11海辺橋より西方仙台堀川を望む.jpg
※写真をクリックすると、拡大表示出来ます。(他の写真も同様)
 また、各写真の撮影位置・方向は図#10Bを参照してください。
        
この仙台堀川の先に、かつては上之橋がありました。現在は、排水機場があって、隅田川は見通せません。昔、この堀の北岸に仙台藩の米蔵があったのに因んで仙台堀(川)と名付けらました。この川の両岸には、桜が植えてあり遊歩道になっています。南岸の遊歩道を、西方へ移動しましたが遊歩道の所々に芭蕉の句を表示した高札状のものがありました。花見の時期、俳句ファンには絶好のスポットと言えます。
        
#12仙台堀川に架かる清川橋.jpg
清川橋の後方(西方)画面左の建物は清澄排水機場、中央右寄りの白い建物は読売江東ビルです。
        
#13清澄排水機場.jpg
江東区の低地を水害から守る一連の設備のひとつだそうです。高潮の恐れや津波の襲来があるときは、この川と繋がっている複数の川の、隅田川または荒川との接点にある水門は閉じられます。そのとき、大雨が降っていると当然川があふれる危険があります。これを防ぐため、排水ポンプで仙台堀川の水を隅田川に排水する設備です。従って、普段は動いていません。排水能力はなんと1秒間に48tだそうです。昭和61年に建てられましたが、それより前は、ここには水門がありました。この施設は、仙台堀川が隅田川と繋がる部分を暗渠化しその上に建てられているので、仙台掘川の水面が見えるのはここまでです。
        
#14アサノコンクリート㈱.jpg
現在、アサノコンクリート(株)がある場所に、かつて、浅野セメント工場がありました。浅野セメント工場は明治14年日本初のセメント工場として、ここで創業しました。 浅野セメント工場は、その後企業合併等で、現在は太平洋セメント㈱になり、アサノコンクリートは、そのグループ会社のひとつです。会社案内を見ると、「良質なレディーミクストコンクリートの安定供給」と書いてあり、普段「生コン」と略して言っているのは、正式には「レディーミクストコンクリート」と言うことが分かりました。
        
#15セメント工業発祥の地説明板T.jpg
        
この説明板は、工場の道路沿いに、明治時代に作られたコンクリートブロックや、セメント工業発祥の地を記念する石碑(コンクリート碑?)や、浅野セメントの創業者の銅像がまとめて置いてある展示スペースの左端にあります。ここに書いてある説明文を、以下そのまま記載しました。 『当地は日本で初めてのセメント工場のあった場所です。明治8年、工部省が本格的な セメントの製造に成功しました。上図手前の隅田川、右側の仙台堀などの泥土を原料 の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを作り上ました。明治16年、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展をとげました。   平成16年5月 太平洋セメント株式会社』
        
#16明治時代に作られたコンクリートブロック.jpg
明治27年に製造されたとのことですが、このコンクリートブロックの右脇にある説明文を次にそのまま記載します。 『明治22~23年(1889~1896)に行われた横浜港築港工事で、その防波堤基礎用として明治27年(1894)に製造して海中に沈設され、昭和6年(1931)同港改築に際し引上げられたコンクリートブロックである。このコンクリートはアサノ普通ボルトラントセメントを使用したもので、配合はセメント:砂:(砂利と小割栗石)が1:2.8:5.2(容積比)水セメント比は40%程度と推定される。37年間海中にあっても損傷は認められず、優れたコンクリートであったことを証明している。』  このコンクリートブロックは、江東区の登録文化財になっています。
        
#17本邦セメント工業発祥の地碑.jpg
この碑のベースはコンクリートのようです。石碑ならぬコンクリート碑(?)。
         
ここの、展示スペースでは全く触れられていませんが、浅野セメント工場は、操業開始数年後から公害問題を引き起こしていました。この地は、日本の公害の第1号の地でもあります。操業以来。長期間近隣住民は工場の操業中止を求めて来ました。しかし、操業開始から約60年間この地でセメント製造を行い、昭和17年になってようやくこの地でのセメント製造を中止しました。
         
#18上之橋跡北東詰めから.jpg
現在、上之橋はありません、清澄排水機場建設に伴い、排水機場の敷地になる部分から、隅田川との接点まで、仙台掘川を暗渠化したためです。
         
           
上之橋の解説文で、ネット上に簡潔で良いものを見つけましたので、以下そのまま転載します。
         
『上之橋(かみのはし)は、江戸時代から仙台堀の佐賀町河岸通りに架る橋として、大きな役割を果たしてきた。中之橋、下之橋とともに、佐賀町を上佐賀、中佐賀、下佐賀に分ける橋であった。 
  
 本橋は、昭和5年(1930)震災復興事業により架設され、昭和59年(1984)、清澄排水機場建設に伴い撤去された。ここに橋名を刻んだ親柱4本を保存し、橋の歴史を永くとどめるものとする。
昭和61年(1986)11月 江東区』
※「永山不動産HPの内東京都の歴史(江東区)」から引用。(http://tokyokoto.blog.shinobi.jp/Category/14/
 
        
この文章は、教育委員会や区の史蹟説明板の文章のスタイルですが、現地で上之橋についての史蹟説明板のような物は見かけませんでした。(見逃しているかも?)
           
