第5回(下) 「亀戸梅屋舗(うめやしき)」を探査する(2) [広重・名所江戸百景]

2010/3/24(水)アップ

亀戸梅屋敷にあやかった屋号持つお蕎麦屋さん「旬香庵・前野屋」(脚注)で昼食をとることにしました(3月12日)。店内は、広重が描いたいろいろな梅屋舗の浮世絵が数点飾ってありました(初代広重&二代目広重)。店頭の看板によると、絵は全部本物だそうです。(写真#17)

#17広重・亀戸梅屋舗(前野屋所蔵).jpg

注)写真は実写ですが、写真は各々トリミングした上で、再配置してあります。


写真#17の右の絵は二代目広重が描いた「東都三十大景・亀戸梅やし紀」(1862年)ですが、この絵だと臥龍梅の全体が描かれていて、まさに龍が臥した梅(の木)とはどういう状態なのかが判ります。臥龍梅とは、前回紹介した石碑の文面によると「龍が臥したように枝がたれて地中に入りまたはなれて幹となる梅・・・」(全文は後掲)ということだそうです。また、左の絵は、天保3~5年に描かれた東都名所亀戸梅屋舗全図(三枚続き)ですが、この絵では梅屋敷の全体が良く分かります。この絵には、なにやら文字が書かれています。但し、店内で実写した絵では不鮮明なので別ソースの鮮明な絵を拡大して見ました。(絵#18)

#18亀戸梅屋舗全図(東都名所).jpg

※クリックすると画像は拡大表示されます。

絵の右上の「吾妻ノ森」は現在の地図(図#19)でいうと「吾嬬神社」でまず間違いないと思います。左上の「栄橋」は、現在の地図では「境橋」に相当すると推察出来ます。以上のことから、この絵は梅屋敷を南側から見た絵ということになります。この絵には、90数名の人が描かれています。大体は、裕福そうな町人の男女と思われます。俳人・文人墨客のような感じの人もいます。門のあたりには馬とその馬から降りたと思われる武士の姿が見えます。門を入ってすぐの井戸のそばに子供の姿も見られます。当然、梅の木もありますが、どれが広重が描いた臥龍梅かはわかりませんでした。 昼食を終えてから、引き続き梅屋敷の名残りを求めて梅屋敷跡の探査することとし、まず、梅屋敷跡の南西にあたる普門院に行きました。(地図#19、写真#20、#21)

