ブラタモリ・トレース/仙台・四谷用水(その2) [散歩会]
2015/10/25(日)取材
前回は、仙台の特徴的な地形の「へくり沢」について紹介しました。
今回は、いよいよ、四谷用水を辿るコースを歩きます。
#17、仙台市青葉区八幡1-3-15にある、八幡町(はちまんまち)の紹介説明板
へくり沢から、四谷用水に向かう途中にある説明板。
説明板には「私たちの八幡町」と題する、この町の歴史や、現在の新しいまちづくりの取り組み等について書かれています。(詳細割愛)
手前の石は、仙台城の石垣に使われた石。
(これは、ブラタモリの番組とは無縁です)
#今回の探索コースの地図と写真撮影ポイント
#18、由緒あるお店が残る作並街道(青葉区八幡4-1-6付近)
このお店は、味噌・醤油のお店で、現役で営業しています。
(これは、ブラタモリの番組とは無縁です)
#19、八幡4-1-13を右折四谷用水に向かいます
#20、狭い道を北上
この辺から、番組ブラタモリの四谷用水の探索が始まりました。この辺は、奇しくも、今回の散歩会に同行した同級生の家の前でした。
#21、タモリさん一行四谷用水へ向かう
草なぎ剛ナレーター:「続いては、仙台の町中へ。この辺りの用水は、現在蓋をされ、暗渠になっています。暗渠を辿れば、政宗が城下町に水を行き渡らせるために地形をうまく利用したことが分かるんです。」
タモリ:「普通の人は真っ平な町だと思っているんですよね。」
皆川さん:「実は河岸段丘の段差もあり、この先がそうですね!」
タモリ:「この上が上町で、一番上の台地ですね。ということは四谷用水はこの上を通っていたと言うことですね。」
#22、四谷用水跡(暗渠)(八幡4-10-1)
皆川さん:「四谷用水の痕跡が残っています。探して下さい!」
#23、タモリ:(暗渠を指さして)「これがあやしいですね。」
#24、タモリ:「道幅に対し、片方が異常に広い歩道があると言うのは、大体川の跡なんです。」
桑子アナ:「ここですよ正に!」
皆川さん:「間違い無いですよね。」
#25、青葉区八幡4-11-11付近
タモリ:「あっ!(四谷用水は)この下だ・・・」
皆川さん:「ガードレールの向こうです。」
木村さん:「これが蓋みたいなものですから・・・(用水は)下に流れていますよね!」
皆川さん:「まさに台地の縁(へり)なんですね。台地の際を流れている・・・」
#26、四谷用水と仙台の地形についての解説
草なぎ剛ナレーター:「仙台の城下町は、北西が高く南東に向かって、緩やかに傾斜しています。政宗は、水を遠くまで届けるため、なるべく高い場所を、つまり段丘の縁(へり)の部分に四谷用水を通したんです。」
#27、四谷用水・八幡4-11-21付近
桑子アナ:「縁を歩くっていうのは良いんですか?」
タモリ:「縁は大好きですよ!何でもですね、縁は・・・、ヒラメでもエンガワが旨い!!」
一同:「笑い」
#28、四谷用水・八幡4-11-21付近
皆川さん:「ここが、仙台市の縁なんです。市街地が、あっち(画面左方)に広がってます。」
木村さん:「「城下町がここから広がるんです・・・」
#29&30、四谷用水標示ポール(八幡4-11-27付近)
四谷用水を説明するポールが立っていたが、極く最近設置されたものの様である。
以下このポールに記載された文章を紹介します。
「<正面>「四谷用水」本流跡
<右側面>仙台藩祖伊達政宗公は、城下町に必要な水を広瀬川上流の郷六から引きました。「四谷用水」と言われ、ここはその本流の跡です。
<左側面>本流をこのような高台に流し町中に水を分流しやすいようにしました。当時として素晴らしい知恵と技術だったと言えます。」
#31、タモリさん、女子2名と出会う(八幡2-13-12付近)
皆川さん:「縁(へり)ガール来ました。」
タモリ&女子お互いに:「こんにちは!」
タモリ:「縁は好き?」
桑子アナ(女子に向かって):「あやしいこと言って、ごめんね!」
#32、八幡2-13-12付近
タモリ:「このアパート良いよね。」
皆川:「これ、暗渠沿いで、リバーサイドアパートメントですね」
皆川:「ナガヤ アートメント ハチ」と書いてありますね。」
#33、タモリ(リチャード・ギアの物まねで):「HACHI!!」
(続く)
前回は、仙台の特徴的な地形の「へくり沢」について紹介しました。
今回は、いよいよ、四谷用水を辿るコースを歩きます。
#17、仙台市青葉区八幡1-3-15にある、八幡町(はちまんまち)の紹介説明板
へくり沢から、四谷用水に向かう途中にある説明板。
説明板には「私たちの八幡町」と題する、この町の歴史や、現在の新しいまちづくりの取り組み等について書かれています。(詳細割愛)
手前の石は、仙台城の石垣に使われた石。
(これは、ブラタモリの番組とは無縁です)
#今回の探索コースの地図と写真撮影ポイント
#18、由緒あるお店が残る作並街道(青葉区八幡4-1-6付近)
このお店は、味噌・醤油のお店で、現役で営業しています。
(これは、ブラタモリの番組とは無縁です)
#19、八幡4-1-13を右折四谷用水に向かいます
#20、狭い道を北上
この辺から、番組ブラタモリの四谷用水の探索が始まりました。この辺は、奇しくも、今回の散歩会に同行した同級生の家の前でした。
#21、タモリさん一行四谷用水へ向かう
草なぎ剛ナレーター:「続いては、仙台の町中へ。この辺りの用水は、現在蓋をされ、暗渠になっています。暗渠を辿れば、政宗が城下町に水を行き渡らせるために地形をうまく利用したことが分かるんです。」
タモリ:「普通の人は真っ平な町だと思っているんですよね。」
皆川さん:「実は河岸段丘の段差もあり、この先がそうですね!」
タモリ:「この上が上町で、一番上の台地ですね。ということは四谷用水はこの上を通っていたと言うことですね。」
#22、四谷用水跡(暗渠)(八幡4-10-1)
皆川さん:「四谷用水の痕跡が残っています。探して下さい!」
#23、タモリ:(暗渠を指さして)「これがあやしいですね。」
#24、タモリ:「道幅に対し、片方が異常に広い歩道があると言うのは、大体川の跡なんです。」
桑子アナ:「ここですよ正に!」
皆川さん:「間違い無いですよね。」
#25、青葉区八幡4-11-11付近
タモリ:「あっ!(四谷用水は)この下だ・・・」
皆川さん:「ガードレールの向こうです。」
木村さん:「これが蓋みたいなものですから・・・(用水は)下に流れていますよね!」
皆川さん:「まさに台地の縁(へり)なんですね。台地の際を流れている・・・」
#26、四谷用水と仙台の地形についての解説
草なぎ剛ナレーター:「仙台の城下町は、北西が高く南東に向かって、緩やかに傾斜しています。政宗は、水を遠くまで届けるため、なるべく高い場所を、つまり段丘の縁(へり)の部分に四谷用水を通したんです。」
#27、四谷用水・八幡4-11-21付近
桑子アナ:「縁を歩くっていうのは良いんですか?」
タモリ:「縁は大好きですよ!何でもですね、縁は・・・、ヒラメでもエンガワが旨い!!」
一同:「笑い」
#28、四谷用水・八幡4-11-21付近
皆川さん:「ここが、仙台市の縁なんです。市街地が、あっち(画面左方)に広がってます。」
木村さん:「「城下町がここから広がるんです・・・」
#29&30、四谷用水標示ポール(八幡4-11-27付近)
四谷用水を説明するポールが立っていたが、極く最近設置されたものの様である。
以下このポールに記載された文章を紹介します。
「<正面>「四谷用水」本流跡
<右側面>仙台藩祖伊達政宗公は、城下町に必要な水を広瀬川上流の郷六から引きました。「四谷用水」と言われ、ここはその本流の跡です。
<左側面>本流をこのような高台に流し町中に水を分流しやすいようにしました。当時として素晴らしい知恵と技術だったと言えます。」
#31、タモリさん、女子2名と出会う(八幡2-13-12付近)
皆川さん:「縁(へり)ガール来ました。」
タモリ&女子お互いに:「こんにちは!」
タモリ:「縁は好き?」
桑子アナ(女子に向かって):「あやしいこと言って、ごめんね!」
#32、八幡2-13-12付近
タモリ:「このアパート良いよね。」
皆川:「これ、暗渠沿いで、リバーサイドアパートメントですね」
皆川:「ナガヤ アートメント ハチ」と書いてありますね。」
#33、タモリ(リチャード・ギアの物まねで):「HACHI!!」
(続く)
ブラタモリ・トレース/仙台・四谷用水(その1) [散歩会]
015/10/25(日)取材
仙台に帰省、数日滞在することになったので、その間に、仙台でブラタモリ・トレースをすることを計画しました。
ブラタモリ・トレースとはNHK・TVの番組「ブラタモリ」でタモリさん一行が歩いたのと同じコースを辿るという実に安易な企画の散歩会です。散歩会の後は例によって飲み会をするという言う計画を立て、中学同期のメーリング・リストで募集を
掛けました。その結果5名の方が参加することになりました。しかし、飲み会の募集の時には、見られなかった、非参加者からのコメントがいろいろありました。その中で、女性の同級生から、驚くべき内容のコメントがありました。※この内容は(その2)以降でお伝えします。
さて、今回のブラタモリ・トレースは、平成27年7月11日放送のブラタモリ・仙台の地形と用水から、その一部を辿ることにしました。
#01、NHK・TV番組「ブラタモリ・仙台の地形と用水」からの画像
撮影地点は仙台駅近くの「中央一丁目」交差点。
※以下、本ブログで、TV画面から転載の画像は、水色の枠で囲みます。
#02、番組出演者
右から、タモリさん、案内人の木村浩二さん(仙台市教育委員会)、桑子真帆アナウンサー(青葉城址にて)
#03、案内人・・・木村浩二さん
#04、「ブラタモリ・トレース/仙台の地形と用水(1日目)」トレース行程地図
ブラタモリの番組ホームページ掲載の地図をベースに作成しました。
赤線が番組で放送された、タモリさん一行が歩いたコース、青矢印は、今回きたろう一行が辿ったコース。
#05、同上拡大図(今回ブログで紹介する部分)
今回(その1)紹介するのは、仙台市街地の西部にある、へくり沢と呼ばれる地域です。特異なスリバチ状の地形で、広瀬川のすぐそばにありながら、伊達城下としての発達当初には、水にはめぐまれない地域でした。
※地図上、赤の、⑥、⑦、⑧・・・・は、以下に掲載する画像の#06、#07、#08・・・の撮影地点(方向)と対応します。
今回きたろう一行は、都合で、タモリさん一行が辿ったのと逆方向で辿りましたが、写真の掲載順は、ブラタモリの辿った順に掲載致します。
#06、ブラタモのロケ隊一行(へくり沢傍の道路にて)
画面中央の白い案内板を左に入ったところがへくり沢です。
※画面に写っているのは、ほとんどがロケ隊の皆様と思われます。(出演者を含め13~14名?)
