きたろう散歩番外編”歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(6)(最終回)(注) [歌川国芳]

2011/06/12(日)アップ
あれっ、このシリーズは、前回で完結したのでは?とお思いでしょうが、どうしても書かざるを得ない資料が発見されたのでアップしました。
写真#01は、本シリーズ(2)でも掲載しましたが、深川江戸資料館内、ビデオ視聴覚コーナーの壁を飾る線画です。シリーズ(2)で、きたろうは、この絵が架空の場所を描いたものとしましたが、これはとんでもない事実誤認であることが判明しました(以下、順序を追って説明します)
#01深川から永代橋を望む.jpg
本シリーズ の(5)をアップした後、まだバラ状態のままの資料を整理・ファイルをしていました。その時に、深川江戸資料館の観覧券を資料館の栞にホッチキスで留めようとして、瞬間観覧券の裏を見た時に“あっ”と驚きました。今まで約3ヵ月間も探していた、本所深川方面の絵図(俯瞰図)が掲載されていたのです。
#02深川江戸資料館切符裏オリジナル.jpg
    
なーんだ、探し求めていた資料はこんな身近にあったのか?とチルチルとミチルの青い鳥探しの心境でした。この観覧券の裏の絵は船橋屋織江著「菓子話船橋」[天保12年(1841)刊]に掲載されているものです。深川佐賀町の菓子の名店船橋屋は文化初めの創業で、練羊羹を売り物としていました。本書はその船橋屋の主人が、店に伝わる菓子の製法を、素人の菓子好みの人々が作れるようにと分量付きで紹介したものです。
      
因みに、この船橋屋は、現在、亀戸にある「船橋屋」とは関係がないとのことです。
本の綴じ代の部分をカットしてつなげたものが、図#03です。絵は永代橋及び深川佐賀町を南西方向から、北東方向を俯瞰で見下ろすように描かれています。
#03深川江戸資料館切符裏ブログ6(本番用).jpg
    
#04霊雲院画像(URL付き).jpg
    
著者のお店(船橋屋)が画面左に、右手前に永代橋が大きく描かれています。船橋屋は佐賀町にあったという事実から、画面中央の橋は下之橋であることが分かります。また、左端の橋は中之橋と推定されます。また、なんと火の見櫓も描かれているではないですか。それは、下之橋のすぐ左(北)のところに描かれていました。まさに、この絵は国芳が描いたほぼ同じ場所を、国芳の視点より約800m南のところ(隅田川西岸・永代橋の南側)から描いています。
    
国芳が描いた三ツ股の図では、中之橋があって、すぐ右に火の見櫓があって、そのすぐ右隣に謎の高い塔が描いてありました。しかし「菓子話船橋」に掲載された絵では、その謎の塔は見当たりません。もっとも、国芳が描いたのは、天保二年(1831)、「菓子屋船橋」は天保十二年(1841)刊行ということで、描かれた時期も違うので、国芳が描いた謎の塔、すなわち井戸掘りのための櫓は、一時的な建築物なので、「菓子屋船橋」に描かれていなくとも何の不思議はありませんが・・・
    
 ここで、もう一度#01の線画を、見て頂きたいのですが、本シリーズ(2)に掲載したときには、説明として、「具体的な場所を描いているのではない」ときたろうは結論づけていました。しかし、これはきたろうの大きな勘違いであることが分かりました。なぜかというと、菓子話船橋に掲載の絵に基づいて、江戸期の「本所深川絵図」に船橋屋の位置と火の見櫓の位置を描き入れました。次に、この地図上で火の見櫓、永代橋、富士山の位置関係を良くみると、な、なんと#01の線画は佐賀町の火の見櫓の傍から南西方向を眺めた絵であることがわかりました。(#05)
#05江戸本所深川地図ブログ6(本番用).jpg
    
すなわち、「菓子話船橋」に掲載の絵は、深川・佐賀町を南西方向から北東方向を俯瞰して描いた絵で、それに対し深川江戸資料館のビデオ視聴コーナーの所の線画は深川佐賀町から南西方向、永代橋、富士山の方向を描いた絵で丁度、ビューポイントが正反対の位置関係になっていることが分かりました。 ということは、#01の線画で画面左手に流れている川(堀)は油堀川でさらに左の画面外には下之橋が架かっていると考えられます。
(本シリーズ(5)地図#03参照)
    
