第17回、増上寺塔赤羽根(とうあかばね)(夏53景) [広重・名所江戸百景]
2011/10/16(日)アップ
2011/09/28(水)取材
前回(第16-3回)増上寺三門一般公開で、この三門の二階部分に入場した話をしましたが、この入場の前に、江戸時代にあった、増上寺の五重の塔があった場所を取材しました。
まず、絵の題字の説明ですが、塔はもちろん絵の右半分に描かれた。五重の塔のことです。
赤羽根は絵の左側のあたりの当時の地名です。塔の左に描かれている橋は赤羽根橋です。現在、赤羽根の地名は残っていませんが、橋の名前(赤羽橋)と交差点名(赤羽橋交差点)にその名を留めています。
塔の左側の川は古川で、現在はこの川の上に、高速道路・都心環状線が作られています。
#00 増上寺塔赤羽根(広重画)
赤羽根橋の左側にある交番の様な建物は、辻番所です。更に左の武家屋敷は九州久留米藩主有馬中務大輔(なかつかさたいふ)の上屋敷です。この屋敷内の岡の上に江戸で一番高い火の見櫓が作られていました。火の見櫓と五重の塔の間に見える、白い幟(のぼり)は、水天宮の幟です。この水天宮は明治5年に人形町に移転しました。
さて、この絵の五重の塔ですが、これは文化三年(1806年)に再建されたものです。元々は、江戸初期に初代の大老・姫路の酒井雅楽頭(うたのかみ)が建立しました。
この塔は、増上寺の南側にある、前方後円墳・丸山古墳の前方部上に建っていました。
(#01の五千分一東京図参照)
この五重の塔は、昭和20年5月25日の夜の空襲で焼け落ちてしまい、それっきりで再建はされませんでした。
というわけで、この塔の現在の写真はありませんが、この近辺の主要スポットの写真を紹介します。
#01、江戸期と明治時代と現代の地図比較
現代の地図上の、#02~#09は、各写真№の撮影場所と方向です。
※画面上をクリックすると拡大表示になります。(他の写真でも同様です)
#02、芝公園内の川
現在、ここは芝公園になっていますが、江戸時代はこの辺まで増上寺の境内でした。
また、戦前までは、この川の先の方向に五重の塔がありました。
#03、銀世界の梅
江戸時代に「梅屋敷銀世界」と呼ばれていた梅林で、西新宿三丁目(東京ガス敷地内)にありました。昭和41年にここに移植されました。
#04、丸山古墳(前方後円墳の前方部分の下の辺り)
全長106mの丸山古墳。都内最大級の古墳で、5世紀代の築造と考えらるものです。ここは古墳の中の前方部分で、戦前までこの上に五重の塔が建っていました。
#05、丸山古墳・後円部分(から南東方向を望む)
後円部は、標高約16mであり、後円部の北寄りの所に「伊能忠敬測地遺功表」があります。
写真は、この遺功表の上に上がって撮影しました。
#06 東照宮
(詳細未取材)
#07、惣門
(詳細未取材)
#08、天然記念物・増上寺のカヤ
樹高25m以上のこのカヤの木は推定樹齢600年とのことです。増上寺には、このカヤに関する記録は特に無いとのことです。江戸期の地図で、この付近に相当する位置に「飯倉茅天神」というのがありますが、このカヤの木と関係があるのかどうか?これは不明です。
東京都港区の指定文化財でもあります。
#09、増上寺本堂
増上寺は浄土宗で、江戸時代は徳川家の菩提寺として、幕府の手厚い保護を受けました。この本堂は昭和20年(1945年)5月の空襲により焼失し、昭和49年に地上三階、地下1階・鉄筋コンクリート建てで再建されました。本尊の阿弥陀如来像は2階にお祀りしてあります。
因みに増上寺の寺紋は、徳川家と同じ三つ葉葵の御紋です。
#10、芝公園内の川(平成11年撮影)
写真#02と同様場所で12年前の平成11年5月25日(火)に撮影した写真です。
以前は、きれいな水が流れていました。今思えば、この日は、奇しくも、この辺りが空襲を受けた日だったんですね。その時は、何も感じませんでしたが・・・
