さだまさし市川市ゆかりの地の探索Ⅱ(寺川邸・中)❖❖書き直し版❖❖ [きたろう散歩]
さだまさしのコンサートの記事をはさんだこともあり、本テーマの記事の投稿は久しぶりとなります。
前回アップした記事では、寺川家敷地内の寺川邸母屋、寺川邸離れの位置の推定で重大な誤認がありその記事は保留(没)としました。今回、新たに寺川邸母屋・離れの位置の推定を行ないました。これを『寺川邸・中❖❖書き直し版❖❖』としてアップいたします。(※2020-09-04 にアップした「(寺川邸(中))は今回、全面的に「没」とさせて頂きます。」
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2020年10月23日 アップ
さて、「寺川邸(上)」で、寺川邸の住所が「菅野町5丁目266番地」というところまで、探査しましたが、この住所は、旧住居表示の方式で、このままでは、現在の場所が特定できないので、現在の住居表示方式での住所を探りました。
◆◆寺川邸の住所の特定◆◆
#08、寺川邸の住所の特定①(市川市菅野)
寺川家の住所は、昭和41年(注)の住宅地図で「菅野町5丁目266番地」でした。
注)雅志君は、昭和42年から寺川家(離れ)で暮らしているので、昭和41年時点では、ここに住んでいません。
#09、寺川邸の住所の特定②
1999年のゼンリン電子地図で、上記寺川家の場所の住所を探索すると、新住居表示では「市川市菅野2-18-11」であることがわかりました。
◆◆寺川家敷地の特定◆◆
さて、改めて、さだまさし著「ちゃんぽん食べたかっ!」の寺川邸に関する記述を読んでみました。
まず、敷地1,000坪というのがどの程度のものか探りました。
この作業に先立ち、1966年の住宅地図に加え、1970年の住宅地図も入手しました。
#10、寺川邸付近の住宅地図(1966年、1970年)
1966年の住宅地図と1970年の住宅地図で、寺川家の占める面積は大分異なりますが、1999年版電子地図で概略の面積を算出しました。
その結果、1966年版では、寺川家の面積は1,406㎡=426坪、1970年版では240㎡=72坪と寺川家の敷地は、住宅地図上の「寺川家」の占める表示部分より、もっと広いことがわかります。
因みに、図#11で、寺川家を囲む道路の内側の面積を計測すると、3,251㎡=983坪であり、寺川家の敷地は、図#11の赤線で囲んだ部分であることがわかりました。
#11、寺川家の土地の境界線
◆◆寺川家母屋と離れの特定◆◆
雅志君が下宿していた、寺川家の離れに関する記述を、原作本から抜粋しました。
この記述から、寺川邸は、母屋、離れ(雅志君とその他の方が住んでいる)、8畳のプレハブ(次男が日中過ごしている)から構成されていることがわかりました。
注)以下便宜上、雅志君が住んでいた離れを「離れ①」、次男が日中過ごしているプレハブを「離れ②」と呼称します。
次に、広大な寺川家敷地の中で、母屋、離れがどこにあるかを探りました。
#10の1966年及び1970年の住宅地図では、寺川家が占める範囲が示されているだけで、母屋、離れ①・②の位置関係は不明でした。
そこで、建物のレイアウトや外形がはっきりわかる、1999年ゼンリン電子地図と1999年の住宅地図で、母屋と離れの位置を探ることにしました。
図12、寺川家、母屋、離れの位置
1999年の住宅地図に寺川家の母屋、離れ①、離れ②の位置が特定できるような情報が記載されていました。
1999年の住宅地図で、「寺川徳治」と表示されているところが、レイアウト上からも、寺川家の母屋であると推定されました。雅志君が暮らしていた離れ①は、原作本の『立派な母屋の廊下とL字型に繋がったこの立派な「離れ」には横に六畳、八畳、十畳と三つの部屋が並んでいた。』という記述から、図12右側の住宅地図の緑で示した建物であると推定されました。
さらに、離れ②は、原作本の『その勝手口を出たら、すぐ外に弟の力哉の部屋があった。部屋、といっても八畳間のいわゆるプレハブで、力哉は一日の大半をこのプレハブで過ごしているようだ。』という記述から、同住宅地図の青線で示した建物であると推定しました。
この推定結果で、雅志君が暮らしていた1970年の住宅地図を次のように再構成してみました。道路形状及び建物の外形は、縮尺の正確な1999年の住宅地図の情報を採用し、寺川家の母屋、離れ①・②の特定結果は上記の推定結果に基づきました。また、寺川家以外の建物の居住者名は、1970年の情報に基づきました。
#13、旧寺川家母屋・離れの特定(1970)