#07、へくり沢入口から、広瀬川の方を望む。
※以下、水色枠の無い写真はきたろうオリジナルの写真です。
<番組のトーク>
草ナギ剛(ナレーター):「水を手に入れるのも一苦労という川と町の高低差を実感出来る場所なんです」
タモリ:「あ~~、ほんと、川が見えるわ!」
桑子アナ:「すぐ近くなんですね」
※きたろう注
ここは、へくり沢の沢水が広瀬川にそそぐ地点で、現在沢水は暗渠となっています。撮影した道路(面)と広瀬川の水面の高低差は約5mあり、広瀬川の水は利用しずらい。
さりとて、へくり沢の沢水は、恐らく水量が安定せず、江戸時代、沢水の利用は一部に留まったものと思われます。
#08、へくり沢入口
木村さん:「ちょっと左手に入って頂くと・・・」
#09、へくり沢の崖
タモリ:「崖がありますね~!」
木村さん「もう少し行くとですね~、両側に崖があり、15m以上、川から見ると20m以上の落差ですから、すごい崖です」
※きたろう注
きたろうは仙台出身ですが、この地域に来たことはありませんでした。他の同級生もはじめて来たと言っていました。へくり沢の前の道路(#06の道路)を通ったことは何度かありますが、へくり沢内の道は、袋小路になっているので友人・知人・親戚でもいない限り、ここを通ることは無いわけです。
画面左奥の高い建物は、ライオンズタワー(仙台広瀬)で、目立つ建物なので、今回の散歩会の集合場所にしました。
#10、さらなる案内人登場
東京スリバチ学会会長・皆川典久さん
草ナギ剛ナレーター:「週末ごとに、仲間と共に、全国の谷を飛びまわる、正に旅マニア。タモリさんとも知り合いです」
※きたろう注
この方は、以前タモリ倶楽部を見ているときに、出演していました。
#11、皆川さんのへくり沢の解説
皆川さん:「ここが正に、両側が崖に囲まれたすり鉢状の谷なんですね。へくり沢と言って、仙台城下でも非常に特徴的な谷の地形です。ここがほぼ一番低い所で、川筋・川跡に近い所です。」
タモリ:「ここひらたいですよね?」
皆川さん:「かなり(谷を)埋めていますから、(平らになっています)。私は谷マニアでもあり、暗渠マニアでもあります。」
桑子アナ:「暗渠ということはこの下は川ですか?」
皆川さん:「川が今でも流れています。昔は、堰き止めて、冬場は凍るんでスケート場として使ったりしていました。」
タモリ:「それは、そのままにした方が良かったのに」
(一同笑い)
※きたろうはこのことは、知識としては知っていました。それは、学校の文集で誰かが、「ここでスケートをした」という作文を書いていたからです。
#12、へくり沢をつなぐ土橋
皆川さん:「前方を谷を塞ぐように斜面が見えるのが分かりますか?」
木村さん:「車が通ってますでしょ」
皆川さん:「このへくり沢を越えるために、17世紀に作られた土の橋、土橋なんですね。」
草ナギ剛(ナレーター):「土橋の上に見えるのが、お城に繋がる道。これだけ高低差があると、水を手に入れるのも大変ですね。」
#13、へくり沢近辺の地形の立体模型
今までの地図、画像だけでは、へくり沢のイメージが湧かないと思いますで、外部ブログを探したところ、この立体模型を見つけましたので参考のために転載致しました。
(「仙台人が仙台を好きになるブログ」より転載。
※きたろう注:
手前の水面を水色に塗った川が広瀬川、そこから左上に切れ込んだ谷がへくり沢。へくり沢に架かる橋が土橋である。
#14、へくり沢全景
(#12)の斜面を登った途中から振り返って、へくり沢を眺めたところ。
#15、土橋の上の面(道路)からへくり沢を望む
木村さん:「今、城下町の上の面に辿りつきました。この落差分、毎日世适用水と飲料水を運び上げるのは、大変ですね。町全体に、水を行き渡らせる、住民のための用水が四谷用水です。」
草ナギ剛(ナレーター):「四谷用水は400年前、水不足を解消するために、伊達政宗が作りました。実は仙台の地形を知り尽くした伊達政宗だからこそ作れたんですね。」
※きたろう注
ここで、番組は、へくり沢のコーナーは終了しましたので、本ブログも中断します。
#16、土橋の上の道
先程の#15の所から少し南に下った所です。
実は、この道は、きたろうが小学校、高校、大学(1・2年)と通った道で、大変なつかしい場所(道)です。
左側の大きなお屋敷は、その当時とほとんど変わっていません(塀は綺麗になったが)。右側は尚絅学院の石垣で、この石垣も変わっていません。
(1日目その1・END)
仙台に帰省、数日滞在することになったので、その間に、仙台でブラタモリ・トレースをすることを計画しました。
ブラタモリ・トレースとはNHK・TVの番組「ブラタモリ」でタモリさん一行が歩いたのと同じコースを辿るという実に安易な企画の散歩会です。散歩会の後は例によって飲み会をするという言う計画を立て、中学同期のメーリング・リストで募集を
掛けました。その結果5名の方が参加することになりました。しかし、飲み会の募集の時には、見られなかった、非参加者からのコメントがいろいろありました。その中で、女性の同級生から、驚くべき内容のコメントがありました。※この内容は(その2)以降でお伝えします。
さて、今回のブラタモリ・トレースは、平成27年7月11日放送のブラタモリ・仙台の地形と用水から、その一部を辿ることにしました。
#01、NHK・TV番組「ブラタモリ・仙台の地形と用水」からの画像
撮影地点は仙台駅近くの「中央一丁目」交差点。
※以下、本ブログで、TV画面から転載の画像は、水色の枠で囲みます。
#02、番組出演者
右から、タモリさん、案内人の木村浩二さん(仙台市教育委員会)、桑子真帆アナウンサー(青葉城址にて)
#03、案内人・・・木村浩二さん
#04、「ブラタモリ・トレース/仙台の地形と用水(1日目)」トレース行程地図
ブラタモリの番組ホームページ掲載の地図をベースに作成しました。
赤線が番組で放送された、タモリさん一行が歩いたコース、青矢印は、今回きたろう一行が辿ったコース。
#05、同上拡大図(今回ブログで紹介する部分)
今回(その1)紹介するのは、仙台市街地の西部にある、へくり沢と呼ばれる地域です。特異なスリバチ状の地形で、広瀬川のすぐそばにありながら、伊達城下としての発達当初には、水にはめぐまれない地域でした。
※地図上、赤の、⑥、⑦、⑧・・・・は、以下に掲載する画像の#06、#07、#08・・・の撮影地点(方向)と対応します。
今回きたろう一行は、都合で、タモリさん一行が辿ったのと逆方向で辿りましたが、写真の掲載順は、ブラタモリの辿った順に掲載致します。
#06、ブラタモのロケ隊一行(へくり沢傍の道路にて)
画面中央の白い案内板を左に入ったところがへくり沢です。
※画面に写っているのは、ほとんどがロケ隊の皆様と思われます。(出演者を含め13~14名?)
