おかね塚(下) [きたろう散歩]
取材日、2019/05/26(日)
アップ日、2019/07/11(木)
3月6日、市川市押切12-31(前)の6差路にある史跡おかね塚を通りがかりに取材しました。そこには「行徳おかね塚の由来」という石碑がありましたが、それをてっきり「おかね塚」と誤認したまま前回ブログ・アップしてしまいました。
今回、改めて、この史跡を取材しました。
#01、市川市押切の6差路の西端にあるおかね塚
#02、石碑「行徳おかね塚の由来」
この石碑は、「ここに『おかね塚』が作られました。」という説明板ですが、「この一角のどこにおかね塚があるか」というようなことは書いてありませんでした。
この、由来碑の後方には、ブロック塀で囲われた中に、墓石や石仏がありました。
この取材の前に、WEBで若干調べたところ、「おかね塚は庚申塔」であるという記述が見られた。しかし、庚申塔がなんであるか良くわからないまま現地に行き、この一角にある、墓石、石仏を写真におさめました。
#03、石仏と複数の墓石
#04、墓所中央にある墓
#05、中央の墓は廣瀬家の墓
#06、廣瀬家の墓右後方の複数の墓石
#07、廣瀬家の墓左後方の複数の墓石
#08、墓所、左手前にある石仏
#09、石仏頭部
#10、石仏上半身
#11、石仏下半身
これらの石仏、墓石には、いろいろ文字が書いてあるので、判読を試みましたが、墓石(中央の墓石除く)は苔むして、全く文字が見えませんでした。石仏にも、いろいろ文字が書いてありましたが、不鮮明で、判読は即、断念しました。
さて、これらの、墓石、石仏のどれがおかね塚なのか?ということであるが、この由来碑によれば、おかねさんのために墓を建てたように読み取れるし、ネットの情報では、庚申塔であると言うことだし、さっぱり見当がつきませんでした。
取材日の二日後の5月28日に、たまたま郷土史の講座があったので、講師の方に、これらの写真を提示しながら、お話を伺ったところ、この左手にある石仏が庚申塔で、おかね塚と呼ばれているということや、この由来碑にある粗朶とは製塩に使うための薪であること、また、碑文を書いた綿貫喜郎氏は、数年前にお亡くなりになったことなどを教示していただきました。
ただ、きたろうが疑念をもった、この由来碑の文章の信憑性については、はっきりした見解は、示して頂けませんでした。
この後、ネット上で、やや詳しく検索して見ましたが、ネット上の情報は、自身で調べたという情報はなく、何らかの情報の孫引きで、もやもや感が残りました。
6月14日、市川中央図書館に行き、綿貫喜郎氏、宮崎長蔵氏共著の「行徳物語」を当たったところ、第3章「今と昔」に「おかね塚とお経塚」という項目があり、おかね塚についての言及がありました。(この部分の文章は、末尾に掲載)
由来碑を書いた綿貫喜郎氏(宮崎長蔵氏共著)の著書でも、この石仏が、おかねさんの朋輩がお金を出しあって建てたものというより、「地元の伝承としてこのようなことが伝わっている」というような書き方で、史実であるとの判断は避けているように感じました。
#12、おかね塚由来碑の背面
#13、おかね塚由来碑の背面の拡大
由来碑は、おかねさんの悲運を哀れんで供養してきた地元の方々の伝承を後世に伝えるため、地元の有志によって昭和51年6月に建てられました。
信憑性が疑問視されるような伝承にこんな立派な由来碑を作ってしまうという、有志の方々に感心せざるを得ませんでした。
本文END
宮崎長蔵・綿貫喜郎共著「行徳物語」※、第3章 今と昔、「おかね塚とお経塚」より
◆おかね塚とお経塚◆
行徳には、江戸時代初期の石造物がかなり残されている。その中でも押切にある《おかね塚》と新井にある《お経塚》には、それぞれ伝説が結びつけられ、人びとに語り継がれてきた。
押切には船だまりがあって、五大木とよばれる小さな漁船の溜り場となっていた。ここには江戸時代の中ごろから、製塩に使われる燃料の粗朶(薪)が上総方面から運ばれ、定期的に五大力船とよぶ荷物の輸送船が停泊するようになった。
このことを伝え聞いた吉原の遊女たち百余人は、かねの純情な気持ちを哀れみ、わずかずつの金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちも、この薄幸なかねのために花や線香を供え、これを《おかね塚》と名づけて今日まで供養を続けてきた。
しかし、このように人びとに語り伝えられてきた《おかね塚》の碑だが、はたしてこれは、本当に遊女かねのために建てられたものだろうか?
実は、この碑は、今から三百十数年前の寛文五年十月十五日に建てられたもので、押切部落の人たちによる庚申信仰のための庚申塔だったのである。
舟形の光背に如来像を彫り出した実に立派な石像で、その下部周辺には百余名の名前が刻まれている。その名前も、片仮名で彫った女の名前が目立っているところから、おそらく遊女百余人の伝説が生まれてきたものだろう。とにかく、船頭と遊女にまつわる話が数ある中でも、悲恋に終わった純情な遊女かねのことは、強く村びとの心をとらえたできごとだったに違いない。それがいつしか、女性の名前がたくさん彫られた庚申塔と結びついて、今日まで供養されて来たものと思われる。
真実はともかくとして、地下鉄東西線の出現とともに、行徳も新しく生まれ変わった今日では、もはや、この話を知る人も少なくなった。やがては人びとの心の中からも消え去る運命にあったが、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝え供養をしてきた人たちの心を後世に残そうと、このほど地元有志によって改めて「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建てられた。
※昭和52年10月15日初版発行、発行所 市川新聞社、発売元飯塚書房 東京都千代田区神田神保町
<再掲>郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
●訂正&補足
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
前回、「おかね塚(上)」で記述した「行徳おかね塚の由来」の10行目
『待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□』の□□部分は、「乞う」であることが判明しました。
また、碑文の末尾の署名が前回では、
「綿貫喜郎」となっていましたが、正しくは「綿貫喜郎誌」で、訂正いたします。
アップ日、2019/07/11(木)