注)以上1966年、1970年、1999年の住宅地図を使用して、母屋、離れの位置関係を推定しましたが、(雅志君ここに住んでいた)1970年以降1999年までに、寺川家の母屋、離れが大幅な「建て替え」等なかったという前提で、寺川家の母屋、離れの位置やレイアウトを推定しました。
寺川家の住所、母屋と離れの位置関係等が明らかになったので、一応当初の目的は達成しましたが、この時点で、さらに、外環工事で消えてしまった、当時の寺川邸の写真がないか?という興味がふつふつと沸いて来ました。
自分自身でも、「このテーマはかなり難しいな」とは思いましたが、始めることにしました。
この件は次回で紹介いたします。
<続く>
前回アップした記事では、寺川家敷地内の寺川邸母屋、寺川邸離れの位置の推定で重大な誤認がありその記事は保留(没)としました。今回、新たに寺川邸母屋・離れの位置の推定を行ないました。これを『寺川邸・中❖❖書き直し版❖❖』としてアップいたします。(※2020-09-04 にアップした「(寺川邸(中))は今回、全面的に「没」とさせて頂きます。」
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2020年10月23日 アップ
さて、「寺川邸(上)」で、寺川邸の住所が「菅野町5丁目266番地」というところまで、探査しましたが、この住所は、旧住居表示の方式で、このままでは、現在の場所が特定できないので、現在の住居表示方式での住所を探りました。
尚、今回の記事は、かなりマニュアックなものなので、さらっと内容を知りたい方は、本ブログ末尾の#13の図と文章、及びさだまさし著「ちゃんぽん食べたかっ!」の寺川邸の記述に関する抜粋(#09の下及び#11の下の枠で囲んだ文章)を読んで頂ければ十分です。
◆◆寺川邸の住所の特定◆◆
#08、寺川邸の住所の特定①(市川市菅野)
寺川家の住所は、昭和41年(注)の住宅地図で「菅野町5丁目266番地」でした。
注)雅志君は、昭和42年から寺川家(離れ)で暮らしているので、昭和41年時点では、ここに住んでいません。
#09、寺川邸の住所の特定②
1999年のゼンリン電子地図で、上記寺川家の場所の住所を探索すると、新住居表示では「市川市菅野2-18-11」であることがわかりました。
◆◆寺川家敷地の特定◆◆
さて、改めて、さだまさし著「ちゃんぽん食べたかっ!」の寺川邸に関する記述を読んでみました。
市川市菅野の寺川邸はこの辺りでは有名な大きな家で、ちょうど日出(ひので)小学校の運動場のすぐ近くにある千坪ほどのお屋敷だった。敷地内には豊田通商の社宅などに使っている二軒のアパートが建っており、裏通りに面した駐車場もあった。立派な母屋の廊下とL字型に繋がったこの立派な「離れ」には横に六畳、八畳、十畳と三つの部屋が並んでいた。僕と叔父の洋は、この一番母屋に近い六畳間を間借りして一緒に住むことになったのだ。(第1章 中学生放浪記 P56)
まず、敷地1,000坪というのがどの程度のものか探りました。
この作業に先立ち、1966年の住宅地図に加え、1970年の住宅地図も入手しました。
#10、寺川邸付近の住宅地図(1966年、1970年)
1966年の住宅地図と1970年の住宅地図で、寺川家の占める面積は大分異なりますが、1999年版電子地図で概略の面積を算出しました。
その結果、1966年版では、寺川家の面積は1,406㎡=426坪、1970年版では240㎡=72坪と寺川家の敷地は、住宅地図上の「寺川家」の占める表示部分より、もっと広いことがわかります。
因みに、図#11で、寺川家を囲む道路の内側の面積を計測すると、3,251㎡=983坪であり、寺川家の敷地は、図#11の赤線で囲んだ部分であることがわかりました。
#11、寺川家の土地の境界線
◆◆寺川家母屋と離れの特定◆◆
雅志君が下宿していた、寺川家の離れに関する記述を、原作本から抜粋しました。
僕は市川市菅野の寺川家の離れの六畳間に暮らしていたが、この家には息子が二人いて、喧嘩ばかりしていた。長男の朔太郎と弟の力哉は、なぜかは解らないが仕事をしていないらしく、のべつ家にいた。 僕の部屋の前に母屋との仕切りの板戸があり、そこを開けて母屋に入ったすぐ右手が朔太郎の部屋だった。だから電話がかかってきた時は、朔太郎の部屋の前の広縁を通ってお母さんの暮らす居間の前を通り、玄関を左に見ながら脇を抜け、突き当たりの炊事場の右側の勝手口の近くに置いてある電話までゆく。その勝手口を出たら、すぐ外に弟の力哉の部屋があった。部屋、といっても八畳間のいわゆるプレハブで、力哉は一日の大半をこのプレハブで過ごしているようだ。 (第4章 不良生徒 167頁)
この記述から、寺川邸は、母屋、離れ(雅志君とその他の方が住んでいる)、8畳のプレハブ(次男が日中過ごしている)から構成されていることがわかりました。