写真#18は、かつて上之橋があった場所を。北東から南西方向に見た画像です。画面左端にある構造物が、残された親柱の一つです。
         
#19上之橋跡南東詰めから.jpg
上之橋跡の南から北方向を見た画像。
         
#20上之橋の親柱と桜.jpg
上之橋跡の南西側の親柱。桜(河津桜と思われる)もほころびはじめました。
        
 
#21上之橋跡から東京スカイツリーを望む.jpg
写真#20の撮影位置近辺から、北方向を撮影した画像。清洲橋越しに東京スカイツリーが望めました。
           
以上、国芳が描いた、三ツ股の図の対岸に該当する地域及び深川江戸資料館内を探索しましたが、国芳の絵の東京スカイツリーの様な塔が何であるかを解く手掛かりはありませんでした。また、国芳の絵の左端に描かれている橋が、萬年橋なのか上之橋なのかを決める手がかりもありませんでした。区立深川図書館で、江戸末期、この辺にあった火の見櫓の位置や、井戸掘りの記録等調べれば国芳の絵の謎に一歩近づけるかもしれませんが、この日の散策目的は一般的な史蹟散策会で、深川図書館に寄る時間はありませんでした。 この後、佐賀二丁目の佐賀稲荷神社にお参りし、永代橋を渡り、永代橋西詰のパノラマ写真を撮ったところから、再び隅田川と対岸・江東区の方を眺めました。大きい川の流れを眺めるのは、いつもながらゆったりとした、いい気分になります。
計画した、残りの史蹟を見学し、いつもの所で恒例の散歩慰労会を行いました。
 
本文END
<深川江戸資料館のご案内>
住所:東京都江東区白河1-3-28、
電話:03-3630-8625、
最寄駅:半蔵門線または都営大江戸線「清澄白河」駅下車 徒歩3分
        
<撮影データ>
#11・・・2011/03/10 15:44
#12・・・同日    15:52
#13・・・同日    15:56
#14・・・同日    16:00
#15・・・同日    16:00
#16・・・同日    15:59
#17・・・同日    15:59
#18・・・同日    16:01
#19・・・同日    16:03
#20・・・同日    16:05
#21・・・同日    16:05
撮影はすべてきたろう
END

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お水番

“歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(3)”掲載のお知らせ、ありがとうございました。

万年橋なのか上の橋なのかを判断する決定打は見つからないものの、さらに詳細に調べていくと、なにか手がかりに行き着くかもしれませんね。
東京新聞の記事は、「万年橋と見られる・・」としていましたが、この根拠な何だったのだろうかということも気になります。

国芳の視点場となっていた中州は、現在の日本橋中洲よりも狭かったようで、現在の清洲橋のあたりは中州になっていなかったようです。現在の紀伊国屋のあたりに「御船蔵」があったようで、船底を焚き火であぶっている風景から、この「御船蔵」あたりが国芳の視点場だったのかもしれないと考えています。

中州のどこから見ていたかによってもかわりますが、中州のエリアから万年橋が正面に見える場所はなさそうで、視野から言って、中洲から万年橋が見えていたかどうかも疑問です。

さて、私も東北地方に親族が何十人もおりますので、地震以来、安否確認におわれ、安否がわかった後は、避難所にいる身内がどんな境遇になっているのやら、毎日毎日、いてもたってもいられない気持ちです。
地震の前は、近々深川江戸資料館を訪ねてみようと思っていましたが、今はそれもかなわず、当分は行けそうもない状況になってしまいました。

きたろうさんのレポート、本当にありがたく思います。
ご自身のご親戚、ご友人、お知り合いは、みなさん無事でいらっしゃいますか?
被災地はもちろん、この東京も大変なことになっていますので、お互い、健康に気をつけて頑張ってまいりましょう。

by お水番 (2011-03-21 16:12) 

きたろう

お水番さん訪問ありがとうございます。
東北地方のご親族の状況、ご心配ですね。
きたろうの親戚、友人、知人までお気づかい頂き恐れいります。
今週、都内に所用がありますので、帰り道深川図書館に寄り、この近辺の江戸時代の火の見櫓や井戸掘りに関し、調査して見ます。
きたろうのブログも、国芳VS東京スカイツリーをアップしてからアクセス数が急増して、関心の高さを実感しました。もう、少し謎解きを進めたいと思います。

by きたろう (2011-03-21 18:48) 

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