3月6日、市川市押切12-31(前)の6差路にある史跡おかね塚を通りがかりに取材しました。そこには「行徳おかね塚の由来」という石碑がありましたが、それをてっきり「おかね塚」と誤認したまま前回ブログ・アップしてしまいました。
今回、改めて、この史跡を取材しました。
#01、市川市押切の6差路の西端にあるおかね塚
#02、石碑「行徳おかね塚の由来」
この石碑は、「ここに『おかね塚』が作られました。」という説明板ですが、「この一角のどこにおかね塚があるか」というようなことは書いてありませんでした。
この、由来碑の後方には、ブロック塀で囲われた中に、墓石や石仏がありました。
この取材の前に、WEBで若干調べたところ、「おかね塚は庚申塔」であるという記述が見られた。しかし、庚申塔がなんであるか良くわからないまま現地に行き、この一角にある、墓石、石仏を写真におさめました。
#03、石仏と複数の墓石
#04、墓所中央にある墓
#05、中央の墓は廣瀬家の墓
#06、廣瀬家の墓右後方の複数の墓石
#07、廣瀬家の墓左後方の複数の墓石
#08、墓所、左手前にある石仏
#09、石仏頭部
#10、石仏上半身
#11、石仏下半身
これらの石仏、墓石には、いろいろ文字が書いてあるので、判読を試みましたが、墓石(中央の墓石除く)は苔むして、全く文字が見えませんでした。石仏にも、いろいろ文字が書いてありましたが、不鮮明で、判読は即、断念しました。
さて、これらの、墓石、石仏のどれがおかね塚なのか?ということであるが、この由来碑によれば、おかねさんのために墓を建てたように読み取れるし、ネットの情報では、庚申塔であると言うことだし、さっぱり見当がつきませんでした。
取材日の二日後の5月28日に、たまたま郷土史の講座があったので、講師の方に、これらの写真を提示しながら、お話を伺ったところ、この左手にある石仏が庚申塔で、おかね塚と呼ばれているということや、この由来碑にある粗朶とは製塩に使うための薪であること、また、碑文を書いた綿貫喜郎氏は、数年前にお亡くなりになったことなどを教示していただきました。
ただ、きたろうが疑念をもった、この由来碑の文章の信憑性については、はっきりした見解は、示して頂けませんでした。
この後、ネット上で、やや詳しく検索して見ましたが、ネット上の情報は、自身で調べたという情報はなく、何らかの情報の孫引きで、もやもや感が残りました。
6月14日、市川中央図書館に行き、綿貫喜郎氏、宮崎長蔵氏共著の「行徳物語」を当たったところ、第3章「今と昔」に「おかね塚とお経塚」という項目があり、おかね塚についての言及がありました。(この部分の文章は、末尾に掲載)
由来碑を書いた綿貫喜郎氏(宮崎長蔵氏共著)の著書でも、この石仏が、おかねさんの朋輩がお金を出しあって建てたものというより、「地元の伝承としてこのようなことが伝わっている」というような書き方で、史実であるとの判断は避けているように感じました。
#12、おかね塚由来碑の背面
#13、おかね塚由来碑の背面の拡大
由来碑は、おかねさんの悲運を哀れんで供養してきた地元の方々の伝承を後世に伝えるため、地元の有志によって昭和51年6月に建てられました。
信憑性が疑問視されるような伝承にこんな立派な由来碑を作ってしまうという、有志の方々に感心せざるを得ませんでした。
本文END
宮崎長蔵・綿貫喜郎共著「行徳物語」※、第3章 今と昔、「おかね塚とお経塚」より
◆おかね塚とお経塚◆
行徳には、江戸時代初期の石造物がかなり残されている。その中でも押切にある《おかね塚》と新井にある《お経塚》には、それぞれ伝説が結びつけられ、人びとに語り継がれてきた。
押切には船だまりがあって、五大木とよばれる小さな漁船の溜り場となっていた。ここには江戸時代の中ごろから、製塩に使われる燃料の粗朶(薪)が上総方面から運ばれ、定期的に五大力船とよぶ荷物の輸送船が停泊するようになった。
こうした船の船頭や、人夫のなかには、停泊中に江戸の吉原(遊郭街)まで遊びに行く者もいた。そんな者たちのひとりが、かねという遊女と親しくなり、ついに夫婦の約束を交わしてしまった。
船頭との約束をかたく信じたかねは、年季が明けるとすぐ押切に来て、上総からたきぎを運んでくる船頭に会えるのを楽しみに、ひたすら持ちこがれていた。
しかし、いつまで持ってもその船頭は現われなかった。かねは蓄えたお金もすっかりつかい果たしてしまったが、それでも船頭がやって来るのを諦めず、村人たちに物乞いしながら、船だまりにある松の木蔭で待ち続けた。だが、かねもそのうち疲れ果ててしまい、ついにその松の木の下で帰らぬ人となってしまった。
このことを伝え聞いた吉原の遊女たち百余人は、かねの純情な気持ちを哀れみ、わずかずつの金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちも、この薄幸なかねのために花や線香を供え、これを《おかね塚》と名づけて今日まで供養を続けてきた。
しかし、このように人びとに語り伝えられてきた《おかね塚》の碑だが、はたしてこれは、本当に遊女かねのために建てられたものだろうか?
実は、この碑は、今から三百十数年前の寛文五年十月十五日に建てられたもので、押切部落の人たちによる庚申信仰のための庚申塔だったのである。
舟形の光背に如来像を彫り出した実に立派な石像で、その下部周辺には百余名の名前が刻まれている。その名前も、片仮名で彫った女の名前が目立っているところから、おそらく遊女百余人の伝説が生まれてきたものだろう。とにかく、船頭と遊女にまつわる話が数ある中でも、悲恋に終わった純情な遊女かねのことは、強く村びとの心をとらえたできごとだったに違いない。それがいつしか、女性の名前がたくさん彫られた庚申塔と結びついて、今日まで供養されて来たものと思われる。
真実はともかくとして、地下鉄東西線の出現とともに、行徳も新しく生まれ変わった今日では、もはや、この話を知る人も少なくなった。やがては人びとの心の中からも消え去る運命にあったが、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝え供養をしてきた人たちの心を後世に残そうと、このほど地元有志によって改めて「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建てられた。
※昭和52年10月15日初版発行、発行所 市川新聞社、発売元飯塚書房 東京都千代田区神田神保町
<再掲>郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
●訂正&補足