#07、へくり沢入口から、広瀬川の方を望む。
※以下、水色枠の無い写真はきたろうオリジナルの写真です。
<番組のトーク>
草ナギ剛(ナレーター):「水を手に入れるのも一苦労という川と町の高低差を実感出来る場所なんです」
タモリ:「あ~~、ほんと、川が見えるわ!」
桑子アナ:「すぐ近くなんですね」
※きたろう注
ここは、へくり沢の沢水が広瀬川にそそぐ地点で、現在沢水は暗渠となっています。撮影した道路(面)と広瀬川の水面の高低差は約5mあり、広瀬川の水は利用しずらい。
さりとて、へくり沢の沢水は、恐らく水量が安定せず、江戸時代、沢水の利用は一部に留まったものと思われます。
#08、へくり沢入口
木村さん:「ちょっと左手に入って頂くと・・・」
#09、へくり沢の崖
タモリ:「崖がありますね~!」
木村さん「もう少し行くとですね~、両側に崖があり、15m以上、川から見ると20m以上の落差ですから、すごい崖です」
※きたろう注
きたろうは仙台出身ですが、この地域に来たことはありませんでした。他の同級生もはじめて来たと言っていました。へくり沢の前の道路(#06の道路)を通ったことは何度かありますが、へくり沢内の道は、袋小路になっているので友人・知人・親戚でもいない限り、ここを通ることは無いわけです。
画面左奥の高い建物は、ライオンズタワー(仙台広瀬)で、目立つ建物なので、今回の散歩会の集合場所にしました。
#10、さらなる案内人登場
東京スリバチ学会会長・皆川典久さん
草ナギ剛ナレーター:「週末ごとに、仲間と共に、全国の谷を飛びまわる、正に旅マニア。タモリさんとも知り合いです」
※きたろう注
この方は、以前タモリ倶楽部を見ているときに、出演していました。
#11、皆川さんのへくり沢の解説
皆川さん:「ここが正に、両側が崖に囲まれたすり鉢状の谷なんですね。へくり沢と言って、仙台城下でも非常に特徴的な谷の地形です。ここがほぼ一番低い所で、川筋・川跡に近い所です。」
タモリ:「ここひらたいですよね?」
皆川さん:「かなり(谷を)埋めていますから、(平らになっています)。私は谷マニアでもあり、暗渠マニアでもあります。」
桑子アナ:「暗渠ということはこの下は川ですか?」
皆川さん:「川が今でも流れています。昔は、堰き止めて、冬場は凍るんでスケート場として使ったりしていました。」
タモリ:「それは、そのままにした方が良かったのに」
(一同笑い)
※きたろうはこのことは、知識としては知っていました。それは、学校の文集で誰かが、「ここでスケートをした」という作文を書いていたからです。
#12、へくり沢をつなぐ土橋
皆川さん:「前方を谷を塞ぐように斜面が見えるのが分かりますか?」
木村さん:「車が通ってますでしょ」
皆川さん:「このへくり沢を越えるために、17世紀に作られた土の橋、土橋なんですね。」
草ナギ剛(ナレーター):「土橋の上に見えるのが、お城に繋がる道。これだけ高低差があると、水を手に入れるのも大変ですね。」
#13、へくり沢近辺の地形の立体模型
今までの地図、画像だけでは、へくり沢のイメージが湧かないと思いますで、外部ブログを探したところ、この立体模型を見つけましたので参考のために転載致しました。
(「仙台人が仙台を好きになるブログ」より転載。
※きたろう注:
手前の水面を水色に塗った川が広瀬川、そこから左上に切れ込んだ谷がへくり沢。へくり沢に架かる橋が土橋である。
#14、へくり沢全景
(#12)の斜面を登った途中から振り返って、へくり沢を眺めたところ。
#15、土橋の上の面(道路)からへくり沢を望む
木村さん:「今、城下町の上の面に辿りつきました。この落差分、毎日世适用水と飲料水を運び上げるのは、大変ですね。町全体に、水を行き渡らせる、住民のための用水が四谷用水です。」
草ナギ剛(ナレーター):「四谷用水は400年前、水不足を解消するために、伊達政宗が作りました。実は仙台の地形を知り尽くした伊達政宗だからこそ作れたんですね。」
※きたろう注
ここで、番組は、へくり沢のコーナーは終了しましたので、本ブログも中断します。
#16、土橋の上の道
先程の#15の所から少し南に下った所です。
実は、この道は、きたろうが小学校、高校、大学(1・2年)と通った道で、大変なつかしい場所(道)です。
左側の大きなお屋敷は、その当時とほとんど変わっていません(塀は綺麗になったが)。右側は尚絅学院の石垣で、この石垣も変わっていません。
(1日目その1・END)
散歩会→ブラタモリ・トレース(鎌倉Ⅱ) [散歩会]
ブラタモリ・トレースの散歩会(鎌倉)の続きです。
今回は、ブラタモリでまわった「鎌倉の大仏」、「鎌倉高校前の新名所」、「江の電が一般道路上を走る」について、TV画面と実際に撮影の写真を対比しながら紹介致します。
#22、ブラタモリ行程地図(鎌倉大仏)
#23、高徳院(大仏のある寺)山門
ブラタモリで、ここのシーンは俯瞰撮影で、サラっと流していました。
#24、高徳院・山門にある像
ブラタモリでは放送無し。大仏がメインなので割愛したものと思われます(きたろうも、製作年、作者等未調査)。
#25、大仏に向かうタモリ一行
左から桑子アナ、タモリ、三浦さん(案内人=長谷寺の学芸員)
タモリは、鎌倉の大仏を見るのは、初めてとのこと。
#26、鎮座する鎌倉の大仏
「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」・・・・・晶子(与謝野晶子)
#27、大仏を見上げる
お供えものは、夏らしくスイカでした。
#28、覆い堂の礎石
桑子アナと三浦さんの間に見える石は、かつて、大仏を覆っていた建物の柱の土台の石とのこと。
現在、参拝者は、それとは知らずに座っています。
#29、大仏の足元の蓮弁
本来なら、大仏の周囲全部におかれているはずであるが、4つしかなかった。
#30、同上TVのシーン
三浦さん談「江戸時代に、一生懸命直したんですが、出来あがったのは4枚だけで、終わってしまいました。一枚作るだけでも相当お金が掛ったので・・・」
#31、蓮弁に刻まれた寄進者の名簿
村毎に名前が書かれていました。
#32、大仏様は、失礼ながら、かなりの猫背でした。
#33、「鎌倉高校前」駅のホームで
電車が発車した後に指先確認をするタモリ。その動作は、なかなか様になっていました。
#34、鎌倉高校前駅下車
左に江の島が見えます。
#35、アニメファンの間で、新名所となった交差点(=鎌倉高校前交差点)
「スラムダンク」というアニメのオープニングがこの交差点の景色に似ているということで、アニメファンが写真を撮りに来るようになった。
#36、同上
この日も、何の変哲もない交差点に、数十人の人々が集まっていました。
#37、サーファーのバイク
サーフボードをバイクに積むためのステーが付いている。
#38、江の島駅周辺の地図
#39、江ノ電・江ノ島駅
#40、江ノ電・江ノ島駅前を歩くタモリと桑子アナ
#41、江ノ電が、一般道路上を走る区間にやって来たタモリ一行
右:案内人=江の電ファンクラブ初代会長:野口雅章さん
#42、現在唯一、江ノ電が一般道路上を走る区間
信号は無く、警備員が交通整理を行っていた。
#43、同交差点に面した「江ノ電マニア」の店
#44、お店に立ち寄るタモリ一行
#45、看板商品は「江ノ電もなか」
お店の名前は扇屋。右は、かつて、実際に走っていた電車の車体である。
#46、この後、ブラタモリのコースをはずれ、江の島の方へやって来ました。
しかし、この日は30°を越える猛暑で、時間も時間なので、ここで散歩は打ち切りとし、再び江の電に乗り、鎌倉駅まで帰りました。
END
今回は、ブラタモリでまわった「鎌倉の大仏」、「鎌倉高校前の新名所」、「江の電が一般道路上を走る」について、TV画面と実際に撮影の写真を対比しながら紹介致します。
#22、ブラタモリ行程地図(鎌倉大仏)
#23、高徳院(大仏のある寺)山門
ブラタモリで、ここのシーンは俯瞰撮影で、サラっと流していました。
#24、高徳院・山門にある像
ブラタモリでは放送無し。大仏がメインなので割愛したものと思われます(きたろうも、製作年、作者等未調査)。
#25、大仏に向かうタモリ一行
左から桑子アナ、タモリ、三浦さん(案内人=長谷寺の学芸員)
タモリは、鎌倉の大仏を見るのは、初めてとのこと。
#26、鎮座する鎌倉の大仏
「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」・・・・・晶子(与謝野晶子)
#27、大仏を見上げる
お供えものは、夏らしくスイカでした。
#28、覆い堂の礎石
