おかね塚(下) [きたろう散歩]

取材日、2019/05/26(日)
アップ日、2019/07/11(木)
3月6日、市川市押切12-31(前)の6差路にある史跡おかね塚を通りがかりに取材しました。そこには「行徳おかね塚の由来」という石碑がありましたが、それをてっきり「おかね塚」と誤認したまま前回ブログ・アップしてしまいました。
 今回、改めて、この史跡を取材しました。

#01、市川市押切の6差路の西端にあるおかね塚
#01行徳おかね塚2019年5月-001B.jpg


#02、石碑「行徳おかね塚の由来」
#02行徳おかね塚2019年5月-003.jpg
この石碑は、「ここに『おかね塚』が作られました。」という説明板ですが、「この一角のどこにおかね塚があるか」というようなことは書いてありませんでした。
この、由来碑の後方には、ブロック塀で囲われた中に、墓石や石仏がありました。
この取材の前に、WEBで若干調べたところ、「おかね塚は庚申塔」であるという記述が見られた。しかし、庚申塔がなんであるか良くわからないまま現地に行き、この一角にある、墓石、石仏を写真におさめました。

#03、石仏と複数の墓石
#03行徳おかね塚2019年5月-006.jpg


#04、墓所中央にある墓
#04行徳おかね塚2019年5月-007.jpg


#05、中央の墓は廣瀬家の墓
#05行徳おかね塚2019年5月-017.jpg


#06、廣瀬家の墓右後方の複数の墓石
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#07、廣瀬家の墓左後方の複数の墓石
#07行徳おかね塚2019年5月-022.jpg


#08、墓所、左手前にある石仏
#08和行徳おかね塚2019年5月-009.jpg


#09、石仏頭部
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#10、石仏上半身
#10行徳おかね塚2019年5月-015B.jpg


#11、石仏下半身
#11行徳おかね塚2019年5月-013B.jpg

これらの石仏、墓石には、いろいろ文字が書いてあるので、判読を試みましたが、墓石(中央の墓石除く)は苔むして、全く文字が見えませんでした。石仏にも、いろいろ文字が書いてありましたが、不鮮明で、判読は即、断念しました。
さて、これらの、墓石、石仏のどれがおかね塚なのか?ということであるが、この由来碑によれば、おかねさんのために墓を建てたように読み取れるし、ネットの情報では、庚申塔であると言うことだし、さっぱり見当がつきませんでした。
 取材日の二日後の5月28日に、たまたま郷土史の講座があったので、講師の方に、これらの写真を提示しながら、お話を伺ったところ、この左手にある石仏が庚申塔で、おかね塚と呼ばれているということや、この由来碑にある粗朶とは製塩に使うための薪であること、また、碑文を書いた綿貫喜郎氏は、数年前にお亡くなりになったことなどを教示していただきました。
 ただ、きたろうが疑念をもった、この由来碑の文章の信憑性については、はっきりした見解は、示して頂けませんでした。
この後、ネット上で、やや詳しく検索して見ましたが、ネット上の情報は、自身で調べたという情報はなく、何らかの情報の孫引きで、もやもや感が残りました。
 6月14日、市川中央図書館に行き、綿貫喜郎氏、宮崎長蔵氏共著の「行徳物語」を当たったところ、第3章「今と昔」に「おかね塚とお経塚」という項目があり、おかね塚についての言及がありました。(この部分の文章は、末尾に掲載)
 由来碑を書いた綿貫喜郎氏(宮崎長蔵氏共著)の著書でも、この石仏が、おかねさんの朋輩がお金を出しあって建てたものというより、「地元の伝承としてこのようなことが伝わっている」というような書き方で、史実であるとの判断は避けているように感じました。

#12、おかね塚由来碑の背面
#12行徳おかね塚2019年5月-021.jpg


#13、おかね塚由来碑の背面の拡大
#13行徳おかね塚2019年5月-019.jpg


由来碑は、おかねさんの悲運を哀れんで供養してきた地元の方々の伝承を後世に伝えるため、地元の有志によって昭和51年6月に建てられました。
信憑性が疑問視されるような伝承にこんな立派な由来碑を作ってしまうという、有志の方々に感心せざるを得ませんでした。
本文END