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
前回、「おかね塚(上)」で記述した「行徳おかね塚の由来」の10行目
『待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□』の□□部分は、「乞う」であることが判明しました。
また、碑文の末尾の署名が前回では、
「綿貫喜郎」となっていましたが、正しくは「綿貫喜郎誌」で、訂正いたします。
きたろう散歩・おかね塚(1) [きたろう散歩]
取材日、2019/03/06(水)
アップ日、2019/06/24(月)
皆様、大変ご無沙汰しております。
このたび、千葉県市川市行徳地区(注)にある、「おかね塚」という、ちょっと変った名前の「塚」について、取材と調査をしましたので、アップします。
(注:現在、市川市行徳という地名はありません(市川市行徳駅前、市川市南行徳の地名はあるが)。概ね、旧東葛飾郡行徳町の範囲を、便宜上、行徳地区と呼称します。)
この塚の存在を知ったきっかけは、行徳公民館の主催講座に出席するため、自転車で向かう際に、目標となる途中の目印がないかと探していたら、丁度自転車の経路で左折すべきところに「おかね塚」という史跡(的)なものがあるので、講座の前に立ち寄ったというのが、きっかけです。
#01、行徳公民館
2019年3月6日撮影(撮影:江戸川きたろう)
#02、「おかね塚」、「行徳公民館」近辺の地図
おかね塚は、市川市押切12-31(前)の6差路に建つ史跡で、Google Mapにも記載されています。
#03おかね塚?(説明表示石碑)
当初、この石碑が「おかね塚」と思い、この石碑を中心に写真を撮影しました。
行徳公民館で、講座を受講し、家に帰って、この碑文を読んでいたら、どうも、おかね塚そのものは、この石碑以外に、別に存在するようでした。
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
◆行徳おかね塚の由来◆
行徳の浜は古来塩業を以って榮えし処。押切の地また然り。
浜辺に昇る塩焼きの煙は高く五大木(船)の行き交う中に粗朶(薪)を
運べる大船の往来するもあり為に船頭・人夫の此の地に泊る
者また少なしとせず。
時に一船頭のしばしば此の地に來りて江戸吉原に遊びかね
と云える遊女と馴染む、船頭曰く年季を終えなば夫婦とな
らんと かね女喜びてその約を懐き歳を待つ、やがて季明
けなば早々に此の地に来りて船頭の至るを迎ふ。されど船頭
その姿を見せず。
待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□
に至るもなお此の地に留る。船頭への恋慕の情きが
故なり。 遥かに上総の山影を望みて此処松樹の下に果つ。
伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。
噫呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉 朋友の情の
篤きこと実に美なる哉。聞く者皆涙せざるはなし。里人の香
華を供えておかね塚と唱へしも時流れ日移りし今日その由知
る人ぞ少なし。
茲(ここ)に幸薄かりしかね女を偲びて永代供養のため古老の伝へ
る由来を誌して後世に伝えんとする者也。 綿貫喜朗
昭和五十一年六月吉日
注)□□・・・文字が風化により不鮮明で、解読できず。
最初、#03の写真を画像処理して文字が読めるような写真にならないかと試みましたが、このもくろみは果たせず、写真を拡大し、文章を解読した結果のテキスト文字(縦書き)を白黒反転し、石碑の写真と合成して、擬似的に、このもくろみを達成しました。
#04、おかね塚説明碑・文章レタッチ合成版
表示された文章は、合成です(レタッチ:江戸川きたろう)
さて、この石碑の文章を読んで、率直のところ、「本当かな?」という思いがしました。
前半の部分は、実際にあったこととしても違和感はありません。
しかし、後半の「伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。」との一節は、こんなことがありえるだろうか?という感想でした。
また、ここの一節で、おかね塚というのは、このときに建てられたという墓のことを指しているのではないかと気付きました。
この、碑文を書いた「綿貫喜郎」氏の名前には、こころあたりがありました。
郷土史研究家で、この方の講演を二度程聴いた記憶があり、自身の写真ファイルを調べたところ、ご本人を撮影した画像がありました。
#05、郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
注)綿貫喜郎氏の画像をWEB上で検索したところ、何枚かヒットしましたが、その画像(人物)は、綿貫氏に関連した方の画像で、ご本人のものではありませんので、ご注意ください。
綿貫喜郎氏は、残念ながら、数年前にお亡くなりになったそうです。
さて、それでは、「おかね塚」そのものはどれなのか?ということになりますが、おかね塚の説明石碑の後ろ側に、墓が並んでおり、この中のひとつがおかね塚と推定されました。しかし、この日は、墓の部分は、詳しく写真を撮っていなかったので、これ以上の探求は出来ず、再度取材を行うこととしました。
(続く)
アップ日、2019/06/24(月)
皆様、大変ご無沙汰しております。
このたび、千葉県市川市行徳地区(注)にある、「おかね塚」という、ちょっと変った名前の「塚」について、取材と調査をしましたので、アップします。
(注:現在、市川市行徳という地名はありません(市川市行徳駅前、市川市南行徳の地名はあるが)。概ね、旧東葛飾郡行徳町の範囲を、便宜上、行徳地区と呼称します。)
この塚の存在を知ったきっかけは、行徳公民館の主催講座に出席するため、自転車で向かう際に、目標となる途中の目印がないかと探していたら、丁度自転車の経路で左折すべきところに「おかね塚」という史跡(的)なものがあるので、講座の前に立ち寄ったというのが、きっかけです。
#01、行徳公民館
2019年3月6日撮影(撮影:江戸川きたろう)
#02、「おかね塚」、「行徳公民館」近辺の地図
おかね塚は、市川市押切12-31(前)の6差路に建つ史跡で、Google Mapにも記載されています。
#03おかね塚?(説明表示石碑)
当初、この石碑が「おかね塚」と思い、この石碑を中心に写真を撮影しました。
行徳公民館で、講座を受講し、家に帰って、この碑文を読んでいたら、どうも、おかね塚そのものは、この石碑以外に、別に存在するようでした。