桑子アナと三浦さんの間に見える石は、かつて、大仏を覆っていた建物の柱の土台の石とのこと。
現在、参拝者は、それとは知らずに座っています。
#29、大仏の足元の蓮弁
本来なら、大仏の周囲全部におかれているはずであるが、4つしかなかった。
#30、同上TVのシーン
三浦さん談「江戸時代に、一生懸命直したんですが、出来あがったのは4枚だけで、終わってしまいました。一枚作るだけでも相当お金が掛ったので・・・」
#31、蓮弁に刻まれた寄進者の名簿
村毎に名前が書かれていました。
#32、大仏様は、失礼ながら、かなりの猫背でした。
#33、「鎌倉高校前」駅のホームで
電車が発車した後に指先確認をするタモリ。その動作は、なかなか様になっていました。
#34、鎌倉高校前駅下車
左に江の島が見えます。
#35、アニメファンの間で、新名所となった交差点(=鎌倉高校前交差点)
「スラムダンク」というアニメのオープニングがこの交差点の景色に似ているということで、アニメファンが写真を撮りに来るようになった。
#36、同上
この日も、何の変哲もない交差点に、数十人の人々が集まっていました。
#37、サーファーのバイク
サーフボードをバイクに積むためのステーが付いている。
#38、江の島駅周辺の地図
#39、江ノ電・江ノ島駅
#40、江ノ電・江ノ島駅前を歩くタモリと桑子アナ
#41、江ノ電が、一般道路上を走る区間にやって来たタモリ一行
右:案内人=江の電ファンクラブ初代会長:野口雅章さん
#42、現在唯一、江ノ電が一般道路上を走る区間
信号は無く、警備員が交通整理を行っていた。
#43、同交差点に面した「江ノ電マニア」の店
#44、お店に立ち寄るタモリ一行
#45、看板商品は「江ノ電もなか」
お店の名前は扇屋。右は、かつて、実際に走っていた電車の車体である。
#46、この後、ブラタモリのコースをはずれ、江の島の方へやって来ました。
しかし、この日は30°を越える猛暑で、時間も時間なので、ここで散歩は打ち切りとし、再び江の電に乗り、鎌倉駅まで帰りました。
END
散歩会→ブラタモリ・トレース(鎌倉Ⅰ) [散歩会]
今回の散歩会は、NHKの人気番組「ブラタモリ」のタモリと桑子アナが歩いた行程を、そのままそっくり踏襲するという、実に安易な企画をたて実践してきました。
モデルとしたコースは、去る5月23日放送の「鎌倉の観光」です。
#01、ブラタモリホームページ(鎌倉の観光)
#02、江の電極楽寺駅で下車、ここから出発しました。
#03、極楽寺山門を指さすタモリ
タモリ:「そこが極楽寺ですか・・・」
左:長谷寺学芸員三浦さん、右:桑子アナ。
#04、極楽寺・山門
#05、極楽寺切通し
#06、極楽寺切り通しの変遷1
江戸期、極楽寺切り通しは、このような感じであった。
#07、極楽寺切り通しの変遷2
時代が下がるにつれ、切通しは徐々に掘り下げられ、最終的に現在の路面まで削られたとのこと。
#08、路面が削られた歴史の痕跡を確認する(成就院参道)
タモリ:「ちょっと、行って見ますか・・・」
#09、成就院参道1
#10、成就院参道2
ここの路面の高さが、江戸時代の切通の路面の高さに相当するとのこと。
タモリ:「ここだったんですよ・・・」
#11、成就院の結界門
成就院の山門はさらに奥にあります。
#12、成就院山門の前
階段の頂上は成就院の山門の前になります。
桑子アナ:「良い眺めですね~~これは・・・」
#13、由比ケ浜方向を望む
#14、長谷寺への道標1
三浦さん:「是非、読んで頂きたいとこがあるんですが・・・」
#15、長谷寺への道標2
江戸時代からある長谷寺への案内の道標
「はせくあん音へ之道」と刻んであるとのことですが・・・
#16、江戸時代から続く茶屋(=力餅家)
この餅屋でブラタモリ番組上初めて、タモリと桑子アナと案内人の方が力餅を賞味することになりました。
#17、権五郎力餅
力餅10コ入りを土産として購入ました。製法は江戸時代から変わっていないとのことで、あんこはすっきりした甘味でお餅は素朴な味わいでした。
※お餅の上に薄いフィルムがはってありますが、これを取り忘れて撮影してしまいました。
#18、力餅を賞味する、御一行様
#19、お餅屋の向かいはサーファーのお店で対象的でした。
#20、長谷寺前にて
三浦さん:「こちらが、私が勤めさせて頂いている長谷寺になります。」
#21、長谷寺山門
三浦さん:「この赤ちょうちんが目印になります。」
(続く)
モデルとしたコースは、去る5月23日放送の「鎌倉の観光」です。
#01、ブラタモリホームページ(鎌倉の観光)
#02、江の電極楽寺駅で下車、ここから出発しました。
#03、極楽寺山門を指さすタモリ
タモリ:「そこが極楽寺ですか・・・」
左:長谷寺学芸員三浦さん、右:桑子アナ。
#04、極楽寺・山門
#05、極楽寺切通し
#06、極楽寺切り通しの変遷1
江戸期、極楽寺切り通しは、このような感じであった。
#07、極楽寺切り通しの変遷2
時代が下がるにつれ、切通しは徐々に掘り下げられ、最終的に現在の路面まで削られたとのこと。
#08、路面が削られた歴史の痕跡を確認する(成就院参道)
タモリ:「ちょっと、行って見ますか・・・」
#09、成就院参道1
#10、成就院参道2
ここの路面の高さが、江戸時代の切通の路面の高さに相当するとのこと。
タモリ:「ここだったんですよ・・・」
#11、成就院の結界門
成就院の山門はさらに奥にあります。
#12、成就院山門の前
階段の頂上は成就院の山門の前になります。
桑子アナ:「良い眺めですね~~これは・・・」
#13、由比ケ浜方向を望む
#14、長谷寺への道標1
三浦さん:「是非、読んで頂きたいとこがあるんですが・・・」
#15、長谷寺への道標2
江戸時代からある長谷寺への案内の道標
「はせくあん音へ之道」と刻んであるとのことですが・・・
#16、江戸時代から続く茶屋(=力餅家)
この餅屋でブラタモリ番組上初めて、タモリと桑子アナと案内人の方が力餅を賞味することになりました。
#17、権五郎力餅
力餅10コ入りを土産として購入ました。製法は江戸時代から変わっていないとのことで、あんこはすっきりした甘味でお餅は素朴な味わいでした。
※お餅の上に薄いフィルムがはってありますが、これを取り忘れて撮影してしまいました。
#18、力餅を賞味する、御一行様
#19、お餅屋の向かいはサーファーのお店で対象的でした。
#20、長谷寺前にて
三浦さん:「こちらが、私が勤めさせて頂いている長谷寺になります。」
#21、長谷寺山門
三浦さん:「この赤ちょうちんが目印になります。」
(続く)
ミレー展と皇居東御苑散策 [散歩会]
2014/12/10(水) 取材
散歩会2014年12月10日12時30分~
今年最後の散歩会を実施しました。まず、三菱一号館美術館で開催中の「ボストン美術館ミレー展」で絵画鑑賞しました。
美術館入り口
展示絵画の一部紹介
貸出の「音声ガイド」用のシートのコピーです。
音声ガイドで案内のある絵画は、全64点中19点です。
音声ガイド装置は、520円で貸し出しています。
絵の展示の脇に書いてある解説以上の説明やエピソードが音声で聞かれます→お薦めです。
※本展示は来年の1月12日迄とまだ会期中なので、紹介した絵は”ぼかし”をかけています。
展示を見終わって、何か物足りなさをを感じました。そうです、ミレーの有名な「落ち穂拾い」が展示されていませんでした。「落ち穂拾いは」ボストン美術館のコレクションには無いのですね。
美術館3Fから中庭を望む
美術館の後、皇居東御苑内を散策しました。
先週、皇居乾通りの特別公開がされていましたが、東御苑は、乾通りの東側に位置します。
日没前の最後の夕陽に紅葉が照らされています。
東御苑北側の平川門から退出しました。
散歩会の忘年会
END
散歩会2014年12月10日12時30分~
今年最後の散歩会を実施しました。まず、三菱一号館美術館で開催中の「ボストン美術館ミレー展」で絵画鑑賞しました。
美術館入り口
展示絵画の一部紹介
貸出の「音声ガイド」用のシートのコピーです。
音声ガイドで案内のある絵画は、全64点中19点です。
音声ガイド装置は、520円で貸し出しています。
絵の展示の脇に書いてある解説以上の説明やエピソードが音声で聞かれます→お薦めです。
※本展示は来年の1月12日迄とまだ会期中なので、紹介した絵は”ぼかし”をかけています。
展示を見終わって、何か物足りなさをを感じました。そうです、ミレーの有名な「落ち穂拾い」が展示されていませんでした。「落ち穂拾いは」ボストン美術館のコレクションには無いのですね。
