第18回(その1)、真間の紅葉手古那の社継ぎはし(ままのもみじてこなのやしろつぎはし)(秋94景) [広重・名所江戸百景]
2011/12/11(日)アップ
2011/12/4(日)取材
今回は、名所江戸百景シリーズです。”真間(まま)の紅葉”とは市川の真間(地名)のことで、ここにある日蓮宗の真間山弘法寺(ぐほうじ)が舞台になっています。一週間前(11月27日)にも取材に行きましたが、時期が早かったとためか、主要テーマのもみじが色づいていなかったので”名所江戸百景シリーズ”にはしないで、きたろう散歩としてアップしました。
#01、真間の紅葉手古那の社継はし(広重画)(秋94景)
安政4年(1857)正月
さて、”真間の紅葉”ですが、真間はこの辺の地名で、現在もこの地名は残っています。因みに、”まま”とは崖のことで、昔、この辺は江戸川から入り江が入り込み、崖状の地形があったので、真間という地名になりました。
真間の弘法寺は、江戸時代から紅葉の名所として知られ、秋の紅葉狩りシーズンには、江戸からも見物客が、来訪しました。当時は、舟が交通手段で、小名木川経由で来ました。
当時、境内には、楓の木が多数ありましたが、明治21年1月15日、弘法寺の深夜の火事で、本堂、祖師堂、山門と共に多数失われてしまいました。現在、楓の木は境内には数えるほどしかありません。
広重の「秋94景」の絵(絵#01)描かれた二股の木は「楓」で、画面中央から上部に大きくもみじの葉が描かれています。
この真間の地には、手古那(以下手児奈と記す)姫伝説が伝わっています。手児奈姫は、若く美しい娘ですが訳あって、自らの命を絶ってしまったというお話です。伝説とは言え、その霊を慰めるお堂が、真間にあり「手児奈霊堂」と言います。”手古那(てこな)の社”とは、この手児奈霊堂のことです。
広重の絵では、左の楓の幹の向こう側、水辺の傍にあるお堂として手児奈霊堂が描かれています。
※手児奈霊堂の詳細については、文末に、市川市教育委員会の「手児奈霊堂」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
万葉集が作られた頃、真間の入り江の江戸川の口付近には、砂州が広がってました。砂州と砂州を継橋で結んでいました。手児奈姫の伝説と継橋を織り込んだ読み人知らずの歌が万葉集に納められ現在まで伝わっています。
広重の絵で、継橋は画面の中央に、小さく描かれています。
※継橋の詳細については、文末に市川市教育委員会の「真間の継橋」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
2011/12/4(日)取材
今回は、名所江戸百景シリーズです。”真間(まま)の紅葉”とは市川の真間(地名)のことで、ここにある日蓮宗の真間山弘法寺(ぐほうじ)が舞台になっています。一週間前(11月27日)にも取材に行きましたが、時期が早かったとためか、主要テーマのもみじが色づいていなかったので”名所江戸百景シリーズ”にはしないで、きたろう散歩としてアップしました。
#01、真間の紅葉手古那の社継はし(広重画)(秋94景)
安政4年(1857)正月
さて、”真間の紅葉”ですが、真間はこの辺の地名で、現在もこの地名は残っています。因みに、”まま”とは崖のことで、昔、この辺は江戸川から入り江が入り込み、崖状の地形があったので、真間という地名になりました。
真間の弘法寺は、江戸時代から紅葉の名所として知られ、秋の紅葉狩りシーズンには、江戸からも見物客が、来訪しました。当時は、舟が交通手段で、小名木川経由で来ました。
当時、境内には、楓の木が多数ありましたが、明治21年1月15日、弘法寺の深夜の火事で、本堂、祖師堂、山門と共に多数失われてしまいました。現在、楓の木は境内には数えるほどしかありません。
広重の「秋94景」の絵(絵#01)描かれた二股の木は「楓」で、画面中央から上部に大きくもみじの葉が描かれています。
この真間の地には、手古那(以下手児奈と記す)姫伝説が伝わっています。手児奈姫は、若く美しい娘ですが訳あって、自らの命を絶ってしまったというお話です。伝説とは言え、その霊を慰めるお堂が、真間にあり「手児奈霊堂」と言います。”手古那(てこな)の社”とは、この手児奈霊堂のことです。
広重の絵では、左の楓の幹の向こう側、水辺の傍にあるお堂として手児奈霊堂が描かれています。
※手児奈霊堂の詳細については、文末に、市川市教育委員会の「手児奈霊堂」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
万葉集が作られた頃、真間の入り江の江戸川の口付近には、砂州が広がってました。砂州と砂州を継橋で結んでいました。手児奈姫の伝説と継橋を織り込んだ読み人知らずの歌が万葉集に納められ現在まで伝わっています。
広重の絵で、継橋は画面の中央に、小さく描かれています。
※継橋の詳細については、文末に市川市教育委員会の「真間の継橋」の説明板の文を載せましたので、ご覧ください。
手児奈霊堂 奈良時代のはじめ、山部赤人(やまべのあきひと)が下総国府を訪れたおり、手児奈の伝承を聞いて、 われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきどころ) と詠ったものが万葉集に収録されている 手児奈霊堂は、この奥津城所(墓所)と伝えられる地に建てられ、 文亀元年(1501)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀 る霊堂として、世に広めたという。 手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のため 人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の 入り江に身を沈めたとか、継母の仕え真間の井の水を汲んでは孝養を 尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の 国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが 生れ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に司える巫女であったり する等、いろいろと形を変えて伝えられている。 万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、 市川市における文学のふる里であるともいえる。 昭和58年3月 市川市教育委員会
真間の継橋 その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂洲と の間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に 向って奥深い入江ができていた。この入江を『真間の入江」とよ び、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた 片葉の葦 やスゲ等 が密生していた。 国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道 は、市川砂州上を通っていた。砂洲から国府台の台地に登る間の、 入江の□には幾つかの湖ができていて、その洲から洲に掛け渡さ れた橋が、万葉集に詠われた『真間の継橋』なのである。この継橋は 足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ (足音せずに行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋をいつも手児 奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの 歌ではあるが、当詩の都びとに’まで知れわたっていたのである。 この真間周辺には継橋をはじめ、手見奈の奥津城(墓)、真間の 井など、万葉集に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経 つにつれて、人びとの間から忘れ去られていくのであるが。これ を憂えた鈴木長頼は、弘法寺の十七世日貞上人と議して、元禄九 年(一六九六)その地と推定される位置に碑を建て、万葉の旧跡 を末永く顕彰することを図った。この碑がいまに 残る 真間の三碑 である。 昭和五十八年三月 市川市教育委員会
2011-12-11 23:42
nice!(1)
コメント(1)
レッドさん、nice!ありがとうございます^-^
by きたろう (2011-12-17 05:43)