2011/09/28(水)取材
前回(第16-3回)増上寺三門一般公開で、この三門の二階部分に入場した話をしましたが、この入場の前に、江戸時代にあった、増上寺の五重の塔があった場所を取材しました。
まず、絵の題字の説明ですが、塔はもちろん絵の右半分に描かれた。五重の塔のことです。
赤羽根は絵の左側のあたりの当時の地名です。塔の左に描かれている橋は赤羽根橋です。現在、赤羽根の地名は残っていませんが、橋の名前(赤羽橋)と交差点名(赤羽橋交差点)にその名を留めています。
塔の左側の川は古川で、現在はこの川の上に、高速道路・都心環状線が作られています。
#00 増上寺塔赤羽根(広重画)
赤羽根橋の左側にある交番の様な建物は、辻番所です。更に左の武家屋敷は九州久留米藩主有馬中務大輔(なかつかさたいふ)の上屋敷です。この屋敷内の岡の上に江戸で一番高い火の見櫓が作られていました。火の見櫓と五重の塔の間に見える、白い幟(のぼり)は、水天宮の幟です。この水天宮は明治5年に人形町に移転しました。
さて、この絵の五重の塔ですが、これは文化三年(1806年)に再建されたものです。元々は、江戸初期に初代の大老・姫路の酒井雅楽頭(うたのかみ)が建立しました。
この塔は、増上寺の南側にある、前方後円墳・丸山古墳の前方部上に建っていました。
(#01の五千分一東京図参照)
この五重の塔は、昭和20年5月25日の夜の空襲で焼け落ちてしまい、それっきりで再建はされませんでした。
というわけで、この塔の現在の写真はありませんが、この近辺の主要スポットの写真を紹介します。
#01、江戸期と明治時代と現代の地図比較
現代の地図上の、#02~#09は、各写真№の撮影場所と方向です。
※画面上をクリックすると拡大表示になります。(他の写真でも同様です)
#02、芝公園内の川
現在、ここは芝公園になっていますが、江戸時代はこの辺まで増上寺の境内でした。
また、戦前までは、この川の先の方向に五重の塔がありました。
#03、銀世界の梅
江戸時代に「梅屋敷銀世界」と呼ばれていた梅林で、西新宿三丁目(東京ガス敷地内)にありました。昭和41年にここに移植されました。
#04、丸山古墳(前方後円墳の前方部分の下の辺り)
全長106mの丸山古墳。都内最大級の古墳で、5世紀代の築造と考えらるものです。ここは古墳の中の前方部分で、戦前までこの上に五重の塔が建っていました。
#05、丸山古墳・後円部分(から南東方向を望む)
後円部は、標高約16mであり、後円部の北寄りの所に「伊能忠敬測地遺功表」があります。
写真は、この遺功表の上に上がって撮影しました。
#06 東照宮
(詳細未取材)
#07、惣門
(詳細未取材)
#08、天然記念物・増上寺のカヤ
樹高25m以上のこのカヤの木は推定樹齢600年とのことです。増上寺には、このカヤに関する記録は特に無いとのことです。江戸期の地図で、この付近に相当する位置に「飯倉茅天神」というのがありますが、このカヤの木と関係があるのかどうか?これは不明です。
東京都港区の指定文化財でもあります。
#09、増上寺本堂
増上寺は浄土宗で、江戸時代は徳川家の菩提寺として、幕府の手厚い保護を受けました。この本堂は昭和20年(1945年)5月の空襲により焼失し、昭和49年に地上三階、地下1階・鉄筋コンクリート建てで再建されました。本尊の阿弥陀如来像は2階にお祀りしてあります。
因みに増上寺の寺紋は、徳川家と同じ三つ葉葵の御紋です。
#10、芝公園内の川(平成11年撮影)
写真#02と同様場所で12年前の平成11年5月25日(火)に撮影した写真です。
以前は、きれいな水が流れていました。今思えば、この日は、奇しくも、この辺りが空襲を受けた日だったんですね。その時は、何も感じませんでしたが・・・
2011-10-16 14:10
nice!(2)
コメント(0)
コメント 0