美術館3Fから中庭を望む
美術館の後、皇居東御苑内を散策しました。
先週、皇居乾通りの特別公開がされていましたが、東御苑は、乾通りの東側に位置します。
日没前の最後の夕陽に紅葉が照らされています。
東御苑北側の平川門から退出しました。
散歩会の忘年会
END
散歩会、武相荘(旧白洲次郎の居宅)の見学 [散歩会]
2014/10/04(土) 取材
町田市能ヶ谷にある武相荘(ぶあいそう)に行って来ました。(最寄駅は、小田急線鶴川駅)
武相荘は、白洲次郎が昭和18年から、妻の正子さんと住んだ家です。
白洲次郎は、戦後、吉田茂首相に請われてGHQとの折衝にあたりましたが、GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日本人」と言われたように、敗戦した日本のなかで、日本人の誇りをたもった、骨のある人物です。
同時に、「最初にGパンを穿いた日本人」ともいわれ、ダンディな男でもありました。
数年前、NHKのドラマに取り上げられ、一般大衆に広く知られるようになりました。
#00、武相荘パンフレット表紙他
パンフレットの表紙は、長屋門の手前から母屋を望む写真を掲載しています。
またパンフレット三つ折りの、内側の扉に、次郎の娘さんの「ごあいさつ」(#00の右半分)が掲載されていますが、その一部をテキストでも表示します。
「<白洲邸武相荘オープンにあたって>父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに『武相荘』と名付け悦にいっておりました。武相荘とは,武蔵と相模の境にあるこの地に因んでまた、彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
<中略>
六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。
このたびいろいろな方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘を2001年10月にオープンいたしました。 牧山桂子」
#01、武相荘入口(1)
現在、駐車場と武相荘入口は、敷地の西側にあります。以前入口は敷地の東側にありました。今年の6月に駐車場を設置しましたが、これに伴って、入口も西に移動したようです。
#02、武相荘入口(2)
武相荘の駐車場の入り口は、牧山家(※)の入り口でもある。
※白洲次郎の娘の牧山桂子さんと旦那さんは武相荘の西側の別棟に住んでおられます。
#03、武相荘入口(3)
駐車場の東側の出入口。
#04、武相荘へのアプローチ
#05、チケット売り場から長屋門を望む
武相荘は、農家を買い取り、改築して住んだとのこと。門の左手前は、現在、車庫と休憩所になっているが、かつては、馬小屋や農具置場に使われたものと思われます。
#06、次郎の愛車と同型車
この車は、1916年型ペイジSix-38という車で、次郎が17歳のときから乗りまわしていた愛車の同型車である。
ヴィンテージカーを展示している「ワクイイミュージアム」のご厚意で、ゆかりのある武相荘で展示している由。
※車の左の説明パネルの文章は、光の反射で読みずらいですが、分かる限り読み込んだ文章を、文末に掲示しました。
#07、同上運転席
クラシックカーに詳しくないので、ハンドルの内側の楕円形のミニハンドルと右手の上向きのレバーが何の操作に使われるのか分からなかった。
#08、同上右から撮影
#09、長屋門
長屋門の右側の建物は、第2ギャラリー。
#10、お茶処
9月からお茶処は改装工事の為、暫く、休みとのこと。
右側に一寸見える建物は第2ギャラリーで高床式建物です。
#11、母屋と第一ギャラリー
左の建物が母屋で、右の建物の1階が第1ギャラリーとなっています。第1ギャラリーはビデオサロンとなっています。
#12、母屋(東側から撮影)
母屋は、茅葺です。
#13、母屋(正面から撮影)
#14、書斎
室内は、書斎のみ撮影OKで、その他のところは、撮影禁止でした。
その他の部屋には、食器や着物が展示されていました。
#15、散策路
建物の西側が小山になっていて、そこに周回路つけられていて、散策出来るようになっています。
数年前、白洲次郎のドラマが放映されていた頃は、多数の見学者があったそうです。この日は土曜日の午前中でしたが、来客は、我々を含め3組ほどで、じっくり見学出来ました。入場料は1,050円です。
白洲次郎ファンの方、古民家ファンの方、是非訪れてみてください。
*********************************
展示車の説明文の解読結果
1916 PAIGE Six-38 5-Passenger Car by Fleetwood
フリートウッド製5座席ツーリングカー
英国ケンブリッジ大学に留学する以前、神戸一中■■■■■■17歳の■■■■■■白洲■■■初め■買い与え■■■■■■■。
同型車Six-38は、1915年大型口気筒モデル"Six一■■の縮小版で、主にオーナードライバー(運転手つきでなく)向けに制作されたモデルです。エンジンは水冷直列6気筒の3.7リッターを搭載しボディはのちにキャデラックと■■な■■をもつことになる名門ボディエ房フリートウッドが製作したもので■■■■■■スポーティな■■■て。
そして当時としてはかなりモダーンなスタイル■■■■2008~9年に放映されたNHKドラマスペシャル■■■■■次郎出演のために、英国の名門クラブ"ヴィンテージ・スポーツカー・クラ■■■■■■■■■■■もの。車輪などのごく一部の例外を除いては、神戸時代の次郎が愛用していた■■■とほぽ同一の仕様となっており、少年期の次郎が当時最先端のモータリズムに惹かれた時代の息吹を生き生きと■■させる一台と言えます。
この展示車は、白洲次郎が英国留学時代(1934~28年)に実際に愛用していた1924年型ベントレー■リッターと■■■吉田茂元首相が愛用していた1937Rolls-Royce25/30HPSporto Saloon等貴重なヴィンテージカーを展示していることでも知られる埼玉・加須「ワクイミュージアム」のご厚意により展示しています。
注)■・・・パネル面の光の反射で判読不能な部分(文字数も正確では無い)
***********************************
END
町田市能ヶ谷にある武相荘(ぶあいそう)に行って来ました。(最寄駅は、小田急線鶴川駅)
武相荘は、白洲次郎が昭和18年から、妻の正子さんと住んだ家です。
白洲次郎は、戦後、吉田茂首相に請われてGHQとの折衝にあたりましたが、GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日本人」と言われたように、敗戦した日本のなかで、日本人の誇りをたもった、骨のある人物です。
同時に、「最初にGパンを穿いた日本人」ともいわれ、ダンディな男でもありました。
数年前、NHKのドラマに取り上げられ、一般大衆に広く知られるようになりました。
#00、武相荘パンフレット表紙他
パンフレットの表紙は、長屋門の手前から母屋を望む写真を掲載しています。
またパンフレット三つ折りの、内側の扉に、次郎の娘さんの「ごあいさつ」(#00の右半分)が掲載されていますが、その一部をテキストでも表示します。
「<白洲邸武相荘オープンにあたって>父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに『武相荘』と名付け悦にいっておりました。武相荘とは,武蔵と相模の境にあるこの地に因んでまた、彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
<中略>
六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。
このたびいろいろな方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘を2001年10月にオープンいたしました。 牧山桂子」
#01、武相荘入口(1)
現在、駐車場と武相荘入口は、敷地の西側にあります。以前入口は敷地の東側にありました。今年の6月に駐車場を設置しましたが、これに伴って、入口も西に移動したようです。
#02、武相荘入口(2)
武相荘の駐車場の入り口は、牧山家(※)の入り口でもある。
※白洲次郎の娘の牧山桂子さんと旦那さんは武相荘の西側の別棟に住んでおられます。
#03、武相荘入口(3)