#19亀戸3丁目撮影ポイント.jpg

#20普門院・本堂.JPG
#21普門院(イ).JPG
この寺の門前に、「伊藤左千夫の墓の碑」があります。(#22)
#22伊藤左千夫の墓の碑.JPG
伊藤左千夫は元治元年(1864年)生まれで、大正2年(1913年)死去しており、梅屋敷が存在した時代に生きていました。彼は、今の錦糸町駅付近で搾乳業を営むかたわら歌道、茶道をたしなんでいたとのことです。当然梅屋敷にもおとずれていたと思われ、ネットで調べましたが、梅屋敷で歌を詠んだまたは梅屋敷に関する歌を詠んだといような、接点は見いだせませんでした。  この後、梅屋敷跡の中心部の探査を行いました。梅屋敷の跡地は、現在低層住宅の密集地で、細い路地が通っています。(写真#23)
#23現在の亀戸梅屋敷跡.jpg
梅屋敷跡の路地をほぼ隈なく歩きましたが、梅屋敷の痕跡、名残またはゆかりのものは何も見つかりませんでした。庭に、梅の木がある家が数軒あっただけでした。どの家の梅もほぼ満開でした。(写真#24、25、26)
#24亀戸の梅の木(ア).jpg
#25亀戸の梅の木(イ).JPG
#26亀戸の梅の木(ウ) .JPG
結局、亀戸の梅屋敷を偲ぶものは、江東区が設置した石碑と江東区教育委員会の史蹟の説明板と梅屋敷の別名「清香庵」にあやかった屋号のお蕎麦屋さん「旬香庵・前野屋」があっただけでした。 さて、このブログのテーマ「広重と同じ視点で写真を撮る」ですが、今回は、臥龍梅がどこにあったのか特定できないので撮ることは出来ませんでした。たまたま行った市川市北部の梅園に臥龍梅と枝ぶりが似た梅の木がありましたので、その写真を掲載致します。(#27)
#27臥龍梅に似た梅の木.JPG
ここは農家の梅園で、梅の実を取るのが目的のため、花が咲く時期のみ一般公開している梅園です。  最後に、梅屋敷を撮影した古写真を掲載いたします。(写真#28、29)
#28亀戸梅屋敷(明治41年頃).jpg
#29亀戸梅屋敷(大正8年).jpg
写真#28は、明治41年頃の撮影で大洪水の前の梅屋敷の写真です。#29は大正8年頃の撮影で大洪水後写真です。梅の木は全く生気が無いように見えますが、大正になってからは洪水の影響と近隣の工場の煙害のダブルパンチでだんだん衰弱していったと思われます。教育委員会の説明板では、明治43年に梅屋敷は廃園になったとされていますが、大正末年に廃園になったと書いてある文献もあります(脚注)。両者の記述を尊重すると、「明治43年に大洪水で臥龍梅は枯れ、その他の梅も大分枯れてしまいました。梅の木も大分枯れてしまったので、梅屋敷も一般公開はやめてしまいました。以降、残った梅の木で梅の実を細々と採取していましたが大正期になって近隣の工場の煙害で、残った梅の木も枯れてきてしまったので、大正末年に完全に廃業してしまいました。」と言うのが、私の推測ストーリーです。
 一昨日(3月22日)、東京の桜の開花発表がありました、梅の話は「お後がよろしいようで」と言うところでおしまいにします。
  
<広重の絵>
・名所江戸百景の内「亀戸梅屋舗(春30景)」初代広重画、安政四年(1857年)
・東都三十大景「亀戸梅やし紀」二代目広重画、文久二年(1862年)
・東都名所「亀戸梅屋舗全図(三枚続き)」初代広重画、天保三~五年(1832~1834年)
<梅屋敷跡・訪問日>平成22年3月12日(金)
<梅屋敷跡の碑の場所>
東京都江東区亀戸3丁目51番10号浅草通り歩道の植え込みの中。
<梅屋敷跡の碑の全文>
この付近は江戸時代地主喜右衛門が庭に梅を植えて梅屋敷あるいは清香庵と称し観光行楽地として知られその園内に龍が臥したように枝がたれて地中に入りまたはなれて幹となる梅の名木がありかつて水戸光圀が臥龍梅と命名したと伝えられていたが明治四十三年の水害により臥龍梅は枯れ廃園になった
昭和三十三年十月一日
江東区第十四号
※原文のまま
<梅屋舗の跡地> 住所:江東区亀戸3丁目40、50、51、52、53番(江東区教育委員会による)
<梅屋敷にあやかった蕎麦屋> 店名:旬香庵・前野屋、住所:江東区亀戸3-23-10
<伊藤左千夫の墓の碑の文>(碑は普門院の門前左側にある)
伊藤左千夫は元治元年千葉県に生まれ今の墨田区錦糸町駅付近で牛乳採取業を営むかたわら歌道茶道をたしなみ正岡子規の門人となりアララギ派の歌人として小説歌論にも著作を残したが晩年は大島町六丁目に住し大正二年七月三十日五十歳にて死去し普門院に葬られた
昭和三十三年十月一日
江東区第十六号
<引用文献>
色刷・明治東京名所絵(井上安治画)木下龍也編、角川書店/昭和56年11月発行
「永く市民に愛好された臥龍梅は明治四十三年(一九一〇)の東京大洪水で枯れ、大正末年には工場の煙害により梅屋敷も廃園になった。」
  
訪問頂きましてありがとうございます。次回は、桜関連の話を予定しています。なるべく早くアップしたいと思いますので宜しくお願い致します。

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