きたろう散歩番外編”歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー(1)(注)” [歌川国芳]

2011年2月23日アップ(4月25日一部改訂)
2月22日の朝、日テレを見ていたら新聞記事の紹介コーナーで「歌川国芳の浮世絵で現在の東京スカイツリーの方向を描いた風景画があるが、丁度現在の東京スカイツリーの位置に高い塔が描かれているものがある」という記事を紹介していました。これは、興味ある話だと思いましたが、何新聞の記事かは聞き逃したので、紹介していた絵が何であるかネットで調べた所、歌川国芳の「東都 三ツ股の図」という絵であることが分かりました。
#01浮世絵・国芳・三つ股・東京スカイツリー.jpg
※絵をクリックすると拡大表示出来ます。(他の、図・写真も同様)
画面左手に二つの塔が並んで立っており、一つは火の見櫓であるが、その右横に火の見櫓の倍の高さもある櫓状の塔が描かれていました。記事紹介の番組では、井戸堀の為の櫓という説もあると紹介されていました。この辺りの景色は、広重も描いており名所江戸百景シリーズの中にも「みつまたわかれの淵」という題のものがあります。朝の時点では、これ以上の情報はありませんでした。
午前中、都内で所用があり、それを済ましてから所用先の近くの図書館でその記事を探したところ「東京新聞」の記事であることがわかりました。
東京新聞 2011年2月22日(朝刊)
#02東京新聞国芳浮世絵東京スカイツリー記事.jpg
歌川国芳 東都 三ツ股の図
#03東京新聞国芳浮世絵.jpg
<新聞記事抜粋>
 江戸時代の浮世絵師が「東京スカイツリ一を予知していた・・・かどうかは分からないが 驚くことに、来春開業の電波塔にそっくりの”謎の塔”が 隅田川を描いた風景画に残されていた。作者は、大胆な構図や奇抜な発想で人気の浮世絵師歌川国芳(一七九七~一八六一年)。百八十年前の空の下にそそリ立つ尖塔のミステリーを追った。
 
(川崎支局・酒井博章、中山洋子)
        
「数年前に作品を入手していたときは気にとめなかつたんです。でも今年一月、久しぶりに桐箱から取り出してみると「東京スカイツリー」にしか見えない塔が描かれていた。びっくりですよ」そう話すのは 浮世絵の中にスカイツリーを”発見”した収集家で川崎市で私設美術館「川崎・砂子の里資料館」を営む斎藤文夫氏(82)らだ。国芳の没後百五十年になる三月に企画展を予定していて、その準備中にピンときてしまったという。 注目の作品は、一八三一(天保二年)ごろに描かれた「東都三ツ股の図」。 
   
隅田川の中州から深川方面を眺望する構図で手前の中州では船底を焼く様子が描かれ、右手に永代橋、その奥には無数の千石船が係留された佃島が見える。対岸の左手で小名木川とみられる支流には橋がかかる。その橋のたもとにそびえる二塔のうち、低い方は火の見櫓だが、右側のさらに高い塔が「スカイツリー」にそっくりなのだ。斎藤氏は「国芳は、スカイツリーの登場を予言してたんでしようかと面白がるが、本当は何なのか。
<以下略>
※上記の東京新聞の記事で省略した部分は、<続きを読む>に、掲載します。
        
 図書館で情報を入手後、駅で東京新聞を購入し、この絵が描かれた場所に向いました。隅田川の三ツ股は現在は埋め立てられて同じ場所を撮影することは不可能ですが、この絵と似たような景色が撮影出来る場所を探しました。そこは、意外にも永代橋・西詰上流側のミニ公園のようになっている場所でした。
        
左:東京スカイツリー、右:永代橋(永代橋西詰から撮影)、パノラマ合成写真
#04永代橋西詰からパノラマ.jpg
        
東京スカイツリーをやや拡大
#05永代橋西詰から東京スカイツリーを望む.jpg
※手前の船は、産業廃棄物運搬のハシケ(帰り船)
        