駐車場の東側の出入口。
#04、武相荘へのアプローチ
#05、チケット売り場から長屋門を望む
武相荘は、農家を買い取り、改築して住んだとのこと。門の左手前は、現在、車庫と休憩所になっているが、かつては、馬小屋や農具置場に使われたものと思われます。
#06、次郎の愛車と同型車
この車は、1916年型ペイジSix-38という車で、次郎が17歳のときから乗りまわしていた愛車の同型車である。
ヴィンテージカーを展示している「ワクイイミュージアム」のご厚意で、ゆかりのある武相荘で展示している由。
※車の左の説明パネルの文章は、光の反射で読みずらいですが、分かる限り読み込んだ文章を、文末に掲示しました。
#07、同上運転席
クラシックカーに詳しくないので、ハンドルの内側の楕円形のミニハンドルと右手の上向きのレバーが何の操作に使われるのか分からなかった。
#08、同上右から撮影
#09、長屋門
長屋門の右側の建物は、第2ギャラリー。
#10、お茶処
9月からお茶処は改装工事の為、暫く、休みとのこと。
右側に一寸見える建物は第2ギャラリーで高床式建物です。
#11、母屋と第一ギャラリー
左の建物が母屋で、右の建物の1階が第1ギャラリーとなっています。第1ギャラリーはビデオサロンとなっています。
#12、母屋(東側から撮影)
母屋は、茅葺です。
#13、母屋(正面から撮影)
#14、書斎
室内は、書斎のみ撮影OKで、その他のところは、撮影禁止でした。
その他の部屋には、食器や着物が展示されていました。
#15、散策路
建物の西側が小山になっていて、そこに周回路つけられていて、散策出来るようになっています。
数年前、白洲次郎のドラマが放映されていた頃は、多数の見学者があったそうです。この日は土曜日の午前中でしたが、来客は、我々を含め3組ほどで、じっくり見学出来ました。入場料は1,050円です。
白洲次郎ファンの方、古民家ファンの方、是非訪れてみてください。
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展示車の説明文の解読結果
1916 PAIGE Six-38 5-Passenger Car by Fleetwood
フリートウッド製5座席ツーリングカー
英国ケンブリッジ大学に留学する以前、神戸一中■■■■■■17歳の■■■■■■白洲■■■初め■買い与え■■■■■■■。
同型車Six-38は、1915年大型口気筒モデル"Six一■■の縮小版で、主にオーナードライバー(運転手つきでなく)向けに制作されたモデルです。エンジンは水冷直列6気筒の3.7リッターを搭載しボディはのちにキャデラックと■■な■■をもつことになる名門ボディエ房フリートウッドが製作したもので■■■■■■スポーティな■■■て。
そして当時としてはかなりモダーンなスタイル■■■■2008~9年に放映されたNHKドラマスペシャル■■■■■次郎出演のために、英国の名門クラブ"ヴィンテージ・スポーツカー・クラ■■■■■■■■■■■もの。車輪などのごく一部の例外を除いては、神戸時代の次郎が愛用していた■■■とほぽ同一の仕様となっており、少年期の次郎が当時最先端のモータリズムに惹かれた時代の息吹を生き生きと■■させる一台と言えます。
この展示車は、白洲次郎が英国留学時代(1934~28年)に実際に愛用していた1924年型ベントレー■リッターと■■■吉田茂元首相が愛用していた1937Rolls-Royce25/30HPSporto Saloon等貴重なヴィンテージカーを展示していることでも知られる埼玉・加須「ワクイミュージアム」のご厚意により展示しています。
注)■・・・パネル面の光の反射で判読不能な部分(文字数も正確では無い)
***********************************
END
台湾の珍なるデザート・愛玉子(オーギョーチイ) [散歩会]
2014/07/03(木) 取材
2014/07/21(月) アップ
7月の上旬の記事で、大分遅くなってしまいましたが、せっかく取材したのでアップします。
この日は、きたろうが世話役をしている、散歩会でした。メイン企画は、東京国立博物館で開催されている「台北故宮博物院・神品至宝」の見学です。
東京国立博物館のチケット売り場に行って、驚きました。なんと200分待ちでした。入場はあきらめて、この近辺、上野・谷中辺りの散策を行うことにしました。
メンバーの一人から「愛玉子(オーギョーチイ)」へ行こうとの提案があり、行きました。
#01、愛玉子(オーギョーチイ)お店外観
※画面下半分のポスターは、はめ込み合成です。
國立故宮博物院 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-3100.htmlより引用
愛玉子は、台湾のスイーツで、その名前をそのまま店名にしていました。きたろうも何かの、TVの散歩情報番組で見たことがありました。
#02、愛玉子(オーギョーチイ)
これが愛玉子(オーギョーチイ)です。寒天状の本体は、無味で(ほんのわずかエグミのような異味あり)食感は、寒天とゼリーの中間のような食感(ゼリーの方に近い)でした。シロップはレモン系のシロップでした。ただ、残念なことに、このスイーツ全体が常温でなまぬるかったことです。台湾で、常温で出すのかどうかは分かりませんが、日本では、冷して出してもらいたいところです。
#03、愛玉子店内
昭和9年創業とのことです。
#04~05、愛玉子説明文
何かの雑誌の切り抜きと思われる。これを、カード・ケースに入れて、テーブルの上に置いてあった。
#06、愛玉子の原料の木の実
これを、水の中でもむと、粘液がが出て来て、これを寒天状に固めた物が愛玉子である。
#07、愛玉子説明文(メニュー)
愛玉子も400円(税込)でした。
#08、散歩会・記念撮影
END
2014/07/21(月) アップ
7月の上旬の記事で、大分遅くなってしまいましたが、せっかく取材したのでアップします。
この日は、きたろうが世話役をしている、散歩会でした。メイン企画は、東京国立博物館で開催されている「台北故宮博物院・神品至宝」の見学です。
東京国立博物館のチケット売り場に行って、驚きました。なんと200分待ちでした。入場はあきらめて、この近辺、上野・谷中辺りの散策を行うことにしました。
メンバーの一人から「愛玉子(オーギョーチイ)」へ行こうとの提案があり、行きました。
#01、愛玉子(オーギョーチイ)お店外観
※画面下半分のポスターは、はめ込み合成です。
國立故宮博物院 http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-3100.htmlより引用
愛玉子は、台湾のスイーツで、その名前をそのまま店名にしていました。きたろうも何かの、TVの散歩情報番組で見たことがありました。
#02、愛玉子(オーギョーチイ)
これが愛玉子(オーギョーチイ)です。寒天状の本体は、無味で(ほんのわずかエグミのような異味あり)食感は、寒天とゼリーの中間のような食感(ゼリーの方に近い)でした。シロップはレモン系のシロップでした。ただ、残念なことに、このスイーツ全体が常温でなまぬるかったことです。台湾で、常温で出すのかどうかは分かりませんが、日本では、冷して出してもらいたいところです。
#03、愛玉子店内
昭和9年創業とのことです。
#04~05、愛玉子説明文
何かの雑誌の切り抜きと思われる。これを、カード・ケースに入れて、テーブルの上に置いてあった。
#06、愛玉子の原料の木の実
これを、水の中でもむと、粘液がが出て来て、これを寒天状に固めた物が愛玉子である。
#07、愛玉子説明文(メニュー)
愛玉子も400円(税込)でした。
#08、散歩会・記念撮影
END
下町クルーズ(日本橋川⇄隅田川⇄神田川)そのⅡ(復路) [散歩会]
2014/05/06(火) 取材
前回、往路からの続きです。
船は、聖橋の一寸上流でUターンしました。
#15-1、Uターン後聖橋を通過したところ(11時08分)
画面右上に覆いかぶさっている橋は、地下鉄丸ノ内線の鉄橋です。
#15-2、復路のコース図
#16、万世橋(下流より)(11時11分)
#17、柳橋を通過し再び隅田川へ(11時21分)
ここから隅田川下流へ向かわず、一旦上流へ舵を切りました。JRの鉄橋の先、蔵前橋の手前で、Uターンして下流へ向かいました。
#18、清洲橋と東京スカイツリー(下流側から)(11時33分)
#19-1、永代橋(上流から)(11時38分)