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
◆行徳おかね塚の由来◆
行徳の浜は古来塩業を以って榮えし処。押切の地また然り。
浜辺に昇る塩焼きの煙は高く五大木(船)の行き交う中に粗朶(薪)を
運べる大船の往来するもあり為に船頭・人夫の此の地に泊る
者また少なしとせず。
時に一船頭のしばしば此の地に來りて江戸吉原に遊びかね
と云える遊女と馴染む、船頭曰く年季を終えなば夫婦とな
らんと かね女喜びてその約を懐き歳を待つ、やがて季明
けなば早々に此の地に来りて船頭の至るを迎ふ。されど船頭
その姿を見せず。
待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□
に至るもなお此の地に留る。船頭への恋慕の情きが
故なり。 遥かに上総の山影を望みて此処松樹の下に果つ。
伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。
噫呼 かね女の思ひの一途なる真に純なる哉 朋友の情の
篤きこと実に美なる哉。聞く者皆涙せざるはなし。里人の香
華を供えておかね塚と唱へしも時流れ日移りし今日その由知
る人ぞ少なし。
茲(ここ)に幸薄かりしかね女を偲びて永代供養のため古老の伝へ
る由来を誌して後世に伝えんとする者也。 綿貫喜朗
昭和五十一年六月吉日
注)□□・・・文字が風化により不鮮明で、解読できず。
最初、#03の写真を画像処理して文字が読めるような写真にならないかと試みましたが、このもくろみは果たせず、写真を拡大し、文章を解読した結果のテキスト文字(縦書き)を白黒反転し、石碑の写真と合成して、擬似的に、このもくろみを達成しました。
#04、おかね塚説明碑・文章レタッチ合成版
表示された文章は、合成です(レタッチ:江戸川きたろう)
さて、この石碑の文章を読んで、率直のところ、「本当かな?」という思いがしました。
前半の部分は、実際にあったこととしても違和感はありません。
しかし、後半の「伝え聞きし朋輩百余人憐れみて資を募り墓碑を建て、霊を
弔ふ。」との一節は、こんなことがありえるだろうか?という感想でした。
また、ここの一節で、おかね塚というのは、このときに建てられたという墓のことを指しているのではないかと気付きました。
この、碑文を書いた「綿貫喜郎」氏の名前には、こころあたりがありました。
郷土史研究家で、この方の講演を二度程聴いた記憶があり、自身の写真ファイルを調べたところ、ご本人を撮影した画像がありました。
#05、郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
注)綿貫喜郎氏の画像をWEB上で検索したところ、何枚かヒットしましたが、その画像(人物)は、綿貫氏に関連した方の画像で、ご本人のものではありませんので、ご注意ください。
綿貫喜郎氏は、残念ながら、数年前にお亡くなりになったそうです。
さて、それでは、「おかね塚」そのものはどれなのか?ということになりますが、おかね塚の説明石碑の後ろ側に、墓が並んでおり、この中のひとつがおかね塚と推定されました。しかし、この日は、墓の部分は、詳しく写真を撮っていなかったので、これ以上の探求は出来ず、再度取材を行うこととしました。
(続く)
中山法華経寺(千葉県市川市)の蓮 2016 [きたろう散歩]
取材日:2016/7/13(水)
中山法華経寺の蓮が見頃と地域新聞に出ていたので行って来ました。
#01、日蓮宗の名刹・中山法華経寺
蓮が咲いている池は、本堂左手奥(左のお堂の裏)にあります。
※中山法華経寺は、冬季に行われる、百か日荒行で良く知られています。
#02、龍王池全景
#03、
#04、
#05、
#06、
シオカラトンボが結構飛んでいました。
#07、
龍王池は、寺の裏の、電柱に表記の住所で、公道に面しています。
地域新聞には、大賀蓮(古代ハス)が1株あると出ていましたが、それがどれかは分かりませんでした。
中山法華経寺の蓮が見頃と地域新聞に出ていたので行って来ました。
#01、日蓮宗の名刹・中山法華経寺
蓮が咲いている池は、本堂左手奥(左のお堂の裏)にあります。
※中山法華経寺は、冬季に行われる、百か日荒行で良く知られています。
#02、龍王池全景
#03、
#04、
#05、
#06、
シオカラトンボが結構飛んでいました。
#07、
龍王池は、寺の裏の、電柱に表記の住所で、公道に面しています。
地域新聞には、大賀蓮(古代ハス)が1株あると出ていましたが、それがどれかは分かりませんでした。
江戸川堤の河津桜 [きたろう散歩]
2016/02/19(金)取材
撮影場所:江戸川堤防上(市川市市川南4丁目6番先)
春めいた陽気に誘われ、江戸川堤に河津桜を見に行きました。
まだ、三分咲き程で見頃はこれからですがどうぞご覧ください。
#01
下流方向を望む。
#09
遠景は東京スカイツリー方面。
(撮影は、絞り優先プログラムf3.3で背景のぼかしに挑戦しましたが、ぼけ味は今一でした。)
#10
この並木は、平成16年、市制70周年を記念して植樹されたとのこと。
この桜の木は、オーナー制になっており、各々の木には、オーナーの氏名が掲げてあります。
#11、案内表示板
※表示内容
一番上・・・「市川緊急用船着場」
真ん中・・・「行徳橋→3.4km」
下・・・・・・・「1.18km←根本排水機場」
この案内板は桜並木の北エンドに立っています。
END
撮影場所:江戸川堤防上(市川市市川南4丁目6番先)
春めいた陽気に誘われ、江戸川堤に河津桜を見に行きました。
まだ、三分咲き程で見頃はこれからですがどうぞご覧ください。
#01
下流方向を望む。
#09
遠景は東京スカイツリー方面。
(撮影は、絞り優先プログラムf3.3で背景のぼかしに挑戦しましたが、ぼけ味は今一でした。)
#10
この並木は、平成16年、市制70周年を記念して植樹されたとのこと。
この桜の木は、オーナー制になっており、各々の木には、オーナーの氏名が掲げてあります。
#11、案内表示板
※表示内容
一番上・・・「市川緊急用船着場」
真ん中・・・「行徳橋→3.4km」
下・・・・・・・「1.18km←根本排水機場」
この案内板は桜並木の北エンドに立っています。
END
東郷公園の河津桜(千代田区三番町18) [きたろう散歩]
2016/02/13(土)取材
ある講演会からの帰路、三番丁の東郷公園に立ち寄りました。
公園の奥の河津桜がほぼ満開でした。
>※背景の建物は、隣接する、九段小学校です。
