第18回(その2)、真間の紅葉手古那の社継ぎはし(ままのもみじてこなのやしろつぎはし)(秋94景)兼きたろう散歩(弘法寺の紅葉・Ⅱ) [広重・名所江戸百景]

2011/12/14(水)アップ
2011/12/4(日)取材

その1では、真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)、手児奈霊堂(てこなれいどう)、継橋(つぎはし)等の歴史や伝承を紹介致しました。
今回は、これら建造物の現在その他を紹介致します。

#02-B、広重・秋94景の絵と現在の風景
#02-B広重秋94景・現代の再現.jpg
左は1857年に描かれた絵、右は154年後の2011年に撮った写真

広重の絵と同視点の現代の写真を並べて見ました。広重の絵で手前の二股の木は楓ですが右の写真の木は残念ながら桜です。広重の絵で、手児奈霊堂は左の楓の幹越しに小さく見えますが、写真では結構大きく写っています。写真では、絵に描かれている、紅葉(もみじ)、鳥居、真間の入り江に連なる水面、継橋及び遠くの山並は写っていません。

以下、この#02-Bの写真で写っていない建造物、樹木、地形を別撮りの写真で紹介します。

#03、真間山弘法寺の紅葉(ア)
#03真間山の紅葉ア49.jpg

江戸期から明治初期、弘法寺境内には楓の木が多数あり、紅葉の名所として知られていましたが明治21年(1888)1月15日の弘法寺の火事で本堂等と共に、ほとんどの楓の木が焼失してしまいました。
 現在、境内には楓の木は数本しかありません。前回、来たとき(11月27日)は、この木は紅葉していませんでした。11月下旬から12月上旬で冷え込んできて、これらの紅葉は一挙に進みました。

#04、真間山弘法寺の紅葉(イ)
#04真間山の紅葉イ44.jpg

 前回の「きたろう散歩(弘法寺の紅葉・Ⅰ)」(11月27日)で取り上げたこの木は、前回紅葉の真っ盛りでした。今回(12月4日)は、紅葉の真っ盛りは過ぎ、葉が半分ほど落ちていました。

#05、手児奈霊堂(本堂)
#05手児奈霊堂(本堂)30.jpg

 文亀元年(1501年)、弘法寺の日与上人が手児奈を祀ったお堂と伝えられています。日与が読経の最中に少女の霊が現われ(夢枕に現れたという伝承もある)、法華経に救われた恩に報いるためこの寺を守護すると告げます。日与はこれを手児奈の霊とし、霊堂を建てたそうです。安産・子育ての神として信仰されています。

#06、手児奈霊堂(西側参道から望む)
#06手児奈霊堂(正門から)26.jpg

 広重の絵には、手児奈霊堂の西側に鳥居が描いてあります。現在は、この写真のとおり霊堂の西側に鳥居はありません。
 江戸後期の画家・谷文晁によって文化4年(1807)頃描かれた『隅田川鴻台真景図鑑』の中に弘法寺近辺を描いた絵で、「其二山下手児女明神社」と云うのがあり、この頃は、手児奈姫は神としても祀られていた事がわかります。そのため、お堂の西に鳥井があったのでしょう。

#07、継橋(南側から望む)
#07継はし(石碑)15.jpg

 真間の継ぎ橋は、万葉の時代、この地域にたくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が継橋だったと考えられています。現在はコンクリートの橋に金属製の赤い欄干の小さな橋が架かっているだけです。
(継橋の詳しい説明は(その1)をご覧ください)
 広重の絵では、砂州や水面が描かれていますが、現在は継橋の南約100mの所を、川幅約15mの真間川が東西に流れているだけです。

#08、継橋パノラマ写真(北側から望む)
#08継はし(パノラマ).jpg
※写真をクリックして拡大表示の上、左右にスクロールしてご覧下さい。

写真中央の、白い板は、市川市教育委員会の「継橋」の説明板、写真右の方の、郵便受け状の箱は、俳句の受付BOXです。

#09秩父の山並
#09秩父の山並63.jpg

 広重の絵の、正面に描かれている山並ですが、弘法寺から手児奈霊堂や継橋の方向(南方向)に、このような山並はありません、南南東の方向に、房総半島南端の山並は見えますが、房総の山の高さは、300~400mと低く、この絵のように高い山並ではありません。
 写真#09は、この日の夕方江戸川沿いから見た秩父の山並ですが、広重が描いた山並と似ています。秩父の山並は、高さ2,000m級の山もあり、西方に見えますが、広重は、遠景の山を実際見えるところから、移動することを良くやります。恐らく、西側に見える秩父の山並を、正面南側に移動して描いたものと思われます。

END
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