船は永代橋を下流方向に通過してからUターンし、再び永代橋をくぐって日本橋川に向かいました。
下流から上流に向けて永代橋をくぐった瞬間、はっとしました。本ブログのメインテーマ、広重の「名所江戸百景」の春の景「永代橋佃しま」(#19-2)を描いたアングルそのものであることに気付いたからです。
#19-2、歌川広重画・名所江戸百景・春四景「永代橋佃しま」
歌川広重が安政四年(1857年)に永代橋の下辺りから佃島方向を描いた絵である。漁火は、白魚漁の漁火で、遠くに茅葺の家が2棟建っている所が佃島である。この時から150年~160年経過した今日の橋と建物の変化は正に隔世の感がします。
#20、日本橋川へ入り豊海橋(上流より)(11時39分)
再び、隅田川から日本橋川に入りました。
#21、湊橋(上流より)(11時41分)
#22、鎧橋(上流より)(11時43分)
画面奥の緑っぽい色の橋は、茅場橋。この辺りから、高速道が日本橋川の上に覆いかぶさって来ます。
鎧橋の辺りも、広重の名所江戸百景の舞台です。しかし、江戸時代ここに橋は無く、渡し船で両岸を結んでいました。「鎧の渡し小網町(夏四十六景)」(広重の絵は割愛します。)
#23、江戸橋(上流から)(11時45分)
#24、終点日本橋(下流から)(11時46分)
ほぼ定刻どおりに日本橋乗船場に戻って来ました。「!」のマークは、「航行注意」の標識。
#25、日本橋の船着場に下船(11時50分)
この後、日本橋・京橋方面へ史跡めぐりへ出発しました。
前回、往路からの続きです。
船は、聖橋の一寸上流でUターンしました。
#15-1、Uターン後聖橋を通過したところ(11時08分)
画面右上に覆いかぶさっている橋は、地下鉄丸ノ内線の鉄橋です。
#15-2、復路のコース図
#16、万世橋(下流より)(11時11分)
#17、柳橋を通過し再び隅田川へ(11時21分)
ここから隅田川下流へ向かわず、一旦上流へ舵を切りました。JRの鉄橋の先、蔵前橋の手前で、Uターンして下流へ向かいました。
#18、清洲橋と東京スカイツリー(下流側から)(11時33分)
#19-1、永代橋(上流から)(11時38分)
船は永代橋を下流方向に通過してからUターンし、再び永代橋をくぐって日本橋川に向かいました。
下流から上流に向けて永代橋をくぐった瞬間、はっとしました。本ブログのメインテーマ、広重の「名所江戸百景」の春の景「永代橋佃しま」(#19-2)を描いたアングルそのものであることに気付いたからです。
#19-2、歌川広重画・名所江戸百景・春四景「永代橋佃しま」
歌川広重が安政四年(1857年)に永代橋の下辺りから佃島方向を描いた絵である。漁火は、白魚漁の漁火で、遠くに茅葺の家が2棟建っている所が佃島である。この時から150年~160年経過した今日の橋と建物の変化は正に隔世の感がします。
#20、日本橋川へ入り豊海橋(上流より)(11時39分)
再び、隅田川から日本橋川に入りました。
#21、湊橋(上流より)(11時41分)
#22、鎧橋(上流より)(11時43分)
画面奥の緑っぽい色の橋は、茅場橋。この辺りから、高速道が日本橋川の上に覆いかぶさって来ます。
鎧橋の辺りも、広重の名所江戸百景の舞台です。しかし、江戸時代ここに橋は無く、渡し船で両岸を結んでいました。「鎧の渡し小網町(夏四十六景)」(広重の絵は割愛します。)
#23、江戸橋(上流から)(11時45分)
#24、終点日本橋(下流から)(11時46分)
ほぼ定刻どおりに日本橋乗船場に戻って来ました。「!」のマークは、「航行注意」の標識。
#25、日本橋の船着場に下船(11時50分)
この後、日本橋・京橋方面へ史跡めぐりへ出発しました。
下町クルーズ(日本橋川⇄隅田川⇄神田川)そのⅠ(往路) [散歩会]
2014/05/06(火) 取材
かねてから、乗って見たいと思っていた、下町クルーズに行って来ました。
きたろうが世話人をやっている、散歩会として企画しました。
#01、日本橋乗船場(9時13分)
乗船する船は、先着順で乗船するシステムなので、順番取りで早めに来ました。(まだ、船会社の係員しかいませんでした)
#02、コース図(小型遊覧船カワセミ)
カワセミのコースは、日本橋乗船場を出発し、日本橋川をくだり、隅田川をのぼって、神田川に入り、聖橋付近でUターンして、日本橋に戻るというコースです。
図は 「下町っ子の上の空」さんのブログ
( http://splash.blog.jp/archives/51932347.html)から、お借りしましたm(__)m
#03、「カワセミ」に乗船(10時25分)
定員は約70名ほどとのこと。トイレはあります。
#04、日本橋を出発(10時31分)
10時30分定刻通り出発しました。このアングルから日本橋を見るのは、はじめてでした。
やはり、首都高速の圧迫感を感じます。
#05、湊橋通過(10時36分)
首都高は、この橋のちょっと上流で右の方に曲がり、ここから首都高の圧迫から解放されます。
#06、豊海橋
日本橋川の最下流に架かる橋。ここから、隅田川をのぼっていきます。
※但し、この写真は、復路で撮影したものです。
#07、永代橋(10時39分)
日本橋川から隅田川に入り、左へ90°曲がって隅田川をのぼって行きます。隅田川に入ると、船の揺れはやや大きくなります。
後方のビル群は、佃島の高層マンション群。
#08、隅田川大橋(10時40分)
船には、スピードメーターはないとのことであるが、小型船なので、水面が近く、揺れながら進む独特のスピードが心地よかった。
#09、清洲橋(10時42分)
優美な、逆アーチの清洲橋。絵になります!!
#10、両国橋・総武線鉄橋&東京スカイツリー(10時52分)
ここから、左へ進路を変えて、神田川を遡っていきますが、その前に、東京スカイツリーの眺望のためこの場所にちょっとの間停泊します。
あいにくの、天気のため、東京スカイツリーは丁度展望台の辺りから上は、雲に隠れていました。
#11、柳橋(10時54分)
柳橋は神田川に入ってすぐの橋。この橋から次の浅草橋迄は、両岸に屋形船がびっしりと係留されています。
#12、万世橋(11時02分)
秋葉原電気街の南端にある橋。右側のレンガは、旧万世橋駅の、駅舎の一部で、1年位前からお店が入るようになった。
この橋は、数年前まで、通勤で毎日渡った懐かしい橋です。
#13、昌平橋(11時03分)
本ブログのメインテーマ「広重の名所江戸百景」の、「昌平橋聖堂神田川」の舞台となった橋です。
#14、聖橋(11時04分)
#13の広重の絵の題になっている「聖堂」(孔子を祀ったお堂)に通ずる橋なので名ずけられた橋。
現在、橋の上流部分で、なにやらいろいろ工事がされていました。
船は、聖橋の上流で、Uターンし、復路を引き返して行きます。
(続く)
かねてから、乗って見たいと思っていた、下町クルーズに行って来ました。
きたろうが世話人をやっている、散歩会として企画しました。
#01、日本橋乗船場(9時13分)
乗船する船は、先着順で乗船するシステムなので、順番取りで早めに来ました。(まだ、船会社の係員しかいませんでした)
#02、コース図(小型遊覧船カワセミ)
カワセミのコースは、日本橋乗船場を出発し、日本橋川をくだり、隅田川をのぼって、神田川に入り、聖橋付近でUターンして、日本橋に戻るというコースです。
図は 「下町っ子の上の空」さんのブログ
( http://splash.blog.jp/archives/51932347.html)から、お借りしましたm(__)m
#03、「カワセミ」に乗船(10時25分)
定員は約70名ほどとのこと。トイレはあります。
#04、日本橋を出発(10時31分)
10時30分定刻通り出発しました。このアングルから日本橋を見るのは、はじめてでした。
やはり、首都高速の圧迫感を感じます。
#05、湊橋通過(10時36分)
首都高は、この橋のちょっと上流で右の方に曲がり、ここから首都高の圧迫から解放されます。
#06、豊海橋
日本橋川の最下流に架かる橋。ここから、隅田川をのぼっていきます。
※但し、この写真は、復路で撮影したものです。
#07、永代橋(10時39分)
日本橋川から隅田川に入り、左へ90°曲がって隅田川をのぼって行きます。隅田川に入ると、船の揺れはやや大きくなります。
後方のビル群は、佃島の高層マンション群。
#08、隅田川大橋(10時40分)
船には、スピードメーターはないとのことであるが、小型船なので、水面が近く、揺れながら進む独特のスピードが心地よかった。
#09、清洲橋(10時42分)
優美な、逆アーチの清洲橋。絵になります!!