この日は、真冬というのに、最高気温が20度を越え、開花が加速したものと思われます。
(月曜以降、気温は急降下しました。)
END
ある講演会からの帰路、三番丁の東郷公園に立ち寄りました。
公園の奥の河津桜がほぼ満開でした。
>※背景の建物は、隣接する、九段小学校です。
この日は、真冬というのに、最高気温が20度を越え、開花が加速したものと思われます。
(月曜以降、気温は急降下しました。)
END
狛江市立古民家園(むいから民家園)滞留記 [きたろう散歩]
2015/10/3(土) 取材
SNSの友人が狛江市で演奏会を行うので、聴きに行くことになったが、夕方からなので、早めに行って狛江市内を散策でもしようと思いました。ネットの地図を開き、どこか良いとこないかな~と探したところ、駅から西方約700mのところに「むいから民家園」というのが目につきここへ行くことにしました。
駅から歩いて「むいから民家園」の該当の場所に行ったら「狛江市立古民家園」の看板がかかっていたのでここだと思い入りました(入場無料)。
#01、古民家園入口(1)
園内左手の建物は、管理棟です。
あとで分かったのですが、「むいから」とは「麦殻」のことで、屋根材に使う麦殻の音便だということでした。
#02、古民家園入口(2)
園内右手に、昔の農家の建物が見えます。
狛江市立古民家園住所・・・東京都狛江市元和泉2-15-5
#03、狛江市の地図(古民家園と演奏会場の位置等)
#04、むいから村役場=古民家園管理棟
演奏会は夕方5時開演で、現在時刻は2時42分なので、時間はたっぷりあります。
#05、管理棟脇にある、園内の説明板
この説明板には、園内の二つの主要建物、「農家の主屋」と「長屋門」の
概要が描いてあります。
※丁度、説明板の面上に、木の葉の影がかかり、明度の濃淡が強いので、この写真は大幅にレタッチしてあります。
#06、荒井家住宅(1)
#07、荒井家住宅(2)
#08、荒井家住宅(3)
#09、荒井家住宅(4)
庭には、人口の池と小川が造られ、子供たちの格好の遊び場となっていました。(池には、ヤゴが生息しているらしい。)
#10、荒井家住宅主屋の復元経過の説明板(住宅の台所に掲示されている)
#11、復元された荒井家住宅の間取り
※#10の写真を拡大
荒井家住宅は、かつて元和泉一丁目に所在し、江戸時代後期頃に建築されたと考えられます。(#03の地図参照)
その後、江戸末期と明治期に大幅な改築が行われましたが、復元は、江戸末期の「角屋(つのや)」と呼ばれる、住宅形式のものに復元しました。(#11の間取り参照)
平成4年小田急小田原線の立体交差及び複々線化事業に伴い、荒井家住宅は解体保存されていましたが、平成14年に当地に移築されたとのことです。
※管理棟脇の説明板から抜粋
※#05の説明板及び#10の説明板の内容は、本ブログ末に、テキストにして掲載していますので、詳細はそちらをご覧ください。
#12、移築前の荒井家住宅主屋
※管理棟脇の説明板の写真を拡大したものです。
#13、庭の一角に井戸あり
井戸の脇にある看板に「井戸の水は飲まないでください」と書いてある。
#14、旧高木家長屋門(1)庭側から見た写真
長屋門とは、主に武家の屋敷門として造られ、門の両脇に長屋を設けたものです。農村でも、名主など、格式のある家に、建てられることかありました。この長屋門を建てた高木家は、江戸時代に覚東村(がくとうむら)(現在の西野川一丁目近辺)(#03の地図参照)の名主を務めていました。
建築当初、写真右側(南側)は穀蔵で、左側(北側)は土間の納屋でした。屋根は、寄棟造の茅葺屋根でした。
その後、北側の納屋が馬屋になるなど、部屋の用途が変わり、改築がなされてきましたが、江戸時代に遡る貴重な建造物として、保存に向けて取り組みがなされました。平成11年に解体され、部材を保管していたものを、平成21年にこの古民家園に移築・復元がなされました。
現在、市内に残る唯一の長屋門です。
※管理棟脇の説明板より抜粋。
#15、旧高木家長屋門(2)外側から見た写真
柱の下部の色の違う部分は、補修の跡である。
#16、旧高木家長屋門(3)外側から見た写真
#17、「旧高木家長屋門 修理記」説明板
※ここに表示された内容は、ブログ末にテキストで掲載しました。
#18、移築前の高木家長屋門
※管理棟脇の説明板の写真を拡大したもの。
園内の写真は30分程で撮り終え、演奏会が始まるまで、子供たちが遊ぶのを見ながら、本を読んで過ごしました。
●以下、各説明板に記載の文章をテキストにしたものを掲載します。
SNSの友人が狛江市で演奏会を行うので、聴きに行くことになったが、夕方からなので、早めに行って狛江市内を散策でもしようと思いました。ネットの地図を開き、どこか良いとこないかな~と探したところ、駅から西方約700mのところに「むいから民家園」というのが目につきここへ行くことにしました。
駅から歩いて「むいから民家園」の該当の場所に行ったら「狛江市立古民家園」の看板がかかっていたのでここだと思い入りました(入場無料)。
#01、古民家園入口(1)
園内左手の建物は、管理棟です。
あとで分かったのですが、「むいから」とは「麦殻」のことで、屋根材に使う麦殻の音便だということでした。
#02、古民家園入口(2)
園内右手に、昔の農家の建物が見えます。
狛江市立古民家園住所・・・東京都狛江市元和泉2-15-5
#03、狛江市の地図(古民家園と演奏会場の位置等)
#04、むいから村役場=古民家園管理棟
演奏会は夕方5時開演で、現在時刻は2時42分なので、時間はたっぷりあります。
#05、管理棟脇にある、園内の説明板
この説明板には、園内の二つの主要建物、「農家の主屋」と「長屋門」の
概要が描いてあります。
※丁度、説明板の面上に、木の葉の影がかかり、明度の濃淡が強いので、この写真は大幅にレタッチしてあります。
#06、荒井家住宅(1)
#07、荒井家住宅(2)
#08、荒井家住宅(3)
#09、荒井家住宅(4)
庭には、人口の池と小川が造られ、子供たちの格好の遊び場となっていました。(池には、ヤゴが生息しているらしい。)
#10、荒井家住宅主屋の復元経過の説明板(住宅の台所に掲示されている)
#11、復元された荒井家住宅の間取り
※#10の写真を拡大
荒井家住宅は、かつて元和泉一丁目に所在し、江戸時代後期頃に建築されたと考えられます。(#03の地図参照)
その後、江戸末期と明治期に大幅な改築が行われましたが、復元は、江戸末期の「角屋(つのや)」と呼ばれる、住宅形式のものに復元しました。(#11の間取り参照)