帰り道の錦糸町駅構内から見た東京スカイツリー。
#06錦糸町駅構内から東京スカイツリーを望む.jpg
        
国芳の描いた塔に関し、この辺りの地下水は塩分を含んでいるので井戸掘りのための櫓では無いとする説もありますが、きたろうはやはり井戸掘りのための櫓説を支持します。浅い井戸では、塩分が混じるので深い井戸を掘ろうとするが故に、このような高い櫓が必要だったのだと思います。
                
注:続編(2)(3)が出来ましたので、本編を(1)としました。
本文END
        
写真1・・・2011/02/22 13:31撮影(パノラマ合成写真)
写真2・・・同 13:31撮影
写真3・・・同 14:12撮影
    
<以下東京新聞記事・・・前半部分で紹介出来なかった部分>
    
<<中見出し=ホンモノをスケッチ「空想ではない」>>
「もっと知りたい歌川国芳」(東京美術刊)の著作がある国芳収集家で洋画家の悳(いさお)俊彦氏(七五)「東都名所シリーズは国芳が向島に住んでいた三十代ごろ、近くを散歩しながらスケッチした作品群。空想の産物ではなくホントに見えたものを書いているはず」と話した。 
 浮世絵研究で著名な慶應大の内藤正人准教授(美術史)も「お金を出して買う浮世絵に江戸っ子が納得できないものは描かれない」と説明する。 
では、何かが見えたのか。
 
 隅田川の「三ツ股」と呼ばれたのは、「日本橋中洲」の地名が残る隅田川西岸の東京都中央区あたり。浮世絵のコピーを手に周辺を歩いてみた。 
 永代橋の両岸は遊歩道として整備されていた両岸ともビルか林立し、その間にスカイツリーが見える。川の蛇行のせいで日本橋側にあるように見えたり、ビル陰に隠れたりする。散歩中の近くの男性(七○)にスカイツリーが描かれている浮世絵かあるんですよ」と話し掛けた。「まさか」と笑い飛ばされたが、コピーを見せると「本当だ。小思議」と感心しきりだった。
 
<<大見出し=異才180年前に予言か>>
<<中見出し=「井戸掘りの櫓」など諸説」>>
    
その勢いで、東京向島にある事業主体の「東武タワースカイツリー」にも訪ねた。「ツリー計画は百八十年前からあったのか」と聞いてみると、広報宣伝担当の高橋正至さん(二六)は笑いながら「実際に動きだしたのは二〇〇五年二月です。」だが、浮世絵の塔の先端部分がデジタル放送のためのアンテナ用鉄塔にそっくりと感嘆。「見事に再現ざれてますね」と驚いていた。さらに、脇の火の見櫓も一緒に建造中の商業ビルにみえるといい風景的には浮世絵と同じようになるのかな」とも。高橋さんは「昔の人からの遺伝子を 受け継いで、この地に建てているみたいですね」と感動していた。 
 「この辺りで高い塔と言うと、回向院の相撲櫓でしようか」とは、江東区深川江戸資料館の久染建夫氏。寺社の修復のための「勧進相撲」が回向院で毎年聞かれ、国芳と同じ時代に活躍した歌川広重も名所江戸百景で回向院の相撲櫓を題材にしている。「江戸の人々は相撲櫓が組まれるのを眺めて「そろそろ場所が始まるんだな」と季節を感じて いた。でも、相撲櫓は五~六メートルで、約九メートルあった火の見櫓よりは低い。こ の絵だと高さは逆になりますね」と首をひねる。
 一方、前出の悳(いさお)氏は「井戸掘りの櫓ではないか」と推測する。実は井戸掘りの櫓説を挙げる人は多い。江戸東京博物館(東京都墨田区」の我妻直美氏も「個人的な想像ですが」と前置きして、葛飾北斎の作品に残る井戸掘りの櫓と、この作品の「櫓」の組み方が似ていること指摘する。北斎の富嶽三十六景の「東都浅草本願寺」にも凧と同じくらい高く天にそびえる井戸掘りの櫓が描かれているという。 
 ただ 「埋め立て地の深川で真水が出るんだろうか」と懐疑的な見方の研究者もいる。 謎は尽きないが、とりあえずは「世界一」に迫る電波塔を見上げて、江戸の昔に思いをはせたい。
 