注)以下便宜上、雅志君が住んでいた離れを「離れ①」、次男が日中過ごしているプレハブを「離れ②」と呼称します。
次に、広大な寺川家敷地の中で、母屋、離れがどこにあるかを探りました。
#10の1966年及び1970年の住宅地図では、寺川家が占める範囲が示されているだけで、母屋、離れ①・②の位置関係は不明でした。
そこで、建物のレイアウトや外形がはっきりわかる、1999年ゼンリン電子地図と1999年の住宅地図で、母屋と離れの位置を探ることにしました。
図12、寺川家、母屋、離れの位置
1999年の住宅地図に寺川家の母屋、離れ①、離れ②の位置が特定できるような情報が記載されていました。
1999年の住宅地図で、「寺川徳治」と表示されているところが、レイアウト上からも、寺川家の母屋であると推定されました。雅志君が暮らしていた離れ①は、原作本の『立派な母屋の廊下とL字型に繋がったこの立派な「離れ」には横に六畳、八畳、十畳と三つの部屋が並んでいた。』という記述から、図12右側の住宅地図の緑で示した建物であると推定されました。
さらに、離れ②は、原作本の『その勝手口を出たら、すぐ外に弟の力哉の部屋があった。部屋、といっても八畳間のいわゆるプレハブで、力哉は一日の大半をこのプレハブで過ごしているようだ。』という記述から、同住宅地図の青線で示した建物であると推定しました。
この推定結果で、雅志君が暮らしていた1970年の住宅地図を次のように再構成してみました。道路形状及び建物の外形は、縮尺の正確な1999年の住宅地図の情報を採用し、寺川家の母屋、離れ①・②の特定結果は上記の推定結果に基づきました。また、寺川家以外の建物の居住者名は、1970年の情報に基づきました。
#13、旧寺川家母屋・離れの特定(1970)
注)以上1966年、1970年、1999年の住宅地図を使用して、母屋、離れの位置関係を推定しましたが、(雅志君ここに住んでいた)1970年以降1999年までに、寺川家の母屋、離れが大幅な「建て替え」等なかったという前提で、寺川家の母屋、離れの位置やレイアウトを推定しました。
寺川家の住所、母屋と離れの位置関係等が明らかになったので、一応当初の目的は達成しましたが、この時点で、さらに、外環工事で消えてしまった、当時の寺川邸の写真がないか?という興味がふつふつと沸いて来ました。
自分自身でも、「このテーマはかなり難しいな」とは思いましたが、始めることにしました。
この件は次回で紹介いたします。
<続く>
2020-10-23 18:09
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コメント(6)
労作ですね。
市川市の地域の文化誌に発表できますね。
by 夏炉冬扇 (2020-10-24 07:47)
お早うございます、バガテル公園のバラにコメントを
有難うございました。
何十年も変わらない町は良いですが、
私が生まれた町は、丁目変更や
建物も変わり、住んで居た頃の面影は有りません。
古い地図を集められ、良く調べられましたね。
by tarou (2020-10-24 07:56)
私が生まれた年に さだまさしさんが菅野界隈に
住み始められたんですよね!
私の年上の親戚(はとこ)がここの学校に通っていたんです。
もしかしたらどこかでニアミスしていたかもと思うと感慨深いです。
市川市くらいの大きな市になると 市歴的な写真や当時の歴史が
まとめられたものが数冊刊行されているはずなんですが
市や県の図書館などに参考になるものがあればいいですね。^^
by ゆうのすけ (2020-10-24 11:52)
かつて市川市に住んでいましたので、興味深く、懐かしく読ませていただきました。
by やおかずみ (2020-10-25 15:15)
ご案内をいただいたのに、ここのところ出張続きで来訪が遅くなってしまい申し訳ありませんでしたが、
よくここまで資料を集め調べられましたね。その努力に脱帽・最敬礼の思いです。
それにしても、ここ数年の間に市川周辺、JR南口の再開発や外環の開通ですっかり変わってしまいましたね。
以前、地元のお得意様に連れられ行った居酒屋のおかみの、この変化で仲間の同業者が次々と店をたたんでいってしまったと、悲しげに語っていたそのお顔を思い出してしまいました。
by 老年蛇銘多親父(HM-Oyaji) (2020-10-29 15:00)
皆様、拙ブログへコメントありがとうございました<m(__)m>
今回のブログは、地図マニア的記事でしたが、次回は、写真中心の気軽に読める記事にする予定です。乞うご期待!
by きたろう (2020-10-30 23:14)