平成4年小田急小田原線の立体交差及び複々線化事業に伴い、荒井家住宅は解体保存されていましたが、平成14年に当地に移築されたとのことです。
※管理棟脇の説明板から抜粋
※#05の説明板及び#10の説明板の内容は、本ブログ末に、テキストにして掲載していますので、詳細はそちらをご覧ください。
#12、移築前の荒井家住宅主屋
※管理棟脇の説明板の写真を拡大したものです。
#13、庭の一角に井戸あり
井戸の脇にある看板に「井戸の水は飲まないでください」と書いてある。
#14、旧高木家長屋門(1)庭側から見た写真
長屋門とは、主に武家の屋敷門として造られ、門の両脇に長屋を設けたものです。農村でも、名主など、格式のある家に、建てられることかありました。この長屋門を建てた高木家は、江戸時代に覚東村(がくとうむら)(現在の西野川一丁目近辺)(#03の地図参照)の名主を務めていました。
建築当初、写真右側(南側)は穀蔵で、左側(北側)は土間の納屋でした。屋根は、寄棟造の茅葺屋根でした。
その後、北側の納屋が馬屋になるなど、部屋の用途が変わり、改築がなされてきましたが、江戸時代に遡る貴重な建造物として、保存に向けて取り組みがなされました。平成11年に解体され、部材を保管していたものを、平成21年にこの古民家園に移築・復元がなされました。
現在、市内に残る唯一の長屋門です。
※管理棟脇の説明板より抜粋。
#15、旧高木家長屋門(2)外側から見た写真
柱の下部の色の違う部分は、補修の跡である。
#16、旧高木家長屋門(3)外側から見た写真
#17、「旧高木家長屋門 修理記」説明板
※ここに表示された内容は、ブログ末にテキストで掲載しました。
#18、移築前の高木家長屋門
※管理棟脇の説明板の写真を拡大したもの。
園内の写真は30分程で撮り終え、演奏会が始まるまで、子供たちが遊ぶのを見ながら、本を読んで過ごしました。
●以下、各説明板に記載の文章をテキストにしたものを掲載します。
勝浦海中展望塔・探訪記 [きたろう散歩]
2015年5月X日 取材
#01、勝浦の海中展望塔に行って来ました。
表示板右下の説明文内容
#02、勝浦の海中展望塔・交通案内
※勝浦の海中展望塔の栞より
勝浦市と言っても、JR外房線のうばら駅が最寄り駅です。
#03、海中展望塔全景
海上に突き出した橋の先に、高さ24.4m(ビルの9階建相当)、海中部分8mの海中観察塔が立っています。
大分、昔に一度来たことがありますが、その時は、海上が時化で、展望塔が、閉鎖となっていたので、今回が初訪問である。
#04、海中展望塔入口
近づくと、展望塔は、結構大きい(海上展望室は、約直径12m)
#05、階段は90段以上あります。
#06、海中観察窓は、水深約8m
#07、透明度はあまり良くない。
当日、公式発表は透明度6mとのこと。
見える大きい魚は「メジナ」と思われる。
#08、
良く見られる魚は、メジナの他、スズメダイ、マアジ等らしいが、透明度が今一で、どれがどれかははっきりしない。
#09、ここで見られる魚Ⅰ(パネル)
#10、金網の籠の中に餌が入っている。
#11、同上
#12、ここで見られる魚Ⅱ
年間では、この展望塔から90種類の魚が見られるという。
#13、石鯛と思われる
#14、餌に魚が群がり、中の金属籠が見えません。
#15、ここで見られる魚Ⅲ
#16、チョウチョウウオ
#17、
#18、
#19、上り専用ラセン階段
#20、東方向の眺望Ⅰ
#21、同上拡大
#22、同上説明パネル
#23、東方向の眺望Ⅱ
#24、同上説明パネル
#25、西の眺望
#26、同上拡大
#27、同上説明パネル
#28、明神岬にある「孝女おせんの供養塔」(パネル写真)
<おせんころがしの伝承話>
孝女おせんの悲話の舞台。おせんが身投げした断崖は高さ10数m、4kmも続く絶壁です。
#29、
#30、
#31、連絡橋から西方を望むⅠ
#32、連絡橋から西方を望むⅡ
#33、連絡橋から東方を望む
#34、連絡橋から下方を望む
#35、海中展望塔遠望
#01、勝浦の海中展望塔に行って来ました。
表示板右下の説明文内容
リアス式海岸の自然美あふれる景勝地、勝浦市鵜原地先は、寒流と暖の接点にあり、海の生物が豊富です。 この一帯14.5haが勝浦海中公園に指定され、その中央部に東洋一の規模を誇るる海中展望塔(高さ24.4m、水深8m)がたっています。 その海中展望塔から、年間約90種類以上の魚や海底の様子を観察することができます。
#02、勝浦の海中展望塔・交通案内
※勝浦の海中展望塔の栞より
勝浦市と言っても、JR外房線のうばら駅が最寄り駅です。
#03、海中展望塔全景
海上に突き出した橋の先に、高さ24.4m(ビルの9階建相当)、海中部分8mの海中観察塔が立っています。
大分、昔に一度来たことがありますが、その時は、海上が時化で、展望塔が、閉鎖となっていたので、今回が初訪問である。
#04、海中展望塔入口
近づくと、展望塔は、結構大きい(海上展望室は、約直径12m)
#05、階段は90段以上あります。
#06、海中観察窓は、水深約8m
#07、透明度はあまり良くない。
当日、公式発表は透明度6mとのこと。
見える大きい魚は「メジナ」と思われる。
#08、
良く見られる魚は、メジナの他、スズメダイ、マアジ等らしいが、透明度が今一で、どれがどれかははっきりしない。
#09、ここで見られる魚Ⅰ(パネル)
#10、金網の籠の中に餌が入っている。
#11、同上
#12、ここで見られる魚Ⅱ
年間では、この展望塔から90種類の魚が見られるという。
#13、石鯛と思われる
#14、餌に魚が群がり、中の金属籠が見えません。
#15、ここで見られる魚Ⅲ
#16、チョウチョウウオ
#17、
#18、
#19、上り専用ラセン階段
#20、東方向の眺望Ⅰ
#21、同上拡大
#22、同上説明パネル
#23、東方向の眺望Ⅱ
#24、同上説明パネル
#25、西の眺望
#26、同上拡大
#27、同上説明パネル
#28、明神岬にある「孝女おせんの供養塔」(パネル写真)
<おせんころがしの伝承話>
孝女おせんの悲話の舞台。おせんが身投げした断崖は高さ10数m、4kmも続く絶壁です。
おせんころがしの伝承話 太平洋に突き出た高さ十数メートル、幅四キロにおよぶ断崖絶壁が『おせんころがし』と呼ばれ、孝女おせんの悲話を伝える舞台となっています。 おせん伝説には幾つかの逸話があります。 そのひとつに純真で心根の優しいおせんは、強欲非道な父親を改心させ村人と仲良く暮らしてほしいと説得しますが受け入れられず、ついに断崖から身を投じたというお話です、 この断崖上に孝女おせんの供養塔が建っています。