菓子話船橋に掲載の絵図と、国芳の描いた三ツ股の図の対岸深川の様子は、若干異なります。 菓子話船橋の絵では、本所深川の北の方から、中之橋、(船橋屋)、火の見櫓、下之橋、永代橋という順に並んでいます。国芳の絵では、中之橋、火の見櫓、(謎の高い塔)、永代橋と並んでいます。
どちらが、信憑性が高いかと言えば、菓子屋船橋の方が信憑性が高いと思われます。 前回も指摘しましたが、国芳の絵では、橋の架かっている川(堀)の巾と橋と橋の距離等に整合性が見られないことが分かっています。また、菓子屋船橋の絵は、この地区の絵地図的なものとして掲載されているのに対し国芳の絵は風景画として美術的な要素を求めていると考えられるからです。
    
結局、国芳の謎の塔の解明の鍵は、お水番さんの指摘どおり深川江戸資料館に揃っていた訳です。それを、きたろうも資料館の女性職員も気付ず見逃していたという事でした。
 この事実を、きちんと認識してから、観覧券の裏面の絵と、ビデオ視聴コーナーの線画を見ると、これらが、なんと生き生きと見えたことか!!
    
#04霊雲院画像(URL付き).jpg
    
これには、深川霊雲院の他、万年橋、正木稲荷、神明宮塔が描かれています。これも南西方向から北東方向を見下ろした俯瞰図です。
      
   
この絵図の掲載で、本シリーズを終了させて頂きます。     END
    
注)従来のサブタイトル(エピローグ)を(最終回)に変更致しました。(2011/8/6)
    
<参考文献>
❖嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七版)、人文社、1995年4月20日第1刷発行
❖江戸から東京へ 明治の東京、人文社、1996年9月20日初版発行

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レッド

様々な資料の比較・検証お疲れ様です。
切絵図と当時の絵を照らし合わせると色々な物が見えてくるのですね。
きたろうさんの探求心には感服致しました。
by レッド (2011-06-12 14:06) 

きたろう

はじめまして レッドさん
訪問&コメントありがとうございます。
by きたろう (2011-06-12 16:24) 

お水番

興味深いレポートをありがとうございます。
深川江戸資料館の観覧券の裏に、凄い情報がありましたね!
私のほうは、国芳の謎の塔についての調査を中断したままになっていますが、ともかくも深川江戸資料館に行ってみなければと思い、今日は珍しく予定のない日なので行ってみようと朝から支度をしていましたが、念のため、深川江戸資料館のHPを見たら、なんと臨時休館でした(笑)。

国芳のこの画は、見ればみるほど不思議な構図ですね。
いったい視点場はどこなのかということをずっと考えているのですが、現在の日本橋中洲のあたりのどこを視点場と設定しても、構図にさまざまな矛盾が生まれます。

永代橋の長さと位置関係からいうと、問題の橋は「下ノ橋」でなければなりませんが、火の見櫓は「下ノ橋」の左側でなければおかしい。
また、当時の中洲の一番南側が視点場だとしても、「下ノ橋」はこのように正面には見えないはず。

問題の橋が「中ノ橋」と考えると、上の矛盾はほぼ解決しますが、永代橋との位置関係からは、火の見櫓はもっと右のほうに見えないとおかしい。

中洲が視点場だとすると、「上ノ橋」が正面に見えていてもおかしくないが、距離の近い「中ノ橋」が描かれていないのはおかしい。

どうもこの画には、さまざまな角度、複数の視点場から見た風景が、ひとつの風景として統合されて描かれているような気がしてなりません。
つまり、一種のキュービズムといえるのではないかと思っています。

画の主題は、近景の舟と、船底をあぶる焚き火の煙です。
その煙が上空にあやしげにただよい、その向こう側に隅田川の向こう岸が描かれていますが、国芳は煙の向こう側の世界を、空間が歪んだ異界として描いているのかもしれませんね。

by お水番 (2011-06-14 12:04) 