<<デスクメモ>>
国芳の絵を見て度肝を抜かれた。大胆な発想、構図、色づかい、と到底大昔の作品とは思えない。現代のアニメや劇画の源流を見る人も多いそうだから、欧米で人気沸騰もそのせいだろう。そこでSFファンは妄想を楽しむ。「希想の絵師」は現代の技法を知っていたのでは もちろんあの塔も・・・  (充)
<<日本画:国芳の肖像画>>
<<同上・肖像画のキャプション>>
『歌川国芳を描いた「国芳死絵」(落合芳幾、1861年)=悳俊彦氏所蔵』
<<写真:三囲神社から見える東京スカイツリーを写した写真>>
<<同上・写真のキャプション>>
「国芳の墓碑がある三囲神社境内。スカイツリーのお膝元だ=東京都墨田区で
    
<<中見出し:「番傘ミステリーも」>>
<小見出し:描かれた数字 没年と一致>
 
歌川国芳は、活躍した江戸後期より、むしろ現代にファンを増やしている異色の浮世絵師だ。役者絵で知られた師匠の初代豊国や兄弟子の人気に押されて下積み時代も長かった。三十歳ごろに水滸伝ブームに乗り、豪傑を描いた武者絵が大ヒット。作品を下絵に全身に刺青を彫る人々が続出した。
 江戸・日本橋生まれだが、三十~四十代ごろに向島に住んでいて、ゆかりの三囲神社には没後に門人や友人らが建てた墓碑も残る。数少ない風景画は、この向島時代に描いたとみられる。
 ちゃきちゃきの江戸っ子で、ぜいたくを禁じる天保の改革などに反発。政府を風刺した作品で発禁処分もしばしば受けた。禁令が多かっただけに、本当の意味を隠した判じ絵も多い。むしろそんな仕掛けを楽しみ、自画像さえも思わせぶりな後ろ姿が多いのだという。
 
 ちなみに、好事家がひそかに楽しんでいる国芳ミステリーの一つに「番傘に描かれた没年」がある東都名所シリーズの東都御厩(おんまや)川岸之図で 貸し番傘に描かれた「千八百六十一番」が 西暦で数えた国芳の没年に一致するという 謎解きにゆかりの深い絵師なのだ 
<<絵=番傘を左手で差している男の絵。男は番傘を斜に差しているため、上三分の一身は番傘に隠れて見えない。又、男は右手で番傘3本を抱え持っている。>>
<<同上・絵のキャプション>>
「西暦の没年と同じ千八百六十一番」と記された番傘「東都御厩川岸之図」より(川崎・砂子の里資料館所蔵)」 END
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お水番

私のブログのほうにコメントをありがとうございました。
さっそく、こちらの記事、拝読いたしました。
いやあ、おもしろいですね。
すぐさま、浮世絵の視点場近くにいらして撮影された写真を公開してくださり、ありがたいことです。
私は昨日、東京新聞の現物を入手できませんでしたので、本文の中に何が書かれているのかわからないまま、とりあえず、地図で方向を確認しました。国芳の絵は、ずいぶんと広角アングルで、ちょうどパノラマ写真のような視界を一枚の紙の中に収めたのだなあと思いました。
きたろうさんのパノラマ写真でそれが実感できました。

井戸掘りのための櫓説、なるほどと思いました。
私のブログから、こちらの記事を紹介させていただきたいと思います。
by お水番 (2011-02-23 14:45) 