#29、
#30、
#31、連絡橋から西方を望むⅠ
#32、連絡橋から西方を望むⅡ
#33、連絡橋から東方を望む
#34、連絡橋から下方を望む
#35、海中展望塔遠望
神田祭り・神輿宮入見物記 [きたろう散歩]
2015/05/10(日) 取材
二年に一度の神田祭・神輿宮入りを見物して来ました。江戸時代は徳川将軍様も上覧されたということで、天下祭りとも言われます。
神田明神の氏子・108町会の神輿約100基が神田神社に神輿ごと参拝しお祓いを受ける、神田祭りのクライマックスの行事です。朝9時から、日没まで、神田明神一帯は、祭りの熱気で最高潮に盛り上がります。
#01、昌平橋交差点を通過する山車
江戸時代、神田祭りは、山車主体の祭りであったが、明治期に電線の発達に伴い衰退した。
現在山車は数基のみ練り歩く。
#02、昌平橋交差点を通過する山車
後方は、神田郵便局とJR中央線(ガード)
#03、子供神輿
子供神輿と云っても、造りは本格的で、大体の町会で保有する。
#04、神田明神下交差点
北上して来た、神輿は、この交差点で90°西に向きを変え、いよいよ神田明神に宮入りする。
(神輿の名札(鳳凰の足元にある識別表示の札)は「八番」。)
#05、神輿女子
この町会の神輿の担ぎ手は女性が多い。
(名札「三番」)
#06、神輿女子
#07、神輿女子
#08、女神輿
名札は読みとれず(かろうじて「□中」と読める。□は読みとれず)
#09、女神輿
#10、境内全景
#11、お囃子の皆様
#12、お囃子の皆様
#13、太鼓女子
境内の西側で「神田祭太鼓フェスティバル」が行われていた。
(今回、初めて見ました)
#14、太鼓女子
#15、太鼓女子
#16、太鼓女子
おまけ、拝殿前のきれいどころ
神輿の担ぎ手の表情を、アップでとらえようと思ったが、神田明神境内は、大混雑で(満員電車並み)思うように写真は撮れませんでした。
二年後、再挑戦します(・_・)
二年に一度の神田祭・神輿宮入りを見物して来ました。江戸時代は徳川将軍様も上覧されたということで、天下祭りとも言われます。
神田明神の氏子・108町会の神輿約100基が神田神社に神輿ごと参拝しお祓いを受ける、神田祭りのクライマックスの行事です。朝9時から、日没まで、神田明神一帯は、祭りの熱気で最高潮に盛り上がります。
#01、昌平橋交差点を通過する山車
江戸時代、神田祭りは、山車主体の祭りであったが、明治期に電線の発達に伴い衰退した。
現在山車は数基のみ練り歩く。
#02、昌平橋交差点を通過する山車
後方は、神田郵便局とJR中央線(ガード)
#03、子供神輿
子供神輿と云っても、造りは本格的で、大体の町会で保有する。
#04、神田明神下交差点
北上して来た、神輿は、この交差点で90°西に向きを変え、いよいよ神田明神に宮入りする。
(神輿の名札(鳳凰の足元にある識別表示の札)は「八番」。)
#05、神輿女子
この町会の神輿の担ぎ手は女性が多い。
(名札「三番」)
#06、神輿女子
#07、神輿女子
#08、女神輿
名札は読みとれず(かろうじて「□中」と読める。□は読みとれず)
#09、女神輿
#10、境内全景
#11、お囃子の皆様
#12、お囃子の皆様
#13、太鼓女子
境内の西側で「神田祭太鼓フェスティバル」が行われていた。
(今回、初めて見ました)
#14、太鼓女子
#15、太鼓女子
#16、太鼓女子
おまけ、拝殿前のきれいどころ
神輿の担ぎ手の表情を、アップでとらえようと思ったが、神田明神境内は、大混雑で(満員電車並み)思うように写真は撮れませんでした。
二年後、再挑戦します(・_・)
亀戸天神藤まつりⅡ [きたろう散歩]
亀戸天神藤まつり見物レポの後半です。
亀戸天神境内を、写真撮影しながら、時計回りに3/4周した時に、ちょっと一息入れることにしました。
休憩のため、境内東にある駐車場に行ったら、藤まつり協賛のコンサートのポスターが貼られていました。その中に本日公演の「雨谷麻世」さんのコンサートのポスターがありました。神楽舞台の脇に居たスタッフさんにお聞きした所、ラッキーなことに15分後に第2回目の公演が始まるとのことでした。
#01、亀戸天神の藤(中央通路拝殿そば)
#02、藤まつり協賛「雨谷麻世」コンサートのポスター
#03、雨谷麻世コンサートのステージ
境内の北東、神楽奉納の舞台で行われます。
客席として折りたたみ椅子が70~80脚程用意されていました。
雨谷麻世さんは、東京藝術大学卒業後今年で活動26周年を迎えるとのこと。コンサートは「環境チャリティ・コンサート」と銘打ったコンサートを46回行ってます。今回のコンサートは藤まつりの協賛ですが、「鎮守の森コンサート」としても公演しています。
オリジナルソング「僕にできること」は2011年から小学5年の音楽教科書に採用されています。
TVには、徹子の部屋、NHK歌謡チャリティコンサート等に出演。CDも多数リリースしているとのことです。
末尾に、詳しいプロフィールを掲載しました。
#04
雨谷麻世さんは、「究極のクリスタル・ヴォイス」をキャチで使っています。クリスタルというと冷たい感じがしますが、雨谷さんの声質は、透明で温か味のあるハートフル・ヴォイスでした。
歌った曲(以下、画面と歌った曲は連動していません)
①あなたと一緒に旅立つ
②映画「ひまわり」主題歌
#05
③真白き富士の嶺
④アメージング・グレイス
#06
⑤アベマリア
⑥僕にできること(オリジナルソング・2011年から小学5年の音楽教科書に採用されている)
#07
⑦甘い牢獄(岡千秋作曲・最新盤)
⑧コンドルは飛んで行く
#08
⑨トゥーランドット(予定曲の最後)
予定曲終了後、拍手鳴りやまず「麻世ちゃん」「アンコール」の声援も飛びました。
事前に聞いたところでは、30分の予定とのことでしたが、結局10曲50分強の大サービスのコンサートでした。
⑩花は咲く(アンコール曲)
次回(5月27日)のコンサートの案内がありました。
末尾掲載のポスターをご覧ください。
#09、境内南東部から、太鼓橋と東京スカイツリーを望む
#10
心行くまで、藤の写真を撮影、大満足で亀戸天神をあとにしました。
#11
駅への途中に、土産物の店らしきものがあり寄って見ました。
#12
「亀戸梅屋敷」と称した施設でした。大正の頃まで、この近くにあった「梅屋敷」に因んで名前を付けたものと思われます。(広重の名所江戸百景でも描かれています)
#13
喫茶室もあります。
#14
土産店、喫茶室が長屋状の建物におさまっています。
#15
看板建設中でした。
(この施設は、できたての施設か?)