#10、両国橋・総武線鉄橋&東京スカイツリー(10時52分)
ここから、左へ進路を変えて、神田川を遡っていきますが、その前に、東京スカイツリーの眺望のためこの場所にちょっとの間停泊します。
あいにくの、天気のため、東京スカイツリーは丁度展望台の辺りから上は、雲に隠れていました。
#11、柳橋(10時54分)
柳橋は神田川に入ってすぐの橋。この橋から次の浅草橋迄は、両岸に屋形船がびっしりと係留されています。
#12、万世橋(11時02分)
秋葉原電気街の南端にある橋。右側のレンガは、旧万世橋駅の、駅舎の一部で、1年位前からお店が入るようになった。
この橋は、数年前まで、通勤で毎日渡った懐かしい橋です。
#13、昌平橋(11時03分)
本ブログのメインテーマ「広重の名所江戸百景」の、「昌平橋聖堂神田川」の舞台となった橋です。
#14、聖橋(11時04分)
#13の広重の絵の題になっている「聖堂」(孔子を祀ったお堂)に通ずる橋なので名ずけられた橋。
現在、橋の上流部分で、なにやらいろいろ工事がされていました。
船は、聖橋の上流で、Uターンし、復路を引き返して行きます。
(続く)
とても珍しい農業用水関連施設(溝ノ口の円筒分水) [散歩会]
2012/07/01(日)取材
2012/07/07(土)アップ
7月1日、溝ノ口・前田ホールへ午後からのコンサートで出かける予定でした。例によって、午前中、最寄りの溝ノ口駅近辺の散策をしようと思い、ネットで調べて見ました。そしたら、駅から北西方向約1kmのところに「円筒分水」というものがあることが判りました。
地図で確認すると、丸い貯水池のような感じのものでした。しかし、「円筒分水」という単語からは、これが、何を意味するのかは、全く想像出来ませんでした。ただし、円筒分水については、これ以上追及せず(現地確認の楽しみのため)、他の神社仏閣等の散策候補地を数か所セレクトし、きたろう独自の散策マップを前夜に作製しました。
当日、駅を降りると、早速「円筒分水」の案内板が目につきました。ということは、溝ノ口駅の近辺はこの「円筒分水」が最大の売りであると想像されました。
途中、溝口神社で、本日のミニミニトリップの安全を祈願しました。
写真#01、久地円筒分水案内板(川崎市高津区久地1-24 傍)
途中、円筒分水の案内板があり、円筒分水の正体が何であるか期待は高まりました。
写真#02、円筒分水・中心部拡大(北側から撮影)
円筒分水は、一見公園等で良く見かける円形の噴水池の噴水装置の無いような感じの施設でした。
(以下、円筒分水は円筒分水施設と呼称します)
#03、川崎市高津区久地、円筒分水施設近辺の地図
#04、円筒分水施設の構造
この図は#03の地図のA地点(平瀬川堤)の下、円筒分水施設を囲む金網のところにある説明板の図です。
また、下記に、この説明板に書いてある説明文をそのまま掲載致します。
*********************************
国登録有形文化財 ニケ領用水久地円筒分水
(にかりょうようすいくじえんとうぶんすい)
この円筒分水と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。
内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例してー定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。
平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています。
*********************************
この、説明文はかなり簡潔です。簡潔すぎて良くわかりません。
さらにB地点にある説明板(写真#08)に書いてある文を次に掲載しました。
*********************************
二ケ領用水400年・久地円筒分水70年記念
平賀栄治顕彰碑
この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治(ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水された二ケ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出□からサイフオンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により、潅漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
以下省略
*********************************
この説明及び#04の構造図から、この円筒分水施設の設置理由およびその機能が良く理解できました。
次の#05から#07の写真で順次説明致します。
#05、円筒分水上流側、二ケ領用水と平瀬川
この、円筒分水施設は、上流二ケ領用水を、この近辺の4つの地区に分水する施設で、4つの地区の灌漑面積に正確に比例配分することが出来る設備でありました。
#06、二ケ領用水、円筒分水施設のための取水口(二ケ領用水上流側から撮影)
#05の写真で、中央二ケ領用水の大半は、平瀬川に流れ込みます。二ケ領用水の一部は、#06の円筒分水のための取水口から取り込まれ、平瀬川の下をくぐって、円筒分水施設中央部からサイフォンの原理で吹きだすとのことです。
#07、円筒分水で用水が灌漑面積に応じて水が分けられる原理
円筒分水施設のまんなかから吹きあがった用水は、各4つの地区の灌漑面積に応じて、円弧の角度が定められ、そこから、灌漑面積に応じた水量が流出するようになっています。
#08、川崎堀(二ケ領用水)出口
川崎堀は二ケ領用水の本流ということで、一般の地図のには「二ケ領用水」と書かれています。
#09、二ケ領用水400年・久地円筒分水70年記念・平賀栄治顕彰碑
この、顕彰碑に書いてある前半の部分は、#04の写真の項の説明で#04の説明の所に書きました。
この、顕彰碑の後半部分で、円筒分水を設計・施工した平賀栄治と言う方の業績を伝えています。当時、円筒分水施設は世界的にみても、大変ユニークな分水施設だったそうです。
顕彰碑・後半部
******************************
平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久池円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた。
2010(平成22)年3月27日
寄贈川崎西ライオンズクラブ
結成45周年記念事業
*********************************
#10、平賀栄治所長
http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/common/img/under_image.jpg
多摩川リバーミュージアム/多摩川先人館より転載
#11、円筒分水が造られた当時の写真(平瀬川上流方向から東方を望む)
水田畑作面積に応じて正確に分水出来る施設のお陰で、二ケ領用水をめぐる近隣の地区の水争いはなくなりました。
#12、円筒分水施設の下流(二ケ領用水)
現在、二ケ領用水はその用水としての役目は終えているそうです。
用水の両岸は、樹木等植樹されていて、散策路として整備されていました。
この、円筒分水施設は最近の散歩で出会った珍しいものの筆頭と思われました。久々に、興奮・感動しました^-^
2012/07/07(土)アップ
7月1日、溝ノ口・前田ホールへ午後からのコンサートで出かける予定でした。例によって、午前中、最寄りの溝ノ口駅近辺の散策をしようと思い、ネットで調べて見ました。そしたら、駅から北西方向約1kmのところに「円筒分水」というものがあることが判りました。
地図で確認すると、丸い貯水池のような感じのものでした。しかし、「円筒分水」という単語からは、これが、何を意味するのかは、全く想像出来ませんでした。ただし、円筒分水については、これ以上追及せず(現地確認の楽しみのため)、他の神社仏閣等の散策候補地を数か所セレクトし、きたろう独自の散策マップを前夜に作製しました。
当日、駅を降りると、早速「円筒分水」の案内板が目につきました。ということは、溝ノ口駅の近辺はこの「円筒分水」が最大の売りであると想像されました。
途中、溝口神社で、本日のミニミニトリップの安全を祈願しました。
写真#01、久地円筒分水案内板(川崎市高津区久地1-24 傍)
途中、円筒分水の案内板があり、円筒分水の正体が何であるか期待は高まりました。
写真#02、円筒分水・中心部拡大(北側から撮影)
円筒分水は、一見公園等で良く見かける円形の噴水池の噴水装置の無いような感じの施設でした。
(以下、円筒分水は円筒分水施設と呼称します)
#03、川崎市高津区久地、円筒分水施設近辺の地図
#04、円筒分水施設の構造
この図は#03の地図のA地点(平瀬川堤)の下、円筒分水施設を囲む金網のところにある説明板の図です。
また、下記に、この説明板に書いてある説明文をそのまま掲載致します。
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国登録有形文化財 ニケ領用水久地円筒分水
(にかりょうようすいくじえんとうぶんすい)
この円筒分水と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。
内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例してー定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。
平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています。
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この、説明文はかなり簡潔です。簡潔すぎて良くわかりません。
さらにB地点にある説明板(写真#08)に書いてある文を次に掲載しました。
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二ケ領用水400年・久地円筒分水70年記念
平賀栄治顕彰碑
この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治(ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水された二ケ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出□からサイフオンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により、潅漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
以下省略
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この説明及び#04の構造図から、この円筒分水施設の設置理由およびその機能が良く理解できました。
次の#05から#07の写真で順次説明致します。
#05、円筒分水上流側、二ケ領用水と平瀬川
この、円筒分水施設は、上流二ケ領用水を、この近辺の4つの地区に分水する施設で、4つの地区の灌漑面積に正確に比例配分することが出来る設備でありました。
#06、二ケ領用水、円筒分水施設のための取水口(二ケ領用水上流側から撮影)
#05の写真で、中央二ケ領用水の大半は、平瀬川に流れ込みます。二ケ領用水の一部は、#06の円筒分水のための取水口から取り込まれ、平瀬川の下をくぐって、円筒分水施設中央部からサイフォンの原理で吹きだすとのことです。
#07、円筒分水で用水が灌漑面積に応じて水が分けられる原理
円筒分水施設のまんなかから吹きあがった用水は、各4つの地区の灌漑面積に応じて、円弧の角度が定められ、そこから、灌漑面積に応じた水量が流出するようになっています。
#08、川崎堀(二ケ領用水)出口
川崎堀は二ケ領用水の本流ということで、一般の地図のには「二ケ領用水」と書かれています。
#09、二ケ領用水400年・久地円筒分水70年記念・平賀栄治顕彰碑
この、顕彰碑に書いてある前半の部分は、#04の写真の項の説明で#04の説明の所に書きました。
この、顕彰碑の後半部分で、円筒分水を設計・施工した平賀栄治と言う方の業績を伝えています。当時、円筒分水施設は世界的にみても、大変ユニークな分水施設だったそうです。
顕彰碑・後半部
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平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久池円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた。
2010(平成22)年3月27日
寄贈川崎西ライオンズクラブ
結成45周年記念事業
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#10、平賀栄治所長
http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/common/img/under_image.jpg
多摩川リバーミュージアム/多摩川先人館より転載
#11、円筒分水が造られた当時の写真(平瀬川上流方向から東方を望む)
水田畑作面積に応じて正確に分水出来る施設のお陰で、二ケ領用水をめぐる近隣の地区の水争いはなくなりました。
#12、円筒分水施設の下流(二ケ領用水)
現在、二ケ領用水はその用水としての役目は終えているそうです。
用水の両岸は、樹木等植樹されていて、散策路として整備されていました。
この、円筒分水施設は最近の散歩で出会った珍しいものの筆頭と思われました。久々に、興奮・感動しました^-^