きたろう

お水番さん、nice!&コメントありがとうございました。
井戸掘りのための櫓説は、きたろうの素人の全くの推測です。
しかし、江戸時代は、お上の規制が厳しいので、このように高く且つ、恒久的な建造物は許可されないと思います。井戸掘りの櫓であれば、工事期間だけですので、かなり高い塔でも許可になったのだと思います。
by きたろう (2011-02-24 11:45) 

お水番

コメントをどうもありがとうございました。
お手数をおかけして恐縮です。
全部読めました。貴重な情報です。
いろいろ調べてみると、江戸時代の火の見櫓の高さは9メートルほど。
また、問題の尖塔はその倍ちょっとのようですが、井戸掘りのための櫓で大坂堀りと同様の工法を調べてみると、櫓は組み立て式で高さ20メートルほど、掘れる深さは30メートルほどだったという記述を見つけました。
隅田川東岸の深川あたりに、井戸堀りのための櫓がたてられていたとすると、火の見櫓との比率も合います。
江戸時代、隅田川の西岸は神田上水や玉川上水から引いた「水道」を井戸状の枡から汲み上げて暮らしの水にしていたようですが、上水の恩恵のなかった隅田川東岸では、打ち抜き井戸を暮らしの水に使っていたようです。ただ、30メートル以下では、水質は必ずしも良くはなく、飲み水は水屋といわれる水売りから買っていたようです。
国芳が住んでいた向島あたりも、水事情は同じでしょう。
井戸堀りのための櫓を、庶民の暮らしぶりを象徴したものとして、高さをかなり誇張して描いたのではないかと推察しています。

by お水番 (2011-02-24 12:33) 

きたろう

お水番さんありがとうございます。
塔の高さの数字的データーからの推測、説得力あります。大納得です。すっきりしました。
by きたろう (2011-02-24 13:05) 

三番星

はじめまして。
こうした芸術作品には『予言』めいた要素があるようですね。タイタニック号の遭難の十数年前に、事件とそっくりな内容の小説がかかれていたそうです。
あと、絵の右手のほうにも高い塔のようなものが描かれているのに気がつかれましたか?今の地理でいえばどのあたりでしょうか?
by 三番星 (2011-03-04 21:49) 

きたろう

三番星さんコメントありがとうございました。
国芳は、この絵の他にも、予言めいた浮世絵を描いています。「番傘に描かれた没年」ともいうべき絵で、東都名所シリーズの東都御厩(おんまや)川岸之図という絵の中の男が差している貸し番傘に描かれた「千八百六十一番」が 西暦で数えた国芳の没年と一致するという絵です。以前から、国芳マニアの間では、国芳ミステリーの一つとして知られていた事実です。 
画面の右手の方については、2月22日の東京新聞に「右手には永代橋、その奥に無数の千石船が係留された佃島が見える。」とあるので、搭のように見えるのは、千石船の帆柱と思います。現在は、この辺りに、帆柱に替って高層の住宅が林立しています。
by きたろう (2011-03-05 08:45) 

きたろう

4月25日きたろう補足:
東京新聞2月22日分記事で省略した部分を、本日<続きを読む>に掲載致しました。
by きたろう (2011-04-25 11:17) 

熊公

初めまして。
スカイツリーと三ツ股の件についてこちらの記事が大変お詳しいので参照サイトとしてブログからリンクさせていただきました。
事後報告となってしまいましたが宜しくおねがいいたします。
by 熊公 (2011-05-09 06:39) 

今日子センセ

Facebookでシェアさせていただきました。
大変参考になりました。ありがとうございます。
BS朝日で、この内容が、2012年1月にとりあげられたそうです。

by 今日子センセ (2012-02-05 08:03) 

しまふくろう

 国芳でたどり着きました。
はからずも住んでいる長野市の隣、須坂市の「田中本家」で国芳の描く
木曽路が公開になっています。
 やはりダジャレで地名と絵柄をかけてあり、なかなかおもしろいです。
 他の作品も見てみたくなりました。ありがとうございました。
by しまふくろう (2012-04-16 21:20) 

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