#16
#17
このスペースの用途不明(駐車スペースにしては、白線が引かれていないし・・・)
これから売り出そうとしている施設のようです。
(建設経緯・経営母体等の情報全く未確認です。スミマセン)
#18、雨谷麻世さんプロフィール
#19、5月27日コンサートの案内ちらし「環境チャリティコンサート vol.47」
END
亀戸天神境内を、写真撮影しながら、時計回りに3/4周した時に、ちょっと一息入れることにしました。
休憩のため、境内東にある駐車場に行ったら、藤まつり協賛のコンサートのポスターが貼られていました。その中に本日公演の「雨谷麻世」さんのコンサートのポスターがありました。神楽舞台の脇に居たスタッフさんにお聞きした所、ラッキーなことに15分後に第2回目の公演が始まるとのことでした。
#01、亀戸天神の藤(中央通路拝殿そば)
#02、藤まつり協賛「雨谷麻世」コンサートのポスター
#03、雨谷麻世コンサートのステージ
境内の北東、神楽奉納の舞台で行われます。
客席として折りたたみ椅子が70~80脚程用意されていました。
雨谷麻世さんは、東京藝術大学卒業後今年で活動26周年を迎えるとのこと。コンサートは「環境チャリティ・コンサート」と銘打ったコンサートを46回行ってます。今回のコンサートは藤まつりの協賛ですが、「鎮守の森コンサート」としても公演しています。
オリジナルソング「僕にできること」は2011年から小学5年の音楽教科書に採用されています。
TVには、徹子の部屋、NHK歌謡チャリティコンサート等に出演。CDも多数リリースしているとのことです。
末尾に、詳しいプロフィールを掲載しました。
#04
雨谷麻世さんは、「究極のクリスタル・ヴォイス」をキャチで使っています。クリスタルというと冷たい感じがしますが、雨谷さんの声質は、透明で温か味のあるハートフル・ヴォイスでした。
歌った曲(以下、画面と歌った曲は連動していません)
①あなたと一緒に旅立つ
②映画「ひまわり」主題歌
#05
③真白き富士の嶺
④アメージング・グレイス
#06
⑤アベマリア
⑥僕にできること(オリジナルソング・2011年から小学5年の音楽教科書に採用されている)
#07
⑦甘い牢獄(岡千秋作曲・最新盤)
⑧コンドルは飛んで行く
#08
⑨トゥーランドット(予定曲の最後)
予定曲終了後、拍手鳴りやまず「麻世ちゃん」「アンコール」の声援も飛びました。
事前に聞いたところでは、30分の予定とのことでしたが、結局10曲50分強の大サービスのコンサートでした。
⑩花は咲く(アンコール曲)
次回(5月27日)のコンサートの案内がありました。
末尾掲載のポスターをご覧ください。
#09、境内南東部から、太鼓橋と東京スカイツリーを望む
#10
心行くまで、藤の写真を撮影、大満足で亀戸天神をあとにしました。
#11
駅への途中に、土産物の店らしきものがあり寄って見ました。
#12
「亀戸梅屋敷」と称した施設でした。大正の頃まで、この近くにあった「梅屋敷」に因んで名前を付けたものと思われます。(広重の名所江戸百景でも描かれています)
#13
喫茶室もあります。
#14
土産店、喫茶室が長屋状の建物におさまっています。
#15
看板建設中でした。
(この施設は、できたての施設か?)
#16
#17
このスペースの用途不明(駐車スペースにしては、白線が引かれていないし・・・)
これから売り出そうとしている施設のようです。
(建設経緯・経営母体等の情報全く未確認です。スミマセン)
#18、雨谷麻世さんプロフィール
#19、5月27日コンサートの案内ちらし「環境チャリティコンサート vol.47」
END
江戸東京博物館・常設展示室リニューアルオープン(東京都墨田区横網1-4-1) [きたろう散歩]
2015年3月31日 取材(注)
江戸東京博物館・常設展示室ニューアルオープンするという記事を発見、早速見学に行きました。当日は、桜が満開で、好天にも恵まれ絶好の見学日和でした。
(注)ここのところ、きたろうのPC絶不調で、記事のアップが遅くなりました。
#01
同時に、「大関ヶ原展」も開催されていましたが。「大混雑」の情報があり、「常設展示」一本に絞ることにしました。
#02
同時に、「大関ヶ原展」も開催されていましたが。「大混雑」の情報があり、「常設展示」一本に絞ることにしました。
#03
本ブログのメインテーマ「名所江戸百景」展も併設されているとのことで、大ラッキーでした。
(注:最近は、あまりアップしていません。スミマセンm(__)m)
#04、ウエルカム演奏
10時頃入場したら、丁度入口付近で、琴の演奏が始まりました。
(演奏中の写真撮影に関し、係りの方に聞いたら、「撮影OK」とのことで撮影しました。また、展示物も、フラシュ無し撮影ならばOKとのこと。)
#05、谷富愛美さん、明日佳さんによる演奏
曲目:花変奏曲、とうりゃんせ、ことうた(日本の歌より)、荒城の月、雨のちハレルヤ、エトピリカ他
会場は、結構騒音がありましたが、お客様は、真摯な演奏に耳を傾けていました。
#06#07、江戸城の模型
現在は、石垣を残すのみ。
#08、何の模型でしょう?
「殿中でござる・・・・」であまりにも有名な「松の廊下」の模型
#09、徳川家康の木像
説明に、「等身大と言われている」と書いてあったが、等身大とは思えないほど小さかった。それとも、本当に小さかったか?
#10~13、中村座と日本橋
中村座前で、なにやらパフォーマンスが行われていました。
#14、広重の「名所江戸百景」の展示室
#16
華やかな花魁の姿。
同時に、遊女達の、過酷な労働実態に関する展示もありました。
#17、山車
車体の脇に「須田町」と大書きされていました。千代田区神田須田町にあったものの再現と思われます。
#19、帰路
左の行列は、チケット購入のための行列。
紹介した展示は、全体の1/5にも満たないと思います。2時間位見学しましたが、半分も見られていない感でした。
「大 関ヶ原展」は5月17日迄、広重「名所江戸百景」は5月10日(日)まで開催しています。
END
江戸東京博物館・常設展示室ニューアルオープンするという記事を発見、早速見学に行きました。当日は、桜が満開で、好天にも恵まれ絶好の見学日和でした。
(注)ここのところ、きたろうのPC絶不調で、記事のアップが遅くなりました。
#01
同時に、「大関ヶ原展」も開催されていましたが。「大混雑」の情報があり、「常設展示」一本に絞ることにしました。
#02
同時に、「大関ヶ原展」も開催されていましたが。「大混雑」の情報があり、「常設展示」一本に絞ることにしました。
#03
本ブログのメインテーマ「名所江戸百景」展も併設されているとのことで、大ラッキーでした。
(注:最近は、あまりアップしていません。スミマセンm(__)m)
#04、ウエルカム演奏
10時頃入場したら、丁度入口付近で、琴の演奏が始まりました。
(演奏中の写真撮影に関し、係りの方に聞いたら、「撮影OK」とのことで撮影しました。また、展示物も、フラシュ無し撮影ならばOKとのこと。)
#05、谷富愛美さん、明日佳さんによる演奏
曲目:花変奏曲、とうりゃんせ、ことうた(日本の歌より)、荒城の月、雨のちハレルヤ、エトピリカ他
会場は、結構騒音がありましたが、お客様は、真摯な演奏に耳を傾けていました。
#06#07、江戸城の模型
現在は、石垣を残すのみ。
#08、何の模型でしょう?
「殿中でござる・・・・」であまりにも有名な「松の廊下」の模型
#09、徳川家康の木像
説明に、「等身大と言われている」と書いてあったが、等身大とは思えないほど小さかった。それとも、本当に小さかったか?
#10~13、中村座と日本橋
中村座前で、なにやらパフォーマンスが行われていました。
#14、広重の「名所江戸百景」の展示室
#16
華やかな花魁の姿。
同時に、遊女達の、過酷な労働実態に関する展示もありました。
#17、山車
車体の脇に「須田町」と大書きされていました。千代田区神田須田町にあったものの再現と思われます。
#19、帰路
左の行列は、チケット購入のための行列。
紹介した展示は、全体の1/5にも満たないと思います。2時間位見学しましたが、半分も見られていない感でした。
「大 関ヶ原展」は5月17日迄、広重「名所江戸百景」は5月10日(日)まで開催しています。
END