宮崎長蔵・綿貫喜郎共著「行徳物語」※、第3章 今と昔、「おかね塚とお経塚」より
 ◆おかね塚とお経塚◆
 行徳には、江戸時代初期の石造物がかなり残されている。その中でも押切にある《おかね塚》と新井にある《お経塚》には、それぞれ伝説が結びつけられ、人びとに語り継がれてきた。
 押切には船だまりがあって、五大木とよばれる小さな漁船の溜り場となっていた。ここには江戸時代の中ごろから、製塩に使われる燃料の粗朶(薪)が上総方面から運ばれ、定期的に五大力船とよぶ荷物の輸送船が停泊するようになった。
 こうした船の船頭や、人夫のなかには、停泊中に江戸の吉原(遊郭街)まで遊びに行く者もいた。そんな者たちのひとりが、かねという遊女と親しくなり、ついに夫婦の約束を交わしてしまった。
 船頭との約束をかたく信じたかねは、年季が明けるとすぐ押切に来て、上総からたきぎを運んでくる船頭に会えるのを楽しみに、ひたすら持ちこがれていた。

 しかし、いつまで持ってもその船頭は現われなかった。かねは蓄えたお金もすっかりつかい果たしてしまったが、それでも船頭がやって来るのを諦めず、村人たちに物乞いしながら、船だまりにある松の木蔭で待ち続けた。だが、かねもそのうち疲れ果ててしまい、ついにその松の木の下で帰らぬ人となってしまった。

 このことを伝え聞いた吉原の遊女たち百余人は、かねの純情な気持ちを哀れみ、わずかずつの金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちも、この薄幸なかねのために花や線香を供え、これを《おかね塚》と名づけて今日まで供養を続けてきた。
 しかし、このように人びとに語り伝えられてきた《おかね塚》の碑だが、はたしてこれは、本当に遊女かねのために建てられたものだろうか?
 実は、この碑は、今から三百十数年前の寛文五年十月十五日に建てられたもので、押切部落の人たちによる庚申信仰のための庚申塔だったのである。
 舟形の光背に如来像を彫り出した実に立派な石像で、その下部周辺には百余名の名前が刻まれている。その名前も、片仮名で彫った女の名前が目立っているところから、おそらく遊女百余人の伝説が生まれてきたものだろう。とにかく、船頭と遊女にまつわる話が数ある中でも、悲恋に終わった純情な遊女かねのことは、強く村びとの心をとらえたできごとだったに違いない。それがいつしか、女性の名前がたくさん彫られた庚申塔と結びついて、今日まで供養されて来たものと思われる。
 真実はともかくとして、地下鉄東西線の出現とともに、行徳も新しく生まれ変わった今日では、もはや、この話を知る人も少なくなった。やがては人びとの心の中からも消え去る運命にあったが、たとえ遊女のかりそめの恋物語でも、語り伝え供養をしてきた人たちの心を後世に残そうと、このほど地元有志によって改めて「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が建てられた。
※昭和52年10月15日初版発行、発行所 市川新聞社、発売元飯塚書房 東京都千代田区神田神保町

<再掲>郷土史研究家・綿貫喜郎氏(市川市曽谷公民館にて、2009年10月11日撮影)
#05綿貫喜郎氏曽谷公民館にて.jpg


●訂正&補足
この石碑に書いてある文章(写真から解読)
前回、「おかね塚(上)」で記述した「行徳おかね塚の由来」の10行目
『待つこと久し、されば蓄へし銭も散じ遂には路頭に食を□□』の□□部分は、「乞う」であることが判明しました。
また、碑文の末尾の署名が前回では、
「綿貫喜郎」となっていましたが、正しくは「綿貫喜郎誌」で、訂正いたします。


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