きたろう

お水番さん コメントありがとうございます。
きたろうは、深川江戸資料館の観覧券の裏面の絵を見てからは、国芳の描いた墨田川の対岸の様子は、国芳の現実の基づいた虚構と割り切っています。多分正確な縮尺で対岸を描くと家などがもっと細かくなって、絵としての美術性に欠けてしまうと考えられます。
by きたろう (2011-06-14 20:01) 

お水番

私も、「現実に基づいた虚構」というお説に同感です。
火の見櫓も、井戸掘りの櫓も、橋も、確かにあったのでしょう。川岸の町並みも、無かったものを書いているわけじゃない。
書かれているものは全て、そこにあったのだと思います。
でもたぶん、そのレイアウトやサイズは再構築されている。
そこに何か理由があるのでしょうね。

今、気になっているのは、三つ股の中洲は、伊達公による遊女・高尾惨殺の舞台だった場所だということと、落語の「反魂香」(これを炊くと、遊女・高尾の幽霊が出てくる)。
長屋の八五郎が、反魂香かと思って買い求めた「越中富山の反魂丹」を炊いてむせ返り・・・という噺。
国芳が描いた「船底をあぶる焚き火の煙」の裏側には、反魂香を炊く噺があって、遊女・高尾の幽霊を招く煙が仙台堀の空を覆っている、というような設定があるのかもしれません。

by お水番 (2011-06-18 21:58) 

きたろう

国芳が描いた川岸の川幅や橋の長さは大雑把に見て2~3倍に拡大されています。きたろうはこれは、国芳の意図というより、単純に本当の縮尺では、細かくなりすぎて描き切れないためと思っています。単純に、これ以上細かく彫ることが出来ないため、絵描きと。彫り師の間には、暗黙のルールがあったと、きたろうは想像しています。
 あと、煙の件は、きたろうが前にUFOでも出てきそうなと書きましたが、確かに不気味です。
 今年の、5月13日(金)高尾大夫の墓がある、東浅草の春慶院に行きました。そこの説明板には、惨殺されたというのは、芝居の上の話で、身分を越えたロマンスだったというようなことが書いてありました。この墓も、伊達家が内々で金を出して建てさせたと書いてありました。
歴史の真実は、どっちなんでしょうかね?





by きたろう (2011-06-19 13:27) 

MARY

また見に来ます。
by MARY (2011-07-19 06:26) 

torikera

きたろうさん、お見事です

実は深川江戸資料館の久染達夫さんが「門前仲町の火の見櫓」の解説に「佐賀町下の橋際」に火の見櫓があったということを書いていました
今回のきたろうさんの謎解きで確信を持つことができました

一方でこんなことも考えたのですが
調べてみると門前仲町の交差点の近くに富岡八幡の一の鳥居があってその近くにも立派な火の見櫓があったそうです

高さ18mで江戸で一番のものだったとか・・・山本一力氏「ほうき星」毎日新聞小説より
http://hokiboshi.iza.ne.jp/blog/entry/164307/

また櫓下といわれるほど当時富岡八幡の門前は岡場所として栄え深川芸者の置屋が並んでいたそうです

有峰書店新社記事http://www.arimine.com/reprint01_ex02.html

江戸の風俗八百八店
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai2/nagai2-13.html

そうしてみると国芳が描いた火の見櫓は あるいは「深川」を象徴するシンボルとして三ツ股の向こう岸に毅然と立っていなければならないものだったのではないか?江戸の人たちにとって火の見櫓はイコール「深川情緒」であり”いなせ”だったのではないか?なんて考えてみたのですがこれはいささか深読みすぎるでしょうか(笑)
by torikera (2011-07-22 00:07) 

きたろう

torikeraさんコメントありがとうございます。
国芳の絵ってすごいです。
150年もたって、愛好家の人々が、ああでもない、こうでもないといじっているんですから。
広重の絵も同様です、広重の絵は、きたろうなんかは、ああいい景色だな、ああきれいな花だな、この場所はどこなんだろう?などと思ういながら見ています。
by きたろう (2011-07-22 08:51) 

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